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平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

他人の靴を履いてみる

2017-01-30 18:12:42 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年1月29日 他人の靴を履いてみる

 「他人の靴を履いてみる」という言葉が英語にあるそうです。人の立場に立って考えるという慣用句です。人の痛みを知るという意味でもあります。痛みは、感性と言ってもいいかもしれません。感性を辞書で引くと、「物事を心で深く感じ取る働き」とあります。それは、一つの出来事について表面的な反応ではなく、一度心でしっかりと受け止めた上で判断することと言えるかもしれません。

 ある人が、サーカスの猛獣使いに「ライオンやトラ、クマなどを従わせることができるのはどうしてですか」と聞いたら、猛獣使いはこう答えたと言います。「それは簡単だよ。ゾウはゾウなりに、トラはトラなりに個性を持っている。それぞれ個性に合った使い方をすればいい。それ以外に方法はない」と。同じように、人を成長させたかったら、その人の長所に一番個性が出るのだから、長所を生かして用いることが大切だということです。その長所を見出すには感性を磨く必要があります。

 聖書の力を信じるクリスチャンは、自分が行くべき方向を、祈りの中で求めていきます。その中で、それまで自分が思いもしなかったアイデアが与えられたり、覚悟が固まることもあります。その意味で、神に聞くという祈りは、感性を磨き、自分のユニークさや才能を発揮するとても良い方法と言えるでしょう。

 あるテーマについて祈り、この方針は神も望むことだという確信を得たら、人間の力がさらに強くなります。神はそういう方法で私たちに責任をとらせて仕事をさせます。だから祈ると決心することができるし、それ以降、心はとてもクリアになるのです。そうした心で行うことは、よき結果に結びつくことが多いものです。

 しかし、結果は神にゆだねるもの。神にゆだねるとは、良い結果が出ても自分の手柄としないということです。同じように、悪い結果が出ても人のせいにしないということです。結果を神にゆだねるということは神への信頼、神への祈りから生まれます。

ストレス対処法としての儀式

2017-01-23 12:33:42 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年1月22日 ストレス対処法としての儀式

 12月25日のこの欄でストレス対処法として「気晴らし」の効用について書いたが、今日はその第2弾で私が以前から「儀式」と呼んでいるものだ。最近読んだ『人生の後半戦とメンタルヘルス』(藤掛明 キリスト新聞社 2016)、にも同じことが書いてあって意を強くした。

 儀式というと形式的で心のこもらないものと考えがちだが、確かにそういうものもある。だが儀式は本来人生において大切なものなのだ。私がまとめて「儀式」と呼んでいるものは生活習慣、恒例行事、記念日、通過儀礼などのことである。

 日常の生活も、朝起きてから夜寝るまで、いろいろな日課(私は儀式と呼んでいる)があり、ほどよいメリハリを与え、心を支えてくれる。私の場合、基本的に早寝早起きを守り、起床後はトイレ、洗面、コーヒーを飲む、カーテンを開ける、着替える、散歩、その後新聞、聖書を読み祈りの時間と続く。そのように朝の2時間が流れていく。これらがスムーズにいくと一日の良いスタートが切れるのである。

 一週間もそう。日曜の主日礼拝から始まり、水曜日に祈祷会、それを軸に例えば月・木曜はゴミ出し、金曜日にお気に入りのテレビ番組を見る、土曜日に週報を仕上げるといったように、一週間の自分のペースを考えながら過ごしている。

 同じように、一ヶ月も、一シーズンも、一年も、それぞれに節目があり、恒例行事があり、誕生日などの記念日もある。このような時こそ、ほどよく立ち止まり、今置かれている自分の状況に思いをめぐらし、振り返ったり実行したりする絶好の機会である。忙しい時ほど、この日常の節目を大切に守ることで乗り切れる。今は忙しくて非常事態だからといって、これらをないがしろにして頑張るというのは実は大変危険なこと。多少無理をしても、いつもの自分のペース、節目を意識的に守ることはメンタルヘルスのうえで大切なことだと言われている。

 杓子定規に考えなくてよい。あまり儀式にこだわると息苦しくなる。要は自分を見失うことのないよう儀式を通して心地よい生活リズムを作るということ。

落合恵子さん その心意気や よし

2017-01-17 15:23:47 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年1月15日 落合恵子さん その心意気や よし

 12月の朝日新聞夕刊の「人生の贈りもの」に落合恵子さんが12回にわたって連載された。その11回目を読んでいた私は思わず「落合恵子さん、その心意気やよし」と叫んでいた。

