平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

 「喜びゲーム」をしよう

2011-05-30 15:22:15 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年5月29日 「喜びゲーム」をしよう

 聖書の中には「喜び」という言葉が800回も出てきます。世の中でよく「うそ八百」と言いますが、聖書の中に「喜び」という言葉がそんなにたくさんあるとは、うそみたいな話ですが……。

 『少女パレアナ』という小説があります(エレナ・ポーター著、村岡花子訳、角川文庫)。テレビでも「愛少女ポリアンナ」という題のアニメが放映されました。
 
 その中で、牧師をしているお父さんの発案で、彼女は「喜びゲーム」というのをやります。いろいろな悲しいことや辛いことがあると、それを喜びに変えていくのです。事の始まりは、まだ幼かった頃、クリスマスプレゼントにお人形が欲しいというのに、送られてきた慰問箱の中に松葉杖が入っていたのです。ワーッと泣いたポリアンナにお父さんが、「良かったこと探し、喜びゲームをしよう。松葉杖でうれしいなあということは何かない?」と聞きます。幼い彼女はしばらく考えて、「私ね、今この松葉杖を使わなくてもいい丈夫な足があるわ。うれしいわ」と言って喜ぶのです。

 やがて、彼女は両親が亡くなり、親戚のおばさんに引き取られていきます。そのおばさんは金持ちでしたが心の冷たい人でした。しかしポリアンナは、暮らし始めた町全体を喜びゲームで満たします。そして、ついにはそのおばさんまで喜びゲームで幸福にするというストーリーなのです。逆境の中でも喜んでしまうことで、活路を見いだしていくというわけです。

 聖書は私たちに「いつも喜んでいなさい」と勧めています。どこかの壺を買えとか、お百度参りをしろとか、難行苦行をしろとか、ぜいたくはするなということではなく、ただ「喜べ」という、非常に肯定的、前向き、そして楽観的なことを神は命じているのです。それもタダです。いつでもどこでも出来ます。「笑いの門に福来る」ということわざがあるように、神の祝福があることまちがいなし。喜びゲームを始めましょう。

私たちを通して働かれる神

2011-05-26 11:40:23 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年5月22日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「私たちを通して働かれる神」 使徒言行録21章17-26節
      
 パウロはエルサレムに着くと、ヤコブと教会の長老たちに「自分の奉仕を通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明し」た(19節)。パウロは、わたしが神を信じてこういうことをした、と言うのではなく、神が私たちの働きを通してこういうことをしてくださった、と言うのである。主語が誰であるか。これは私たちの信仰にとって大切なことである。私たちはともすると、私が神を信じることによって、このようなことをしたと言ったりする。しかし、そうではなく神が自分を通してなさったことを語るのではなくてはならない。

 神が働かれる、といっても、だから私たちは横になって昼寝してよいということではない。神が私たちを通して働いてくださるような働きを、私たちがしなければならない。それは私たちが神の言葉に忠実に従っていくということである。神の言葉への聴従である。そういう意味で、私たちの信仰生活は、神が私たちを通して人々の間で御業をなさる鍵なのである。その神の働きはまた私たちの思いを超えて働かれる。それに応えることである。

 パウロの報告を聞いた後、「人々は皆神を賛美し」た。そして、パウロに、いろいろな方便や工作をしてユダヤ人の誤解を解くようにすすめた。神がパウロの働きを通して栄光をあらわされた、と神を賛美したのだから、この問題も神に解決してもらうのを待てばよかった。それなのに、神をほめたたえたあとで、人間的な工作、方便を考えたのである。

 これは、神を賛美する、神に栄光を帰す、ということが自分のことになっていないと言えば言い過ぎだろうか。自分のこととなるとたちまち態度を変えて、神を忘れるのである。エルサレム教会の中心となっていた人々でさえも陥っていた弱さである。これは何も彼らだけの弱さではない。私たちもその弱さを持っている。私たちが数々犯している罪、誤りの一つがこれである。
ある人の証しだが、「私は信仰を持つまでは、いろいろな願いを持っていたが、結局は自分が願ったようには実現しないものだと諦めていた。期待がいつも裏切られてきたからだ。しかし信仰を持った今はそうではない。私にとって良かれかしと願った通りにはならなかったが、結局は私にとって最も良い結果となっていることに気づいた」と証しされた。

