平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

地域の皆様に感謝、教会バザー

2014-11-26 17:32:51 | 教会行事
恒例の教会バザーが、気持ちのよい秋日和の24日(月・祝)に行われた。
物品の提供や当日のお手伝いなど、地域の方々のあたたかいご協力に感謝します。
おかげさまで、大勢の方々が来られ、バザーを楽しんでくださいました。
収益金は東日本大震災復興支援金をはじめ福祉団体などにすべて寄付させていただきます。
来年もよろしくお願いします。感謝。

山に登れ

2014-11-26 17:24:32 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年11月23日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「山に登れ」 民数記27章12-23節

 神はモーセの死期の迫った時に、アバリムの山に登って、イスラエルの人々に与える地、すなわち、主が約束された地を見なさいと言われた。聖書には「山」がよく出てくる。アブラハムがイサクを捧げるために登った山はモリアの山であり、そこで神の現臨にふれたのだった。また、モーセが神から十戒を授かったのもシナイ山であった。新約の時代の主イエスが山上の説教をされたのも、ご自身が変貌されたのも山の上であった(マタイ17:2)。そのように、聖書では山は神との出会いの場所である。だから、神殿や聖所などはみな山の上に立てられている。

 創世記19章17節にはソドムから逃れようとするロトに向かって、主は「低地にはどこにも立ち止まってはならない」と言っておられる。この低地という言葉はダンスをするとか、グルグル回るといった動詞から来た言葉だとのことである。従って低地とは惰性に流されていくような生き方をさすらしい。
 
 トルストイは、悔い改めとは回れ右をすることだと言ったそうである。回れ右すれば、今まで右に見えていたものが左に見え、左に見えていたものが右に見える。大切なものと無意味なものとが逆転するのが当然である。ところが、主イエスをキリストと告白しながら、依然として古い生活のときと同じように、私たちの中で価値の転換がなされていないとするならば、それでは回れ右をしたのではなく、あとずさりしていることになる。そんな生活は不安であり、必ずつまずいてたおれてしまうだろう。

 モーセはアバリムの山に登ってはじめて神の約束の地をはっきりと望み見ることができたのである。彼はそれを見てどんなに喜んだことであろう。主は言われた、「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。 山に登った者だけが神の国を見ることができるのである。そのゆえに私たちも、「低地にはどこにも立ち止まってはならない」のである。

 さて、モーセはアバリムの山に立ち、カナンの地を見渡すように命じられた。その地を去ってエジプトへ行き、既に400年を経、とうの昔に彼らの土地ではなくなっていた。その地へ入るには戦って奪い取る以外に方法はない。そこには当然土地をめぐる争いが予測された。勝ち負けが問題になる争いなのだから、何よりも勝つための祈りを神に捧げててもよさそうなもの。しかし彼はそうしなかった。彼は神に向かって「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ」と祈った。勝ち負けを超えて、霊が与えられることを願っているのである。人間が勝ち負けのみを問題にして事を構えれば、人間の思惑が優先する。そうなれば信仰共同体というよりは、人間の集まりになってしまう。霊が与えられるとは、信仰に基づく共同体となることを意味する。信仰共同体は人間の思惑を優先しないのである。

 だから信仰共同体の後継者を選ぶにも、「霊に満たされた人」でなければならない。戦いも「つまり共同体全体は、エルアザルの命令に従って出陣し、また引き揚げねばならない」(21節)とあるように、霊の導きにより、祭司エルアザルの指示に従うよう神は命じる。すなわち、戦いも含めてすべてのことは神の意志(聖霊の働き)を聞きつつ歩んでいくことが求められているということである。これは私たちの信仰生活にも言えることである。人間の思いを超えて、聖霊の働きに期待し、信頼していくことが大事である。

成熟した信仰

2014-11-25 07:36:54 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年11月23日 成熟した信仰

 人間というものはつくづく厄介な代物だ。「何事も心がけ次第」「何事も気の持ちよう」なんて言うけれど、それで解決できることは少ない。それもそのはず、人間は心理的に生きているだけではないのだから。

 私たちが心身や生活に関わる問題を抱えたとき、今後どのように、この社会の中で生きるかが課題となる。心理的にはもちろん、社会的、文化的、経済的、生物的な面も含めながら、これからの生き方を探りださねばならない。

 ホームレスや社会的弱者の支援をする時、「見立て(診立て)」が大事だと言われる。当事者にとって、今何が必要なのか、どのような支援をすればいいのかを見極めていくこと。それを見誤ると解決へとはいかない。お金なのか、病気を治すことか、悩みを聞いてあげることか、法的解決が必要か、伴走の必要な援助かなどなど。当事者が考えていることと支援する側との食い違いも多い。しかし、最終的には当事者自身が決めて、問題解決に努めるよう励ます。

