平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

二冊の本の紹介 ― 生と死 ―

2011-02-28 07:02:42 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年2月27日 二冊の本の紹介 ― 生と死 ―

 2月11日は建国記念の日だが、私たちキリスト者にとっては、「信教の自由を守る日」である。この日の午後、私はみぞれまじりの冷たい雨の中、日本基督教団の小田原教会で行われた「2・11集会」に参加した。この日は別の要件も重なり遅れて到着した。講師は写真家の桃井和馬氏である。

 桃井氏は牧師の息子で17歳の時洗礼を受けられている。彼はこれまで世界140カ国を取材し、「紛争」「地球環境」などを基軸にしたプロジェクトを通し独自の切り口で「文明論」を展開している気鋭の写真家である。

 遅れたので残念ながら講演の中味はわからないが、その後の質疑応答を聞いていて、大変気さくな親しみやすい人柄と感じられた。講演の後、彼の最新の写真集『すべての生命に出会えてよかった』(日本キリスト教団出版局 2010年)を買った。そこに収められているどの写真も「生きる意志とその意味」を私たちにしっかりと訴えかける。人物や生き物だけでなく、川や海や山の風景の写真さえもそれを感じさせるからすごい。

 彼はあとがきで「自然の中に身を置く中で、次第に私たち人間が、『生かされている』ことを感じるようになったのです。自然という、複雑で大きなメカニズムの一部として生かされている人間、そうであるなら、……宗教や民族で殺し合うのもあまりに空しい。」と書いている。

 「生きること」を問い続ける彼が、同じ2010年の12月に『妻と最期の十日間』(集英社新書)を出版された。これは「死」を見つめる本である。3年前突然、41歳の奥さんが「くも膜下出血」で倒れた。回復の兆しはない。迫りくる妻の「死」を彼自身の精神状態を中心に克明に記録したものである。

 世界中で多くの生と死を見続けてきた桃井氏だが、迫りくる妻の「死」には、ただひたすら戸惑い、動揺し、取り乱すばかりだ。「生きる」以上に「死」は私たちに背負いきれない程の重い現実を突き付けてくる。彼は妻の「その瞬間」までを詳細に記録することで、過酷な現実と向き合おうとする。生と死を考える二冊の桃井氏の本。

愛による完成

2011-02-24 11:58:19 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年2月20日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「愛による完成」 マタイ福音書22章34-40節、出エジプト20:2-17 

 どの宗教にも大黒柱のような重要な戒律がある。ユダヤ教の場合、「十戒」がそれである。似たような戒律はイスラム教や仏教にもある。人類最古の成文法である『ハムラビ法典』(紀元18世紀頃)にも共通の部分がある。その意味では、「十戒」は人類に普遍的な「道徳律」と言えるかもしれない。しかし、ユダヤ教徒はそれを単なる「道徳」としてではなく、それを超えた「神の」命令として受け止めた。この基本理解はキリスト教にも引き継がれている。

 一般的に「戒律」に対して二つの態度がある。一つは自分たちの信じる教理や戒律を「絶対の原理」とする態度である。例えばアフガンを支配していた頃のタリバーンだが、「偶像禁止」の戒律を厳格に守って、世界的文化遺産であるバーミヤンの石仏群を破壊した。この素晴らしい文化遺産の消滅を惜しむ世界の人々の声にも一切耳を貸さなかった。この非妥協的な姿勢が「原理主義」の特徴である。しかし「原理主義」はなにもイスラム教だけに特有のものではない。福音書にしばしば登場する律法学者やファリサイ派は、いわば「ユダヤ教原理主義者」。彼らが真面目であることは疑えない。しかし、まさにその「生真面目さ」ゆえに、生きた人間への配慮と愛を見失ってしまっている。

 しかし、他方、「十戒」を真剣に受け取らず、いい加減に「やり過ごし」たり、まったく「無視」したりする態度もある。アフガンにおける報復の軍事作戦を始める時、ブッシュ大統領は、「死んでいようが生きていようが必ずウサマ・ビンラディン氏を捕えよ」、という西部劇風の命令を発して話題になった。それ以来、「アルカイダの兵士を何人殺した」というような発表が平然と繰り返された。大統領も軍事指導者たちも、さらには、これに圧倒的な支持を与えたアメリカの国民も、その多くはキリスト教徒で、「殺してはならない」という第六戒の存在はよく知っているはずだが、平気で「悪い奴は殺せ」と叫んでいる。つまり、この戒めは無視されているのである。

 おそらく多くの人は、「第六戒は個人間では通用しても、現実の世界政治の中では妥当しない」と考えているのだろう。その上に、「現実は理想どおりには行かない」というお定まりの理屈付けが加わって、簡単に無視されることになるのであろうか。

