平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

収穫感謝に思う

2016-11-21 14:57:12 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年11月20日 収穫感謝に思う

 秋は実りと収穫の季節です。私たちの教会では11月の第3主日を収穫感謝の礼拝として守り、感謝の食事会をします。教会でのこの習慣は、直接的にはアメリカの教会から伝えられたものです。

 北アメリカに移住した最初のピューリタン(清教徒)たちは厳しい自然環境の中で、先住民の援助を受けながら移住地での最初の収穫の季節を迎えました。それまでに死んだ多くの仲間がいたと言われます。しかし彼らは、最初の収穫を得た時、それを捧げて神様に感謝しました。季節は11月の下旬で、以来アメリカの教会ではこの時期に収穫感謝祭を祝うようになりました。

 しかし、収穫感謝祭は、もっと広く多くの教会で、古くから祝われてきました。ヨーロッパやイギリスの教会では9月下旬に祝っています。さらに言えば、すでに旧約聖書の時代からイスラエルの民は収穫感謝祭を祝っていました。ペンテコステ(五旬節)の祝日は聖霊降臨日になる以前は小麦の収穫感謝の日でした。

 「感謝」と題する素敵な文章があります。以前紹介したことがあるものです。「幸せなことがあれば感謝するのは当然ですが、もしそれだけのことなら、感謝とは、自分にとって幸せか否かだけで人生を選別する、まことに身勝手な感情に過ぎないことになります。しかし感謝とは、そんな自分本位の小さな感情ではない筈です。それは、人生の大きな包容の中にある自分を発見することなのです。それは一つの自己発見であって、幸福に誘発された感情ではないのです。そして、幸・不幸を越えて包容する大きな肯定の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょう。感謝する人は逃げない人です。」(藤木正三著『断層 神の風景-人間と世間』から)

 私たちが、今与えられているもの、またこれまで備えられてきたものすべてに感謝する心を持つことは、とても大切であります。そんな感謝の心が、私たちに生きる力、困難を乗り越えていく力を与えてくれるのではないだでしょうか。

残り柿

2016-11-14 15:48:06 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年11月13日 残り柿

 晩秋を迎え、教会の庭の柿の木も豊かな実りをもたらしました。何の手入れもしないのに、たくさんのおいしい柿の実をいただいていると申し訳ない気持ちになります。誰に対して申し訳ないのだろうか、とふと考えたりします。

 毎年、柿を収穫する時、3,4個ほど柿の実を残します。それは、餌の少ない冬場に鳥たちの食物になります。それを「残り柿」というそうです。このような心やさしい風習があることを知ったのは大学生の時でした。

 大学の恩師、古田拡先生(児童文学者、国文学者)の中学教科書にも載った随筆『残り柿』を学んだ時でした。その随筆は、四国の寒村(古田先生の故郷)の晩秋の風景がつづられ、村の人々が自分たちのひもじさを我慢しながらも、鳥たちのために柿の実を残す風習がつづられていました。

 都会育ちの私には鳥のことなどに思いいたりません。実ったものは全部収穫するのが当然と考えていたので、そのような心貧しい、想像力の欠けた自分を恥ずかしく思ったことでした。

 聖書にも同じようなことが書かれています。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(レビ記19:9-10、申命記24:19-22参照)。

 いわゆる落ち穂拾いの規定であります。収穫物の一部を寄留者、孤児、寡婦と分かち合うべきであるというのです。これら三者は農地を持てず、生活上不利でありました。古代社会なりの一種の社会保障であります。その動機は、出エジプトという救済史の出来事にあります。さらに、この規定には、土地は神のものであり、土地所有者も土地を持たない貧しい者も共に神の恵みに与るべき、という思想があります。共に生きるという原点でもあります。

 柿の実は収穫の主、神に感謝して共に分かち合って食べたいと思います。

聖書の「神」ってな~に?

2016-11-10 16:27:08 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年11月6日 聖書の「神」ってな~に?

 今回は当教会の信仰告白の第2項「神」について。聖書のいうところの「神」ってな~に?と問われても、そう簡単にうまくまとめて言えるものではない。そもそも聖書は「神」について書かれた書物なのだから、最後はご自分で聖書全体を通して読まれることをお勧めします。

 当教会の信仰告白「神」の項目「イエス・キリストにおいてご自身を啓示された生ける神こそ、父、子、聖霊として働かれる唯一の全知全能の神である。神は、愛と恵みとをもって天地を創造し、これを支配される。」

 前回の「聖書」の項目の時にも書いたが、信仰告白の文言はすべて聖書のみ言葉に根拠づけられて作られているので、今回もできるだけ根拠となるみ言葉を紹介して、聖書の「神」ってな~に?の問いに答えてみたい。

 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」(Ⅱコリント13:13)。三位一体の神であること、私たちと共におられる方であることを示している。

 次のマタイ福音書1:23はそのことを提示する。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。神の愛についてはⅠヨハネ4:12が有名。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。神が私たちに内在する(共におられる)方であり、愛の方であることがわかる。

 その神の愛ってどんなものなのかを見てみよう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3:16)。神の働きの目的もこの御言葉でよく分かる。この聖句は「聖書の中の聖書」と言われている有名なもの。暗唱されるといいでしょう。以上、ごく一部の参照聖句での解説となりました。