 しかし、それだけでは終わらないのが人間。人間はさらに生きる上での意味を求める。意味なくして生きることはできないからである。意味を求める、それは極めて実存的であり、宗教的なことでもある。

 そこに求められるものは成熟した信仰である。信仰は溺れる者はわらをも掴む式の生き方を提供するものであってはならない。だから、ホームレス支援であれ、社会的弱者支援であれ、大震災支援であれ、そこに宗教(信仰)を持ち込まない。信仰は生きるための究極的な意味を与えるものである。狭い、偏見に満ちた宗教的信心ではなく、この現実社会のなかで包括的な態度(究極的には生と死を包括する)を持ち、成熟したライフスタイルを獲得して生きることを提供する信仰でなければならないだろう。成熟した宗教は、信仰を通し安定した生き方を教えるものである。

 『気持ち整理&生き方発見』(賀来周一著 AVACO 2009)9pを一部引用しました。



聖霊の賜物とは

2014-11-20 14:59:51 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年11月16日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「聖霊の賜物とは」 コリントの信徒への手紙一12章1-11節

 ここでパウロは、聖霊の働きの最も根本的なことを語る。それは、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と信仰告白できないということである(3節)。これはとても重要なこと。「イエスは主である」。これは私たちの信仰の根本であり、土台である。この信仰告白の上に、私たちの信仰生活がある。

 なぜ、聖霊の助けなしには「イエスは主である」とは告白できないのだろう。それは極めて困難なことであるからである。「イエスは主である」とは「他のすべてのものを主としない」ということ。しかし、「彼らの神はその腹(彼らは腹を神とし)」(フィリピ3:19)と記されているように、私たちは自分の思いや考えを神としている。自分が大事、あとのことは二の次。自分が何よりも大切なものになっている、腹を神としている。これは否定しようもない私たち人間の有りよう。そのような私たちが、そのことを否定して「イエスが主である」と言うことなど、とてもできるものではないだろう。

 またパウロを見ればわかるのだが、パウロは当時のユダヤ教神学やギリシア哲学の極みまで学んだ人物。しかし彼は聖霊によらなければイエスは主なりと告白できなかった。また彼は他の誰よりもユダヤ教の信仰に熱心な人だった。その熱心さによってもなお、イエスを主と告白できなかった。学問や経験を積んでもダメ、努力や熱心さでもダメ。だから彼は、聖霊の導きによらなければできないと告白したのもうなずけよう。

 逆に言えば、クリスチャンはすべて信仰告白してバプテスマを受けているから、すべてのクリスチャンは全員、聖霊の導きを受けていると言えるだろう。同時に、どんな不思議な霊的経験をしても、「イエスは主である」との告白に導かれないのなら、それは神の霊によるものではないということである。この点、信仰告白している人は例外なく聖霊に導かれていると確信してよいのだし、確信すべきなのだ。そして、その聖霊の働きに信頼し、期待するのである。

 次に、パウロは、聖霊の賜物(カリスマ)の多様性と、賜物が同じ神から与えられていることを教えている。賜物と務めと働きにはいろいろあるが、これらは「同じ霊、同じ主、同じ神」によるものなのである。具体的には、「知恵の言葉、知識の言葉、信仰、病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力、異言を語る力、それを解釈する力」である。

 しかし、そのような霊の賜物に中で、コリントの教会に人たちが最も誇っていた「異言」がこのリストの最後に置かれている。その理由は、「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(7節)ということを強調するためである。

 個人主義的に自分の霊性を誇ったり、他者と比べて優越感を覚えたりすることは、まったく誤った考えであり、むしろ教会全体に益をもたらすという神の目的を自覚すべきだとパウロは主張する。この点、現代の私たちも賜物は異なるにせよ、「全体の益」のために賜物を捧げているかが問われている。11節には、誇るべき理由のないことを、「“霊”は望むままに」霊の賜物を一人一人に分け与えてくださるからだと確認している。その人が優れているからではなく、聖霊のお望みになるままに与えられた賜物なのだ。霊の賜物とはそのようなもの。感謝して用いよう。

長い柄のスプーン

2014-11-17 07:18:02 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年11月16日 長い柄のスプーン

 あるラビ(律法学者)が神さまに、天国と地獄を見せていただきたいとお願いしました。神さまはこの願いを聞き入れて、預言者のエリヤにラビの冒険旅行の案内をするようにお命じになりました。

 エリヤはまずラビをひろびろとした部屋に連れて行きました。部屋の真ん中に炉があって大きな鍋がグツグツ煮えたち、おいしそうなシチューができていました。その鍋を大勢の人が囲み、それぞれが長い柄のスプーンを手にしてシチューをすくっていました。

