(先週の説教要旨) 2013年10月27日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「共同体から断たれて」 レビ記7章22-27節
救われているとは、居場所がある、役割がある、つながりがある状態だと言えないだろうか。一人の人間として承認される。生きていいんだ、そのままでいいんだ、あなたは愛されている存在なんだ。あなたはあなたでいいんだという、人間の尊厳が取り戻される。そこに生きる希望が与えられ、感謝と喜びと賛美が生まれる。
今日の聖書個所では、そのつながりが断たれることを恐れるイスラエルの民たちのことが書かれている。イスラエルの人々にとって、その民のうちから断たれるということは、何よりも恐れられたことであった。なぜならば、神の祝福の約束は個人にではなく、イスラエル民族に与えられたものであったからである。そのゆえに、彼らにとって、その民から断たれ、イスラエルに居場所が無くなるとき、彼らはいろいろの契約に縁がなくなるのである(無縁、つながりがない)。それは彼らにとって最大の恐れであった。
神の約束が個人にではなく、イスラエルの民に与えられた、ということは、旧約の時だけではなく、新約の時代においても同じである。主イエスがその弟子を選ばれた時、十二人をお立てになったということも、「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(マタイ19:28)と言われたことも、主が目指されたものが新しいイスラエルであったことを示しているだろう。また新約聖書で「教会」と訳されている言葉は、「エクレシア」というギリシア語であるが、これはヘブライ語の「カーハール」、集められた神の民、イスラエルを指す言葉の訳語である。このことは新約の時代における教会は明らかに旧約のイスラエルを受け継ぐものであることを示している。すなわち救いの約束は教会に与えられているものである。このゆえに教会の他には救いはないという命題は真実である。
私たちは信者になる時、信仰を告白して、バプテスマを受けるが、このことによって私たちは教会に受け入れられるのである。そして、以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである(エペソ2:13)。
ところが、私たちは時々教会生活の煩わしさを嫌い、教会から離れることを願うようなことがある。確かに教会生活は煩わしい。ひとりで信仰生活をしていたらどんなに楽しいだろうかと思うことがある。しかし、救いは私たちが自分の信仰によって獲得するものではない。それは一方的に与えられるものである。そしてこの救いが教会に与えられているとすれば、およそ、教会を離れた信仰はまったく無意味であると言えよう。
イスラエルの人々が、その民から断たれることを恐れたように、私たちも、教会の外がどんなに「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われ」でも、教会から断たれることを、離れることを求めてはならない。「ある人たちがいつもしているように、集会をやめることをしないで互いに励まし」(へブル10:25)と勧めているが、教会に留まって、その救いを待ち望みつつ生きる者となろう。
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