平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

ホームレス支援の炊き出しボランティア募集

2012-05-30 15:42:22 | 平塚パトロール
平塚パトロールは、神奈川県平塚市において、野宿者支援・訪問活動(パトロール)を自発的に行なっている団体です。野宿生活者に対する差別・偏見に抗議し、彼らが人格的尊厳を回復できることを目指しています。

ホームレス支援の一環として、炊き出しを行います。そのボランティアを募集しています。
お手伝いしてほしいのは、調理(40人分)、会場準備(テーブルやイス出し)、配食係、片付け(テーブルやイス)、衣類などの提供のお手伝い。お手伝いできる方は下記にお問い合わせください。今後は月1回定期的に炊き出しを行う予定です。7月からは第3木曜日。

日時:6月14日(木)10時…調理準備、11時…会場準備、衣類提供 12時…配食 13時…片付け 
場所:平塚バプテスト教会中庭(調理は教会の台所)、雨天時は教育館で実施。
   平塚市豊原町4-5(済生会平塚病院斜め前) 
   電話:0463(33)2320(杉野) 

特別伝道礼拝のご案内

2012-05-30 15:10:21 | 教会行事
特別伝道礼拝のご案内
2012年6月10日(日)11時~12時
講師:朴思郁(パク・サウク)牧師(茗荷谷キリスト教会)
大変素晴らしい先生です。ぜひ、お出かけください。
信者、未信者、教会や礼拝に行ったことのない人、どなたでも出席できます。
礼拝中に献金がありますが、各自、ご自由にされてください。

足を進めなさい

2012-05-30 15:01:55 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年5月27日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「足を進めなさい」 出エジプト記14章1-15節
 
 エジプトを脱出したイスラエルの人々は、主の導きに従って、葦の海を前に宿営しているとき、エジプトの王はイスラエル人が逃亡したという報告を聞き、考えを変え、すべての戦車を率いて追ってきた。イスラエルの人々はエジプトの大軍を見て恐れ、モーセに向かって、「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか」(11-12節)と言って、責め寄った。
 
 前には海、うしろには敵、そして彼ら自身の心には動揺、恐れ。まったくの八方ふさがり。しかし、神を信じる者には上があいている。信仰者とはこの世の人間関係、ヨコの関係だけに終始する者ではなく、立ての関係、神と私との関係にも生きる者である。そこに救いがある。
 
 モーセはこの時、民に向かって、(13-14節)「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」と語った。 

 しかし、これこそ、モーセが民に対して語ると同時に自分に対しても語り聞かせ、自らを鼓舞した言葉でもあったのではないか。そしてまた神への訴え、祈りでもあったであろう。その時、主はモーセに、「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい」と命じられる。口語訳聖書では「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい」とある。「進み行かせなさい」、足を進めなさい、である。
 
 「祈ってばかりいたってしょうがない」という人がいる。そうだろうか。この人たちは祈りの体験のない人たちではないか。祈りがどんなに素晴らしい武器か、それは祈りの人のみが知ることである。しかし、祈りは足を止めてなすべきものではない。進み行きながら、御言葉への徹底的な服従の途上においてなすべきものである。「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい」との主の御言葉はまさにこのことを示すものである。
 
 復活の朝、女たちは「だれが、わたしたちのために、墓の入り口から石をころがしてくれるのでしょう」と話し合いながら主の墓に行った、と記されている。このように信仰の途上、様々な障害に悩まされるのは常である。しかし、それがどんなに大きかろうとそこで足を止めてはならない。「足を進めなさい」。その時、あなたは、主の栄光の目撃者となる。
 
 先週の報告総会の時に、「教会の現状維持は後退だ」と話した。今日のメッセージで言うならば、「教会の活動の停滞は後退だ」ということ。常に前進あるのみ。第二テモテ4:2「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」。言い換えるならば、主に期待し、信頼し、進むということ。そこに、神の素晴らしい御業がなされていく。そこに神の栄光を仰ぎ見ることができる。

チャンスの逃す人とは

2012-05-28 07:00:13 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年5月27日 チャンスの逃す人とは

 あるひとつのことに対するものの見方、考え方にはいろいろある。どのように見ていくか、考えていくかで大きく生き方が変わってくる。あなたはチャンスを逃していないだろうか。

 あなたは批判の対象を求めるのか、それとも称賛の対象を求めるのか。たとえば、教会の聖歌隊が、高いレベルの賛美歌を歌った場合、間違ったり、うまく歌えなかったりすると(そういうことはよくあること)、それにとびついてケチをつけるのか、それともうまく歌えたところを取り上げてほめてやり、高いレベルの曲に挑戦したことを評価して励ましてやるのか。

 あなたは人を励ますのか、それとも水をさすのか。一つの活動方針が提案されたとき、あなたはすぐにその困難さを見て、これは不可能だと考えるのか、それとも可能性を見て、やってみる価値があると考えるのか。

 あなたは恵みを数えるのか、それとも不幸を数えるのか。英国のある心理学者のレポートにあった、事故で片腕を失った二人の男の話。片腕を失って一年ののち、その一人はひどく絶望して、こんなハンディキャップがあっては、人生生きるに値せずと結論するに至った。これに反して、もう一人の方は意気軒昂として、腕は一本あればなんでも出来るのになぜ自然は人間に腕を二本与えたのか理解に苦しむ、などといって歩いていた、とレポートにある。あなたは自分がもっているもののゆえに神に感謝しているか、それとも失ったもののゆえに神を呪っているか。

 あなたは困難な状況を災難と見るか、それともチャンスと見るか。ある実業家の言葉。「わたしは危機は好まないが、それが与えてくれるチャンスは大好きだ」。あなたは危機を、座って泣く時と見るか、それとも立って行動する時と考えるか。

 ものごとをネガティブ(否定的、消極的、陰)にとらえるか、ポジティブ(建設的、積極的、陽)にとらえるか、ずいぶん生き方も変わってくるだろう。信仰者の生き方はやはりポジティブでありたい。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(第一テサロニケ5:16-18)。