 私たちはいろいろな願いを持つものである。その願いがかなうように私たちは計画を練り、努力を惜しまない。計画がうまく行き、努力が報われて、願った通りに事が運べば、万々歳。しかしままならぬは世の常。思い通りにならないことの方が多い。そのような日々を自分の思いを通すだけで過ごすなら、惨めな自分を抱えるだけになるだろう。

 そのような時、信仰は、もう一つの思いが私を包むことを教える。私の人生は、私だけの思いで動いてはいない、もう一人の方の意思が働く。そしてその意思は常に私を愛するお方のものである。もしそのことに気づくなら、思い通りにならない人生もまた、新しい日々への歩みと変化することだろう。私たちはそのことに気づかされていく。そして、そこに希望を持つことが許され、絶望が希望へ、孤独が共に生きる生活へ、愛されることから愛することへ、受けるよりは与えることへ、そのような人生へと変えられていく。それが私たちを通して働かれる神の業なのである。

サポーティングハウス「ひだまり」

2011-05-23 17:06:58 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年5月22日 サポーティングハウス「ひだまり」

 平塚市で8年間続けてきた野宿者に対する支援活動「平塚パトロール」を通じて感じた緊急シェルターの必要性をもとに、2009年12月平塚市代官町にアパートを借り、活動を開始したサポーティングハウス「ひだまり」。

 私も平パトの仲間から誘いを受け、最初から参加させていただいているが、最初の一年間は活動を軌道に乗せるための組織づくりに苦労した。会則を作り、それに沿って代表、書記、会計など役割を決めたり、口座を作ったり、会報を発行したりしてきた。それも支援活動をしながら後追いのようなかたちでの組織作りだったので、走りながら考えるという感じだった。

 しかし、これまでの2年間の活動は着実に実を結んでいる。今までに路上生活から生活保護を受けて、アパートや施設などに入居した者は17人を超える。ある者は就労へと導かれている。また、農作業を通して生きる喜び、働くことの意欲の喚起を促そうと「ひだまり農園」の活動も始まった。それぞれはまだまだ小さな働きだが、平塚にこのような自立支援活動をする団体があること自体、貴重である。

 具体的な活動を紹介する。①緊急時のシェルターとして利用。②毎月2回の食事会(15名~25名参加)。③毎月2回地域清掃。③緊急時の食料、寝具、衣類、シャワーサービス等の提供。⑤学習会、講演会の開催。昨年はアルコール依存症の学習会を開催。⑥生活相談(生活保護、多重債務、医療,DV、障害認定など様々)。⑦生活保護申請時の居宅として利用。⑧畑作り(ひだまり農園)。⑨生活保護受給者への訪問活動(受給後の生活相談、関係性の継続)。実に多岐にわたる活動である。

 例年教会の中庭で行っているバーベキュー会、今回は6月4日(土)。お手伝いをお願いしたい。カンパも歓迎。郵便振替口座:00270-6-49200 加入者名:サポーティングハウス ひだまり 

信仰は聴くことから始まる

2011-05-18 17:43:25 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年5月15日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「信仰は聴くことから始まる」 申命記6章4-5節

 聖書は私たちに「聞け、イスラエルよ」(シェマー、イスラエル!)と呼びかけている。私たちは全身を耳にして向こう側から響いてくる声に耳を傾け、一心に聞かなければならない。「傾聴」である。耳を澄ませて聞くのである。

 主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と繰り返された(マコ4:9,23等)。ヨハネの黙示録にも「耳ある者は、‟霊"が諸教会に告げることを聞くがよい」(2:7等)と書かれている。

 人間関係において傾聴することの重要性は強調しても強調し過ぎることはないだろう。ホスピスや高齢者のための施設でも最近は傾聴ボランティアが重要な役割を果たしている。この度の東日本大震災でも避難所で同様に傾聴ボランティアが求められている。

 神とのコミュニケーションにおいても傾聴することが最重要である。祈りにおいても、説教の準備においても、牧会、伝道においても、一番重要なことは語ることでも考えることでもなく、聴くことだと思う。虚心坦懐になって、ただ無心に向こう側から響いてくるものに耳を澄ませる。どのような喧騒と混沌の中にあっても私たち信仰者にはそのような姿勢が求められている。「シェマー、イスラエル」である。

