平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

贖罪は救いの道

2013-08-29 15:52:19 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年8月25日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「贖罪は救いの道」 レビ記4章27-31節

 レビ記4章は贖罪の献げ物に関する規定である。贖罪の献げ物は身分によって犠牲の動物が異なっていたが、それぞれにその供え物の頭に手を置き、会見の幕屋の入り口で、これをほふり、贖罪の献げ物として主に献げたのである。その動物の頭に手を置くことによって、彼らすべての罪をそれに負わせ、その死によって彼らの罪が赦されたのである。この贖罪の献げ物の規定は、何を私たちに語っているのだろうか。

 主は、「一般の人のだれかが過って罪を犯し」と言われている。これは気づかずに罪を犯し、後に罪と分かった場合を指す言葉である。主はそのような罪をまで決してそのままで見過ごしにされないことを私たちは忘れてはならないだろう。知らなかった、気づかなかったでは済まないのだ。

 また、「禁じられている主の戒めを一つでも破って」と主は言われた。私たちは神の戒めを、守るべき規範であることを了解しながらも、いつの間にかそれを高い理想のようにしてしまっているのではないだろうか。しかし主はその一つをした時、と言われて、それらは単なる理想ではなく、その一つをも欠いてはならない現実の問題であると示しておられることを見過ごしてはならないだろう。こんなことぐらい、こんな小さなことはでは済まないのだ。

 最近は減ってきているが、悲惨な交通事故は後を絶たない。そこで、交通安全のために多くの規則ができている。一年間に6千人もが交通事故死、百万人近い人がケガにあうという現実は、私たちに交通規則に対する大きな関心を抱かせている。それは私たちの死ということにつながっているからである。一つ間違ってしまえば、大事故につながる。それは自分だけではなく、多くの人をも不幸にする。だから、もはや知らなかった、うっかりしていた、と弁解などできない事柄である。その一つをも私たちは軽視することができないだろう。

 ひるがえって、私たちは主の戒めに対して、はたしてこれほどまでの緊張感を持っているだろうか。交通規則の違反が死につながっているように、罪を犯し、主の戒めに背いて、その一つをもなおざりにするとき、私たちは死につながっていることを覚えるべきである。

 イスラエルの人々に、神が贖罪の献げ物を求めたのは、そのような彼らへの救いの道を示されたのである。このことは現代の私たちにおいても同様である。あの神の子キリストの十字架の死という事実、ある人々は十字架にかけられて殺されたような者を拝むところにキリスト教の邪教性があると宣伝しているようだが、まさにそれゆえにこそ、私たちは救われているのである。キリストの頭に手をおいて、私たちの罪をすべて負わせて、その死によって私たちの罪が赦されているのだ。この方法によるしか、私たちの救いはないことをこの贖罪の献げ物の規定は示している。   

 私たちは日ごとに十字架の主を仰ぎつつ、罪赦された恵みに生かされようではないか。救われた罪人、罪赦された者としての自覚に生きることが求められている、と言えるだろう。

神の国で食事をする人

2013-08-29 15:17:20 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年8月18日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神の国で食事をする人」 ルカによる福音書14章15-24節

 「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き」とあるが、「ある人」とは「神」のことであり、「大勢の人」とは神から選ばれたイスラエルの人々と考えられている。宴に招かれるということは、大変名誉なこと。神はイスラエルの民を宴会に招き、神の召しに応じるように備えてくださったのだ。

 ところが、招かれていた人たちが、「皆、次々に断った」というのだ。この人たちの断りの理由は、それぞれに故なきことではない。彼らは安易に、勝手気ままに断ったのではなく、断らざるを得なかったのだ。しかし、その断りの根底には、相通じるものがある。それは「自分の財産を増やすこと」、「自分の生活を安定させること」、「自分の生活を楽しむこと」。そこに共通しているのは「自分のこと」「自分の利益」「自分中心の判断」がある。自分中心に物事が判断されるところでは、神の招きは拒否されるほかない、と聖書は語っているのだ。宴会に招かれた人たちは、神の言葉より、自分の願いと思いを優先させた。そして、主の招きに応じることができなかったのだ。