 私には、十戒を「原理主義的に」理解する頑迷さも、逆にそれを「無視する」いい加減さも正しいと思えない。どこかおかしいと思わされる。この点で、主イエスの「山上の説教」は私たちに重要な示唆を与えてくれる。主イエスは、自分が来たのは律法を「廃止するためではなく、完成するため」であると言い、その「一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:17-18)と明言している。律法の重要性を最大限認めたが、同時に、十戒の条文を「原理主義的に」守ろうともしなかった。むしろ、律法の中で「最も重要な掟」は「神への愛」と「隣人への愛」であるという理解(マタイ22:37以下)に基づいて、「十戒」を新しく解釈しなおしたのである(マタイ5:21以下)。

 私たちが「十戒」を読むとき大切なのは、主イエスが示されたこの道である。「愛」あっての信仰である。私たちの信仰の生活、私たち人間の究極の生き方は「愛する」生活である。

すごろく人生

2011-02-23 17:33:33 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年2月13日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「すごろく人生」 使徒言行録16章1-10節 
 
 「すごろく」というゲーム。さいころを振って、サイの目によって一回休みや回り道へなどとあって面白い。しかし、早い遅いはあっても、かならず上がりとなる。その道中を競いながら楽しむ。人生そうでなければと思うが、現実は遊びと違って厳しい。

 ここでパウロは、しばしば聖霊に禁止され、行く手をさえぎられている。パウロはただただ、ここで北に西にさまよい歩いている。そこではまるで計画もなく、あてもなく歩いているかに見える。しかし、彼はただ足の赴くままにのんきに旅を続けているのではない。五里霧中の戦いを続けているのでもない。彼は妨げられているのである。それは神の「否!」にほかならない。しばしばさまようことさえ神の御手の中にあることを私たちは忘れてはいけない。神が扉を開かないところでは、いかなる人間の熱心もいかなる賢い知恵も力も役に立たない。箴言の21:30-31に「主に向かっては、知恵も悟りも、計りごとも何の役にも立たない。戦いの日のために馬を備える、しかし、勝利は主による」とある。
閉じ込められるのも福音のうち、妨げられることさえも御霊の御業。神はしばしば不確かの闇の中に、その使者を立たせることがある。それは福音の説教が、人間の手の業ではなく、恵みの御業であることが明らかになるためにほかならない。

 パウロは、途上で何度も問うたことだろう、「主よ、一体いつこのまわり道が、一つの道になるのですか。いつこのあてどのない漂白の旅が、ひとつの確かな方向に変えられるのですか」と。けれども、このよく語るパウロは、聞くことを忘れなかった。その聞くことからのみ、真の服従が出てきて、ついに人は慰めに満ちた確信に到達するからである。詩編の119:45に「私は、あなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」とある。

 この夜、パウロは幻を見た。夜それは、しばしば人が道を失い、あるいは多くの人々が歓楽に耽り、またある者は不安におののく時である。時代の夜、不安の夜、人々はなんとそれにおののくことだろう。しかし、人間の計画が崩れる時、神の計画がなるのである。箴言19:21に「人には多くの計画がある、しかし神の御旨のみ、よく立つ」とある。パウロが幻のうちに見た、マケドニア人の叫び「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」。それに応えて、パウロたちはマケドニア州に行く。それは新しい戦いの始まる時であった。福音が初めてアジアからヨーロッパに渡る時、歴史的な時であった。

 「来て、私たちを助けてください」との声を聞いた時、彼らは悟った。「神が私たちをお招きになったのだ」と。「来て私たちを助けてください」との声を聞き、それに従う時のみ、私たちは「神が私たちをお招きになったのだ」という、もう一つの声を聞くことが出来るのである。私たちが妨げられ、邪魔され、行く手をふさがれた時であっても、御霊の助けに素直に従うなら、この声を聞くのである。困難な時、試練の時、苦しい時にこそ神の声を聞くのである。だから私たちはそのような時にあっても、落ち着いて、勇気をもって、いや、神のご計画に期待する喜びをもって立ち向かうことができるのである。

恵みによる救い

2011-02-22 11:21:15 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年2月6日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「恵みによる救い」 使徒言行録15章1-21節 

 今朝の使徒会議の記事から二つのこと、一つは話し合われた内容のこと、二つ目は会議の意義の大切さについて教えられたいと思う。
 
 さて、一つ目の使徒会議で話し合われた内容だが、それは割礼を巡ってのこと。パウロがその働きにおいて最も苦慮し、かつ厳しく対したのは伝統に固執するユダヤ人キリスト者であった。彼らはキリストによる救いを信じ、受け入れたという意味では、確かにキリスト者であったが、同時に選民イスラエルという枠にこだわり、異邦人も割礼を受けなければ救われない、と主張した。救いは恵みによると言いながらも、律法の規定に従わねばならないという考えは、律法主義に道を開くことであり、「恵みによってのみ」という福音の本義をあいまいにすることになる。