 信仰は確かに聴くことから始まる。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)とパウロも語っている。しかし、私たちは聞くことの鈍いものである。黙して聞いているようでも、頭の中であれこれ考えていて案外聞いてない。まして、言葉にならない思いを聞くことなどそうたやすいものではないことは生活体験の中で思い知らされている。相手の気持ちに焦点を合わせて一生懸命聴くということは決して楽なことではない。意識的な訓練を要するだろう。言葉を慎み、無となって相手の心に耳を傾けるよう心がけたいものである。

 神の御言葉を聴くことも同様である。そのためには心のアンテナを神に向けなくてはならない。次に心のダイヤルを神に合わせなくてはならない。しかしそれだけでは、神の言葉は入ってこない。私たちの心の耳を開かなくてはならない。これが難しい。私たちは自分大事さに心を閉ざしがちである。心の奥底をのぞかれたくないからである。

 しかし、心の耳は開かれなければ救い(解放)はない。主イエス・キリストがその息を吹きかけてくださることを通して、私たちの心の耳を開いてくださるよう祈ろう。主は命じられている。「エッファタ(開け)!」と(マコ7:34)。声をかけるのは息を吹きかけるのと同じである。神の霊によって開かれるのである。

 今朝、主イエスによって心を開いていただき、御言葉を聴こう。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。

 「そーなんです」と「あっ、そうか」

2011-05-17 16:26:57 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年5月15日 「そーなんです」と「あっ、そうか」

 人から話を聞いてもらっている時、相手からこちらの思いを十分にくみ取ってもらったと感じると、思わず「そーなんです」という言葉が出てしまいます。すっかり自分の思いが相手に伝わって、ひとりで悩んでいた自分のかたわらに、もうひとりの同じ悩みを共有する存在をもったかのような思いが湧いてきて、気持ちが軽くなるのを感じるでしょう。

 気持ちをよく分かってもらえたというステップを踏んだ者は、次のステップに向かって歩み出します。今までの自分と違う、新しい自分の姿を発見するのです。そうなると、それまでの生き方と違う何かが生まれてきます。その瞬間「あっ、そうか」と言うでしょう。今まで考えてもいなかった世界が自分の中にあることを発見した驚きです。「そうか。こういう生き方もあるのだ」と同じ自分の世界でありながら、今まで見えていなかったものが見えてくるのです。(以上『気持ち整理&生き方発見』賀来周一 キリスト教視聴覚センター 2004 102P引用)

 信仰のありようもこれによく似ています。話を聞いてもらう相手は神さま。何でも話せます。えっ、話す手段ですか?それはお祈りです。「神さま」って、まず呼びかけます。そして、お願いごとやら相談事やら、教えてくださいとか、恵みの感謝だとか、讃美とか、じつにいろいろです。そして、最後に「イエスさまのお名前によってお祈りします」といって、イエスさまのとりなしを信じて祈ります。そして「アーメン」です。アーメンは「このことは真実です。その通りです」という祈る者の意思表明です。

 祈りは神さまとの対話ですから、話すだけではありません。神さまからの声を聴くときでもあります。雑音にじゃまされずに「耳を澄ませて」聴かなければなりません。

 聖書を読んでる時、メッセージを聴いてる時、讃美してる時、祈ってる時、いや道を歩いてる時や仕事や家事をしている時、突然「あっ、そうか」という神さまからの声を聴くことがあります。なんだか嬉しくなったり、胸が熱くなってきたり、ほっとした軽い心持ちになったりします。思わず「神さま、感謝します」という祈りがでます。

 私の重荷に共感し、共に負ってくださるイエスさまにゆだねて歩きましょう。

神の教会に仕える

2011-05-11 17:57:27 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年5月8日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「神の教会に仕える」 使徒言行録20章25-38節

 20:18-35はパウロのミレトスにおけるエフェソ教会の長老たちへの決別説教である。この説教で、パウロは大変大切なことを長老たちに語っている。その中に、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(28節)とある。それは、教会の主催者は、神であるということ。人間の集まり、人間の魅力ではない。私たちが信仰者を作るのではない。私たちはひとりの信仰者をも作ることはできない。私たちは神が聖霊を通して信仰を起こしたもうことを信じるだけである。

 しかし、第一に伝えなくてはならない。パウロは、27節で「神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えた」と言っている。全力を尽くしたということ。しかし、それにもかかわらず、人間の教会ではなく、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」と言う。続けてパウロは、私たちはただそのお世話をするだけだと言う(28節)。
 