 さて、このたとえ話の最後の言葉は、随分厳しいものである。「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」。自分たちは神から選ばれた神の民だと誇っていたイスラエルの民は、主の食事を味わうことはできない、と主は言われるのである。私たちが、自分のことを第一に考えて、自分の利益を優先して考える限り、私たちもまた、招きに応えることはできない。目の前のことにのみ心を奪われ、自分の利益にのみ目を奪われている限り、神の招きは私たちを通り過ぎて行く。

 私たちにとって、本当に大切なものは何だろうか。表面的な栄光を求めて、真実なものを見落としてはいないだろうか。多くの物を持ちながら、真実に大切なものを失ってはいないだろうか。楽しみに心を奪われ、私たちを真実に生かすものを見逃してはいないだろうか。

 主イエスは、「私は道であり、真理であり、命である、私を通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と宣言された。この招きの重さを、私たちは真実に受け止めているだろうか。豊かな社会の中に生きて、多くの可能性がある社会に慣れ切って、主イエスの招きを、数ある可能性や進路の一つぐらいにしか考えていないとしたら、私たちは重大な誤りを犯していることになる。もっともらしい理由をつけて、口実を設けて断ろうとする私たちに、そこには相通じる一つの思いがあると聖書は告げている。

 自分の生活を安定させ、自分を楽しませ、自分の財産を増やし、自分の利益を第一に考えて、選び取ろうとする限りは、私たちは主の招きに応えることはできない。そして主の恵みにあずかることはできない。

 私たちは、招かれているひとりである。それを受けるのか、断るのか、それは私たちにゆだねられている。自由と愛の中で、主は私たちを招き、応えて従うことを待っておられる。

ピースとハイライト

2013-08-27 07:30:46 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年8月25日 ピースとハイライト

 お隣の茅ヶ崎の有名人と言えば、昔、加山雄三、今、サザンオールスターズの桑田佳祐。人気バンドの5年振りの活動再開の新曲が話題を呼んでいる。「ピースとハイライト」。

 ピースとハイライトと言えば、今は懐かしいタバコの銘柄。なんでピースとハイライトなの?作詞者の桑田佳祐によると「ピース」には「平和」、「ハイライト」には「もっと日の当たる場所」という意味を込めたという。

 この新曲は「平和への願い」を歌詞のテーマに据えており、特に近年の東アジア情勢を照らし合わせて、お互いの歴史を知ることで助け合ってほしい、という内容である。

 「何気なく観たニュースでお隣の人が怒ってた/今までどんなに対話してもそれぞれの主張は変わらない/教科書は現代史をやる前に時間切れ/そこが一番しりたいのに何でそうなっちゃうの?/希望の笛を植えていこうよ/地上に愛を育てようよ/未来に平和の花咲くまでは....憂鬱(Blue)……」

 一方、安倍首相の15日の全国戦没者追悼式での式辞。歴代首相が繰り返し述べた、アジア諸国に対する加害者責任に触れず、「不戦の誓い」もなかった。もっぱら国内向けの戦没者に向けた追悼の思いだけ。他の国々との関係を忘れた(ないことにする)内向きな思考に拘泥していると、外交の幅を狭め、自縄自縛の狭くて険しい道に迷い込む。それは先の戦争の失敗から日本が学んだはずの教訓ではなかったか。しかし、これは安倍政権の確信犯的行為である(分かってあえてそうしている)。ならば、私たちもはっきり声をあげよう。

 サザンよ、歌いまくってくれ!私たちも応援する。「希望の笛を植えていこう」。笛を吹き、ラッパを鳴らし、時の権力者に警鐘を鳴らそう。歌でも文章でも漫画でもデモなどの行動でもいい。平和への道のりは険しいが、もう二度と戦争はしてはいけない。平和憲法に生きる国民として。

野球観戦

2013-08-24 08:19:04 | 風景
久し振りの野球観戦。
上京してきた親戚の子ども二人を連れて、
横浜スタジアムでの横浜・巨人戦。
11-2で横浜、勝利。
巨人ファンの二人はがっかり。
でも、しっかり応援して、楽しめたようだ。