平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

今日から受難週 

2015-03-30 07:14:08 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年3月29日 今日から受難週 

 今日から受難週です。受難というのは、イエス・キリストが受けた十字架上の苦しみと死を指します。そこで、主イエスの生涯の最後の一週間について考えてみましょう。

 福音書記者たちにとってこの一週間の主イエスの行動と言葉とを記すことは、復活記事と共に、その執筆の最大の関心事だったと思われます。そこで、四福音書はそれぞれ、かなりのページを用いて受難週を描きました。例えば、マルコは全章数の四分の一、ヨハネは実にその三分の一を受難週の記事に割いています。

 四つの福音書の受難週記事には、当然多くの共通点もありますが、また読者を困惑させるような相違点もたくさんあります。それぞれの福音書記者の用いた資料(伝承)と、編集の意図(強調点)の違いによることです。そこで、この重要な一週間に何が起こったのかを、厳密に再現することは困難ですが、とりあえず最古の福音書といわれるマルコ福音書によって、この一週間をたどってみましょう。

 ①日曜日(しゅろの主日)エルサレム入城(11:1-10)。②月曜日 宮清め(11:15-19)。③火曜日 神殿説教(11:20-13:2)。④水曜日 オリーブ山説教(13:3-37)。⑤木曜日(洗足の木曜日)最後の晩餐(過越)・ゲッセマネ・逮捕(14:12-72)。⑥金曜日(受難日)ピラトの裁判と判決・十字架の主の死・埋葬(15:1-47)。⑦土曜日(安息日)女弟子たちが香油を準備したこと(16:1)以外、聖書記事なし。

 受難週にあたり、福音書の受難物語を改めて読むことは有意義です。その場合、四つの福音書から断片的に拾い読みするのではなく、一つの福音書を選んで熟読するのがよいと思います。今年はマルコ福音書を読んでみてはいかがでしょうか。上記の聖書個所を参照してください。また、受難をテーマにした音楽(バッハの「マタイ受難曲」など)や絵画などを鑑賞するのもいいですね。

バチカン最新事情

2015-03-24 06:29:43 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年3月22日 バチカン最新事情

 バチカンは二つの顔を持つ。12億の信者を抱える世界最大の宗教団体(ローマ・カトリック教会)であると同時に、世界で最も小さな独立国(バチカン市国)でもある。キリスト教精神に基づいて平和を実現し、差別撤廃や人権の尊重を世界に広めることを目指している。

 と言っても、米国・ロシア・中国といった大国のように軍事力や経済力を持つわけではない。国境を越えて世界各地に信者と聖職者を持つネットワークこそが、バチカンの、そしてその頂点に立つ法王の外交の力の源泉であり神髄である。

 最近では、半世紀以上にわたって国交を断絶させてきた米国とキューバの和解に向け、仲介役を果たしたのが、現在の法王フランシスコだと言われている。「法王外交」が再び力を発揮し始めている……。そう実感させられる世界を驚かせたニュースだった。

 その法王フランシスコはアルゼンチンのブエノスアイレス生まれのイタリア移民2世。約1300年ぶりの欧州以外からの選出だそうだ。フランシスコ法王は「貧者の教会」を掲げ、誕生日には法王庁近くに寝泊まりするホームレスを招いて朝食をともにする。人なつこい笑顔を絶やさず、難しい教理よりも「よいお昼ご飯を」と、わかりやすい言葉で演説する。

 そればかりではなく、バチカンの官僚組織の改革にも乗り出している。12月28日の「牧師室より」で紹介したが、昨年のクリスマスのあいさつで枢機卿に向けて語った「バチカンが患う15の病気」。そこで、「教会は自分の殻に閉じこもっている」現状を批判し、克服を訴えている。

 さらに「世界の『辺境』にあまねく福音を伝える教会を」と訴えている。法王がブエノスアイレスの大司教だった頃、彼はいつも「最も苦しんでいる人、社会の周縁部の人々に近づくべきだ」と言っていたという。

 以上紹介したこれらの働きは、私たちの教会にとっても大変示唆に富んだ内容であろう。

レントは自己解放の時 

2015-03-16 07:52:38 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年3月15日 レントは自己解放の時 

 今日は受難節第4主日礼拝である。今年の受難節は2月18日(水)からで、この日は「灰の水曜日」(中世のカトリック教会で、この日に主の受難を覚えて、頭に灰をかぶったことから名付けられた)と呼ばれ、この日から主の十字架の苦しみを覚える受難節に入る。

 受難節はレント(四旬節)とも呼ばれ、イースター(復活祭)前の6回の日曜日を除いた40日間をいう。40日間とは、主が荒れ野で40日間断食されたことに基づく。この間は悔い改めのための特別な期間で、一日一度の食事しか取らず、肉や酒の飲食を禁じた時代もあった。日曜を除くのは、日曜が主の復活の喜びの日であって、断食すべき日ではないからである。

 レントとは、神の御声を聴く時である。キリスト者としてどのように生きたらよいのか、神の御心を知る時である。それには、詩篇46:11「力を捨てよ、知れ!わたしは神」(新共同訳)「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳)との姿勢が大切である。これはどういうことか?あなたが神であることは知っている。今更、静かにしなくてもというかもしれない。しかし、本当に神の御心、御力を知った上で、私たちは主に喜ばれる信仰生活を送っているだろうか。案外、私たちは神の前に静まることなく、自分の思いで、いたずらに動き回ってはいないだろうか。

 忙しくしていないと不安な人がいる。しかし、忙しい時、人は心を失い、静かに聴く忍耐力がない。だから、すぐに人を非難し、裁く。神の言葉の中に、神の恵みを汲み取れない。困った忙しさである。霊的無能な忙しさである。信仰から遠い忙しさである。神の臨在に気が付かない危険な忙しさである。