 パウロは後に、たとえばガラテヤ人への手紙でも「ほかの福音」(ガラテヤ1:6)「潜り込んできた偽の兄弟」(ガラテヤ2:4)という言葉を用いて、割礼を強要する人々への激しい憤りと挑戦的な姿勢を明らかにしている。それは主の十字架の御業を無駄にする仕業であった。しかしその勢力があなどりがたいことは、あのペテロですら彼らを恐れて、異邦人との食事を避けるようになった(ガラテヤ2:11-14)ことからも十分に推察することができる。バルナバもまた、例外ではなかった。パウロは彼らを難詰している。
 
 割礼問題は異邦人伝道に従事するパウロたちにとって、解決すべき緊急の課題であった。論争に終止符を打つべく、パウロは使徒や長老たちと協議するためにエルサレムに上る。ペテロの弁論は明解である。自分たちが主イエスの恵みによって救われたように、神が異邦人にも聖霊を与え、受け入れて下さったと語るペテロの言葉は、単純ながら事実に基づいているだけに強い説得力がある。
 
 ペテロの弁論とパウロたちの異邦人伝道の報告に続いて、ヤコブが預言者アモスの言葉(アモス9:11-12)を引用してペテロの言葉を擁護し、神に立ち帰る異邦人を悩まさないようにと勧告している。ヤコブは主の兄弟だが、人格的にも初代教会の柱石として尊敬され、重んじられていた(使徒12:17、ガラテヤ:19,2:9)。彼自身はかなり厳格な律法の遵守者であったようだ。ユダヤ人キリスト者サイドに立っていることは否定できないし、伝統を重んじるユダヤ人キリスト者への配慮も必要だったと思うが、20節の言葉からは、なかなか抜け出せない律法の枠が感じられる。ともあれ、ヤコブの言葉は割礼問題に一応の決着をつけたのであった。
 
 二つ目のこと。この使徒会議は、意見の対立・論争を恐れず、むしろ、そのことを通し、キリストの福音を明らかにする作業であったことが分かる。また、異邦人伝道公認のかげに、神の言葉に聞き直すキリスト者の姿勢があったことをも分かる。私たちも会議をする時は常に神の言葉に聞く者となることが求められているだろう。

 教会はその後の歴史においても重要な課題について全教会的な会議を開いてきたし、これからも必要だろう。その場合、使徒会議で示された、神のみ前に全ての者が平等であること、自分が負えないくびきを人に負わせないという姿勢は大切である。また、どこまでも福音の前進という視点から語り合うべきことも教えられる。

東京バプテスト神学校

2011-02-21 17:30:56 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年2月20日 東京バプテスト神学校

 先週の月曜日、神奈川連合の牧師会が湘南台教会でありました。話し合いの主要なテーマは東京バプテスト神学校の経営難についてでした。略して東バプは昨年度より大幅な赤字となり、今年度も同様で、さらに今後の見通しも厳しい状況だということです。そこで東バプの理事会より神奈川連合の支援献金を増額してほしいという要請がありました。それを受けての話し合いでした。

 皆さんは東バプのことをどれほど知っておられますか。私も時折送られてくる入学案内や公開講座の案内などをパラパラと見る程度で実態はよく知りませんでした。他の牧師さんたちも同様のようで、そこで神奈川連合から派遣されている理事の城俊幸牧師(横浜戸塚教会)から牧師会で詳しく東バプの現状について説明を聞くことになりました。

 東バプは1968年に設立され、1988年より北関東、東京、神奈川の三連合立の神学校として運営されています。2000年より神奈川連合から2名の理事を送るようになり、その時から30万円の支援献金を70万円にアップして現在に至っています。今度、さらに30万円増額の100万円の支援要請が来ているわけです。
 
 ところで、「どこに神学校があるの?」と問われる人が多いと思われますが、実は東バプはずっと間借り生活で、今は東京の茗荷谷教会や大井教会で授業を行なっています。土地、建物などの不動産もないので学校法人の申請もできません。東バプは夜間の神学校ですが、現在は通信制もあり、ライブ授業を行っています。2010年度の学生数は44名で、そのうち通信制で学んでいる学生は15名います。昨年、神学校週間でお呼びした足立智幸神学生もそのうちの一人です。

 現在、卒業生で現役の伝道者として働いておられる方は49名です。牧師23名、副牧師6名、協力牧師6名、教育牧師1名、伝道主事2名、教育・教会主事3名、教会音楽主事5名、音楽伝道者3名です。このように多くの伝道者を養成し送り出している東バプです。この働きは今後もぜひ続けてもらいたいと思います。そのためにも現在の経営難の課題を私たちも共有し、祈り支えていきたいと思います。