 そのためには、「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」(28節)と注意を促す。第一に自分に対して注意してください、言っている。私たちが一番注意しなくてはならないのは、自分に対してである。私たちは、いろいろ人に注意をする。しかし、本当に注意しなくてはならないのは自分ではないだろうか。そうでないと、いつの間にか、有難迷惑のおせっかいやきになりかねない。
 
 第二に、群れのことに気を配ること。この順序を逆にしてはならない。自分に注意しない人は、決して外の人々に注意することはできない。私たちはとかく、この順序を取り違える。そして、最後に「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」(32節)とパウロは言う。群れを、神の言葉にゆだねるのである。つまり「離す」のである。神に向かって離すのである。勝手に放り投げるのではない。

 パウロは、自分がいなくなった後、エフェソの教会に様々な混乱や困難がやってくることを予測していた(29-30節)が、それでも「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねる」と言った。それは、32節にあるように「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができる」と信じていたからにほかならない。「み言葉には、あなたがたを形成し、御国をつがせる力があります」。私たちもこの信仰が求められている。信ずることは、離すこと。そして待つこと。最後に祈ることである。
 
 しかし、それだけで良いだろうか。もう一つ必要なことがある。「労苦して弱い人々を助ける」ことである。その原則は、「与えることは、受けるよりも幸いである」、この主イエスの御言葉に尽きる。私たちは、しばしば貰うことが幸福だと考える。受けてばかりいると、私たちは自分自身駄目になる。何故か。受けることは、いつも受身で、そこには、自分が形成されず、かえって、衰えてしまうからである。
 
 教会の中にあっても、自分が取ること、何かを受けることを当てにした生き方をしてしまう危険がある。与えられるものが無くなれば去っていく。だが、パウロは、教会に生きるということは与えること、これに徹して生きることが、どれほど幸いであるかを知ることだと言うのである。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」につながる私たち一人一人も与えることによって、神の命に生きる、神の愛に生きる、そのように聖書は私たちに語っている。神の教会に仕える、隣人に仕える。それに徹しよう。

感動したコンサート

2011-05-09 06:59:57 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年5月8日 感動したコンサート

 1月より祈りつつ準備をしてきました5月1日のコンサート。皆さんの祈りと奉仕によって、よい準備とお誘いが出来ました。感謝します。来られた方々も大変感動され、喜んでおられました。その一端をアンケートから見ることができます。一部紹介して、恵みを分かち合いたいと思います。

 遠路はるばる日本までおいでになり、素晴らしい演奏を聴かせて頂いたことに感謝を申し上げます。バッハからは揺らぎない力強さを、フランクからは自由を求める意志の輝きのようなイメージを感じることができました。良心に基づく抵抗に生きているアムネスティの救済対象者がコチさんの演奏に慰められ、励まされることを願っています(男性)。
 教会の温かい雰囲気の中で素晴らしい演奏をありがとうございました。コチさんの証しに感動しました(女性)。 
 フランクとても良かった。高い音もとてもきれいで、とても楽しめました。あらためて無伴奏の良いところを発見させていただいてうれしく思いました。コチさんのお話で「シンプルな人間」と言っておられたのが心に残りました(女性)。
 このような真近で、チェロの生演奏を聴くことができたことの幸せを感じています。素晴らしかったです!!(女性)。
 チェロのソロ演奏は初めてでしたが、なかなか素敵でした。コチさんの生き方にも感動しました。忘れてきた日本人の心のようなものも感じました(無名)。
 心を込めた演奏で幸せな一時でした。近くで聴くことができてとてもうれしかったです。素晴らしいの一言です。皆様方に感謝いたします。クリスチャンとして世の中を明るくしていく、周りの人に仕えていくお話がとても良かった。素晴らしくて涙が出てしまいました。ありがとうございました(女性)。
 素晴らしい音色に心の底から感じ入りました。ありがとうございました。故郷の災害にて重かった心が軽くなりました。感謝(女性)。
 お話も聞けてとても良かったです。主に仕えて生きる姿に感動しました。神の救い、わたしも感謝します(女性)。

 この他にも多数の感想がありましたが、皆一様に演奏と証しに感動されておられました。証しは力がありますね。