 でも、そこにいる人は、誰もが青い顔をしてやせ衰えていて、見るからに元気がありませんでした。部屋の中は氷倉のように冷え込んでいました。スプーンの柄が長すぎて、せっかくのシチューを誰も口に入れることができないのでした。

 部屋の外に出たとき、ラビはエリヤに、「今のおかしな部屋はどういうところですか?」とたずねました。「あれは地獄だ」とエリヤは答えました。

 次にエリヤはラビを最初の部屋とそっくりの部屋に連れて行きました。部屋の真ん中に炉があって、やはり火が燃え、シチューのたっぷり入った鍋がグツグツ煮えたっていました。ここでも炉のまわりを長い柄のスプーンを持った大勢の人が囲んでいました。けれどもこの部屋の人たちは互いに話し合ったり、笑ったり、とても楽しそうでした。

 二つの部屋の人たちはどういうところが違っていたのでしょうか?二つ目の部屋の人たちはスプーンを自分の口にもっていかずに、お互いに食べさせあっていたのです。

 「なるほど、ここが天国なのですね」とラビはつぶやきました。(出典不詳)

 『世界中から集めた深い知恵の話100』(編者 マーガレット・シルフ、訳者 中村妙子、女子パウロ会、2005)より掲載。

 この話は他者(隣人)との関係性の問題ですね。他者とどう関わるのか。そのことが他者のみならず、自分をも幸せにする。共に生きることを具体的にわかりやすく教えてくれる寓話です。自己中心的な人には他者は見えてこないのですね。

共にあずかる主の晩餐

2014-11-14 12:12:35 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年11月9日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「共にあずかる主の晩餐」 コリントの信徒への手紙一11章17-26節

 当時のコリントの教会の「主の晩餐」は、日曜日や定められた週日の夕方に、集会場所である信者の家に集まって、持ち寄った食事を共にするという形で守られていたようである。文字どおりの「晩餐」である。

 その晩餐だが、当時はまだ、教会の職制が定まっていたわけでもなく、式文があったわけでもない。主の晩餐の意味も集会の中に根付いていたようにも思えない。だから、かなり自分勝手な仕方で行っていたようだ。そのため、本来の意味をなさない主の晩餐が行われ、それに留まらず、教会に分派争いさえ起こっていたというのである。

 当時のコリントの教会では、「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという」(21節)状態だった。それぞれが勝手に自分が持ってきた食事を飲み食いしていた。分かち合うということがなされてなかったのだ。

 そこで、パウロは主の晩餐について、「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(23節)と言って、主の晩餐について改めてその意味を教えているのである。

 主の晩餐は、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き」とあるように、一つのパン(食事)を分かち合って食べることに意味があるのだから、そんなことでは、「一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはならない」と言うのである(20節)。そして、裕福な者で勝手に食事をする者に対しては、「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」と批判している。主にある一致を喜ぶべき主の晩餐が、分裂を引き起こしているのである。さらに、「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか」(22節)と激しく批判する。主の晩餐は、共に集まって分かち合って食事をすることに意義があるので、食べたり飲んだりしたければ、めいめい自分の家でやればいいではないか、と言っている。

 そして、パウロにとって、主の晩餐の中心は、「主の死」を想い起し、この方が主であることを告げ知らせることである(26節)。パウロの言うこの「死」は、イエス・キリストの十字架の死のこと。主の晩餐は、世間的には屈辱的でしかない僕となって、私たちに仕え、最も弱い無力な犠牲的死をもって、私たちを愛し連帯された方、このキリストが私たちの「主」であることを信仰告白する場である。すなわち、主の晩餐とは、参与する者同士が、社会的な違いや考えの違いなど様々な異質性を超えて、キリストの死を指し示し、互いに連帯し分かち合い、キリストの「体」の肢体として一つであることを示す食事なのである。

 食事の後の杯は「新しい契約」である。主イエスが来られる世の終わりの時に完成する新しい秩序が、杯を飲むごとに確認されるのである。この秩序は、イエス・キリストの十字架の死によって打ち立てられたもの。復活の希望である。

 主イエスが、ご自分の肉と血を犠牲にして「あなたがたのため」に捧げて「新しい契約」を立て、教会をその契約の民としてくださった。その故に私たちはその主イエスの死を「記念」し、思い起こし、感謝と賛美を捧げるのである。そして、主の体と血によってもたらされた神の民の一致を確認するのである。

収穫感謝

2014-11-10 07:07:16 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年11月9日 収穫感謝