雪が降る

2011-02-15 07:28:55 | 風景
雪が降る、雪が積もる。だから何?
犬が人をかみついても記事にもならないが、
人が犬に噛みついたら記事になるといわれている。
その理屈で言うと、雪の積もらないといわれている湘南平塚に
雪が積もると記事になるのだ。

三字熟語

2011-02-15 07:10:21 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年2月13日 三字熟語

 先週、相撲の世界では昔から「心・技・体」という言葉が大切にされてきた、と書いたが、そのような三字熟語は他にもたくさんあって、かつて授業でもよく取り上げて教えた。なぜなら漢字に強くなる(イコール国語に強くなる)方法の一つが熟語に強くなることでもあるからだ。皆さん、今パッと頭に浮かぶ三字熟語は何でしょうか。

 私がすぐ頭に浮かぶ三字熟語といえば、教育界でよく使われる「知・徳・体」である。今問題になっているのが「知育偏重」であり、その物指しの「偏差値」教育である。その解決にとはじめた「ゆとり教育」が失敗し、今度はまた全国学力検査の実施である。人間の成長にとって「知・徳・体」のバランスは極めて大事である。しかしバランスの問題だけではなく、その統合こそが人間教育に求められるものであって、それが人格教育とも言われる。

 能の世界では「序・破・急」が基本である。脚本や演出上の区分で、序は事なくすらすらと、破は変化に富ませ、急は短く躍動的に演じる。応用として文章構成としても使う。

 英語版三字熟語(私が勝手にそう呼んでいる)に「プラン(Plan)・ドゥ(Do)・シー(See)」がある。プランは企画・計画、ドゥは実践・活動、シーは評価・反省である。これを繰り返して、実績を上げていくというわけである。

 その他に「松・竹・梅」というのもある。これは昔からめでたいものとされ、飾り物や画題に使われた。また、商品などの等級をつける時に「松」を最上として、次に「竹」、そして「梅」とつけられてきた。「真・善・美」は哲学の世界で追及される命題としてよく使われる。「真理」とは何か、「善」とはなにか、「美」とは何かという具合である。「知・情・意」は知性と感情と意志のことで、人間の精神活動のすべてをさす言葉としてある。「天・地・人」「雪・月・花」などまだまだいろいろある。

 信仰の世界ではといえば、やはり「信・望・愛」(第一コリント13:13)だろう。愛は「すべてを信じ、すべてを望む」(13:7)と言われているように、信仰も希望も愛に結実する。キリスト教が愛の宗教である言われるゆえんである。

大相撲の行方

2011-02-09 09:52:59 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年2月6日 大相撲の行方

 小学生の頃、大相撲の九州場所が終わると必ず私の故郷山口県の宇部にお相撲さんがやってきた(町の景気が良かったのだ)。子どもの私たちは力士が泊まる旅館を巡りあるいて(玄関に宿泊の力士名が張り出されていた)、人気力士のおっかけをしたことがなつかしい。子どもの頃は栃・若全盛時代でテレビ中継にくぎづけだった。見るだけではない。何かというと相撲を取って力を競い合った。

 その大相撲、日本相撲協会も土俵際に追い込まれた。大相撲の根幹を揺るがす八百長問題である。今まで週刊誌などで八百長疑惑が報じられても協会側は一貫して否定してきた。しかし今回は警視庁の捜査であり、力士らの携帯電話に記録が残っている。相撲ファンとして今後の行方が気にかかる。

 相撲の世界では、昔から「心・技・体」という言葉で表わされるように、強いだけではなく、「心」のあり方を大事にしてきた。今はやりの言葉で言うなら「品格」が求められてきた。元横綱朝青龍が辞めざるを得なくなったのもこの「品格」のなさだった。

 だから相撲はスポーツではあるが、相撲道といわれるように、勝っても負けても、礼に始まり礼に終る「道」なのだ。その精神は相撲の発祥といわれる神々を喜ばすために奉納された神事からきている。相撲は神事なのだ。横綱の締めているのはしめ縄の一種であり、行司の軍配には「天下泰平」と記されている。だから、ただ単に強ければいいというわけにはいかない。

 一方で、「昔から星のやり取りはある。相撲なんてそんなもの」という冷めた見方もある。また力士はタニマチと呼ばれるひいき筋に連れられてお座敷などに出入りしたので「男芸者」と呼ばれたりした。相撲は興行(見世物)でもあるので、今でも土俵入りなど勝負に関係のないセレモニーを大事にしている。

 よって私の相撲の理解は、神事であり、興行(見世物)であり、相撲道であり、スポーツなのであって、それらがうまく絡み合ってこそ相撲の醍醐味なのだと思っている。とはいえ、土俵上での真剣勝負があってこその相撲である。この土壇場で「心・技・体」の「心」が問われている。真剣な仕切り直しを期待している。