 もう30年前のことだが、私が勤めていた学校のPTAで彼女の講演会をしたことがあった。担当だった私は役得で校長室で親しく懇談したのだが、その時の彼女の態度が突っ張っているというか、少し生意気な態度に好感が持てなかった。彼女の本『合わせ鏡』も読んでみたが、当時の私には響くものがなかった。そういうわけで、実は以前から彼女のことはあまり好きでなく、評価していなかった。

 ところが、今回の連載で、彼女はその後、様々な苦労や試練を経験しながら大きく成長していったことが分かった。東日本大震災で、「私は後悔に打ちのめされました」と告白している。1986年のチェルノブイリ事故後、反原発の立場から彼女はそれなりに活動していたのだが、十分に持続できなかったからだと言い、「もう二度と言い訳は許されない」と、自分と約束をした、というのだ。それ以後彼女は「原発とエネルギーを学ぶ朝の教室」を始め、既に77回を数えるという。

 「脱原発と反戦を唱える二つの団体の呼びかけ人に名を連ねたところ嫌なメールや電話が続きましてクレヨンハウス(彼女が主宰している子ども書店)は子どもたちが大勢遊びに来られるので、お客様に何かあったらと怖くて、何度も悩みました」と語っているが、昨年の安保法成立の直前には国会前デモで演説もしている。

 さらに彼女は次のように語っている。「『幸せ』と呼ぶものがあるとしたら、それを阻むカラクリに気づくことから始めたい。見渡せば、いつも支配される者同士が対立させられています。それを火の粉が及ばない所であぐらをかいて眺める人がいる。権力を『対峙するもの』として闘った結果、私たちは負け続けてきた。焦燥感があります。でも敗者の痛みに想像力を持って学びたい。勝敗という単純な構図を超えたいのです」。その心意気やよしと叫びたくなる言葉ではないか。

讃美歌 神ともにいまして

2017-01-10 07:36:19 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年1月8日 讃美歌 神ともにいまして

 昨年のクリスマスの日(12月25日)、朝日新聞一面のコラム「折々のことば」(鷲田清一)に「God be with you till we meet again」讃美歌405番が取り
上げられていた。これは「神ともにいまして」という題でよく知られている。さっそく当日のクリスマス礼拝の説教でこのコラムのことを話したので重複する部分があるが紹介したい。

 この讃美歌は米国の牧師ジェルマイヤ・E・ランキン(1828-1904)が1880年に作詞したものだ。本来送別の歌なのだが、日本の教会では葬儀の時によく歌われる。でも、かつては同信の友や家族が地方から上京する時など、駅のホームで歌って見送ったという。

 「送別の歌なのに長調なのが不思議だった」とあり、今まで気にもしなかったが、言われてみれば短調ではなく長調である。しかし、作られた米国では、繰り返しの部分が、情感深く、極めて感傷的に歌われたため、歌集から削除されたり、繰り返しの部分が省略されたり、曲を変更されたりしたという。だが、抗議の声が多くあり、原曲に戻されたという逸話もある。

 「送別の歌なのに長調なのが不思議だったが、悲しみの淵に沈む人を支えられるのは、信仰と希望と連帯だからだろう」とある。確かにそうだ。しかし、「信仰と希望と…」とくれば、次は「愛」だろうと思ったが(第一コリント13:13)、「連帯」も悪くない。「神ともにいます」はヘブライ語で「インマヌエル」(イザヤ7:14、マタイ1:23)で、愛の神の本質を言い表しているからだ。愛の具体的なあり方のひとつは共に生きる、寄り添う、連帯である。

 鷲田氏はさらに「英語のGoodbyeはこのGod be with youが縮まったもの」であったと書いているが、確かに作詞者ランキンはそのことをふまえ、その言葉の意味を丹念に考えながら作詞したと伝えられている。ヘブライ語の「シャローム」は「神の平安があなたに」という意味だが、それが今でも挨拶語として使われていることもあわせて紹介したい。 

 *『讃美歌略解』(日本基督教団出版局1954)と『讃美歌21略解』を参考にしました。


袴田巌~夢の間の世の中~」平塚上映会のご案内

2017-01-04 19:42:30 | その他
袴田巌~夢の間の世の中~」平塚上映会のご案内

日時:2月18日(土) 13時30分~15時30分
場所:平塚市中央公民館大ホール
前売券:1000円 当日券:1300円 高校生以下:800円
チケット問合せ:小池090-2532-6796 小林090-8023-3330