 年々盛り上がっているハロウィーン。10月31日の夜、渋谷のスクランブル交差点は仮装した人々で埋め尽くされたという。ハロウィーンは、古代ケルト人が起源と考えられている秋の収穫祭であり、悪霊などを追い出す宗教的な意味合いのある行事であった。それがアメリカで民間行事として定着し、祝祭本来の宗教的な意味合いはほとんどなくなっていったという。

 日本でも、米国からの輸入文化の一つとして、ハロウィーンが知られるようになり、今は単にコスプレイベントで、本来の意味を知らなくても仮装を楽しめる行事となっている。日本ではバレンタインと同じく、もっぱら商業ベースに乗せられてはやっているようだ。

 しかし、収穫感謝というものは古来からどの民族でも宗教的意味合いを持ちながら行われてきた。日本では現在11月23日が「勤労感謝の日」として祝日になっているが、本来は古くから神々に五穀の収穫を祝う宗教行事としてあった。

 「感謝」と題する素敵な文章がある。孫引きだけど紹介したい。「幸せなことがあれば感謝するのは当然ですが、もしそれだけのことなら、感謝とは、自分にとって幸せか否かだけで人生を選別する、まことに身勝手な感情に過ぎないことになります。しかし感謝とは、そんな自分本位の小さな感情ではない筈です。それは、人生の大きな包容の中にある自分を発見することなのです。それは一つの自己発見であって、幸福に誘発された感情ではないのです。そして、幸・不幸を越えて包容する大きな肯定の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょう。感謝する人は逃げない人です。」(藤木正三著『断層 神の風景-人間と世間』から)

 私たちが、今、与えられているもの、またこれまで、備えられてきたものすべてに感謝する心を持つことは、とても大切である。そんな感謝の心が、私たちに生きる力、困難を乗り越えていく力を与えてくれるのではないだろうか。

つながる

2014-11-06 16:19:33 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年11月2日 召天者記念礼拝宣教 杉野省治牧師

 「つながる」 ローマの信徒への手紙13章8-10節

 キリスト教の倫理は、愛と自由であるといわれる。愛とは他者に対するあり方であり、自由とは自分自身へのあり方であるといえるのではないだろうか。

 パウロは10節で「愛は律法を全うする」と言い、他者を愛することがどれほど大きい意味を持つかを強調している。もともと律法は、他者との関係にいくつかの「~するな」との戒めを持っている。パウロはここ9節で「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などを取り上げている。それらの「~するな」に対して、愛は「~しなさい」と結ぶ、肯定的な前向きの戒めである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を肯定的に前向きに捉え直せば、「隣人を愛しなさい」と一つになるのである。その意味を捉えて、パウロは、「愛は律法を全うする」と言っているのである。

 しかし、「愛する」ことは義務ではない。「だれに対しても借りがあってはなりません」とはその意味である。「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作り上げるものである。もし義務で他者を愛するなら、冷たい人間関係が残るだけだろう。

 マザー・テレサは「愛情の反対は、憎しみではなく『無関心』」と言ったが、本当に無視されることほど、人間の尊厳が大きく傷つくことはない。『そんなの、関係ねえ』というフレーズが昔はやったが、現代の日本人は自ら関係を絶つことを望むような傾向にあるように思われる。隣近所の付き合いからはじまって、地域のつながり、職場の付き合い、親戚との付き合い、友だちとの付き合い、様々な付き合いをわずらわしいものと思うような傾向がないだろうか。そのようにして自ら関係を絶っていくことにより、ますます孤立感を深め、人間不信を増長させ、さらに自分自身をも傷つけていく。最後は自己否定へと陥ってしまうということになってはいないだろうか。「だれでもよかった」という殺人容疑者の供述はそのことを物語っているように思う。関係性の喪失の悲劇である。

 以前、カトリックのシスターである弘田しずえさんの講演を聴いたことがある。弘田さんは国際的に世界の平和と人権のために活躍されているシスターである。その弘田さんが講演の中で繰り返し「つながる」ということの大切さを訴えられていた。私はそれ以来、「つながる」ということはどういうことか考えさせられてきた。結論から言うと、それは「愛」の行為の具体的な関わりであろう。先ほど「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作りあげることだと言った。その「温かい他者との関係」がシスター広田しずえさんがいう「つながり」であり、マザー・テレサのいう「無関心」とは反対の「愛情」であり、関係性の構築である。

 そして、その「つながり」は内向きではなく、外向きの「つながり」でなければならない。基本的には教会の置かれている地域につながることが求められる。開かれた教会とは、地域と開かれた関係性をつくっていくことだ。何でつながるのか?金でつながる。そんな金は教会にはない。教会にあるのは「愛」。愛のつながりである。地域に仕える教会として、愛のつながりをつくることが求められている。