 レントは、霊的危険な忙しさの生活パターンから、自己を解放する時である。自らの力を捨て、静かに神と親しく交わることによって、神から新たな力を頂くことができる。信仰復興の時でもある。充実したレントの期間となるように、悔い改めと感謝の祈りを献げたい。

イエスのまなざしの内に

2015-03-13 16:41:23 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年3月1日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「イエスのまなざしの内に」 ヨハネによる福音書1章35~51節

 ここではイエスをめぐる出会いが次々と起こる。バプテスマのヨハネの証言に導かれて、その弟子であった二人がイエスに出会い(41節以下)、その内の一人アンデレがそのことを兄弟ペテロに出会って(41節)伝えつつ、イエスに導き、翌日にはイエスがフィリポに出会い(43節)、そのフィリポがナタナエルに出会って、イエスとのこの出会いを伝えつつ(45節)イエスに導く。

 しかし、よく読んでみると、そのそれぞれの出会いにおいて、イエスご自身の眼差しが一人ひとりに向けられているのを感じ取ることができる(38,42,43,47節)。これらの出会いの真の「導き手」(へブル12:2)はイエスご自身だった。

 そのことを、ペテロとナタナエルの場合がよく示している。イエスはヨハネの子シモンを「見つめ」つつ、あなたは「ケファ(岩)」と呼ばれるであろう、と言われる(42節)。一方、ナタナエルは、フィリポの証言に反発する。聖書のどこにも言及されることのない寒村ナザレから一体どんな人物が出てくるのかと(45-46節)。しかし、イエスはこのナタナエルをもあらかじめ「見て」おられる。ナタナエルはあなたは一体「どこから」自分のことを知ったのかと問い、イエスは答えられる。「わたしは、あなたが……いちじくの木の下にいるのを見た」。旧約聖書によれば、いちじくの木やぶどうの木の下に座る(住む)というのは、メシアによって治められるであろう平和な時代の中での生活をしめす表現である。だとすると、イエスはこう約束しておられるのではないだろうか。「君がわたしのことを見聞きする以前に、私は君が、いちじくの木の下で、メシアによる平和の国のただなかで、守られ祝福されているのをすでに見た」と。

 このように、ペテロもナタナエルもいまだいかなる働き、奉仕も行わない以前に、何の資格も持たぬままに、イエスによって、メシアの将来の、すべての人のために、平和の国を証しする働きのために既に選ばれていたのである。

 こうして、最初の5人の弟子たちはイエスの出会うやいなや、その弟子となる。おそらく、自分の言っていることが、本当のところ何を意味しているのか、よくは分からないまま、しかし、たまらずに告白するのである。「私たちはメシアに出会った」(41節)。「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)と。イエスは彼らに、そして私たちに、問われる。「君たちは何を探しているのか」(38節)と。それに対して彼らはその時理解できた限りで答えたのである。「あなたを、私は探していたのです」と。これはイエスとの出会いの始まりにすぎない。しかし、その瞬間から、彼らはこの方に捕らえられるのである。それは、彼らがこの方を十分に理解したからではなく、この方のまなざしのうちに彼ら一人一人がすでにいるからである。

 彼らは、ただイエスの「とどまって」おられるところに共に「とどまる」だけでよいのである。そうすれば「見るであろう」(分かるであろう)(39節)とイエスご自身によって約束されるのである。

主の栄光のために

2015-03-13 16:17:13 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2015年3月8日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「主の栄光のために」 ヨハネによる福音書2章1~11節

 当時、婚礼は家と家との祝宴であり、大勢の人を招いて数日から一週間にわたって行われたようである。招かれた人々はふんだんに肉やぶどう酒を振舞われ、祝宴を楽しんだことだろう。その婚礼の席でぶどう酒がなくなるとは、花婿の家にとっては一大事で、恥とされることであった。
 
 この非常事態に気づいた母マリアは、息子イエスに助けを求めた。イエスに対する願い、嘆願、あるいは祈りと言ってもいいかもしれない。切実な祈りです。しかしイエスの答えは、実に冷たい、つれない言葉だった。しかしこれは、母と子の肉親の情、あるいは私たち人間の肉の欲によってキリストが応えられるということはないということを言われたのではないか。確かに、主イエスは私たち人間の必要、欲望を満たすために来られたのではない(ヨハネ3:16-17参照)。私たちの必要が思いの中心にあるとき、「私の時はまだ来ていない」という答えは、厳しい拒絶のように聞こるが、それは、私たちの「欲」に対する拒絶だとも考えられる。

 一方、「わたしの時はまだ来ていません」とは、イエス・キリストの時があるということを含んでいる。母マリアが願う時ではなくて、あるいは私たちが願う時ではなくて、イエス・キリストの時があるのである。だから母マリアは拒絶されたとは思わない。母マリアは備えた。イエスの言葉に「とどまった」。だから、母マリアは、「召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』」(5節)と教える。これは、母マリアがイエス・キリストの時を信じて待つ姿勢である。その時を信じるから、彼女は備えて待つのである。ここには、親子の関係を超えて、「不測の事態にあっても、主に信頼して従う」信仰の姿勢がみられる。

 祈る人というのは待っている人のこと。祈った人は前に向かう。前方を見る。そして備える。信じる者は神に向かって祈る。自分自身を神に向けて投げかける。いろいろな問題を抱えた自分、あるいは行き詰っている自分を、神に投げかけながら生きる。それが神を信じる者の生き方である。
 
 私たちの生きている現実の前にも壁がある。壁はこちらから破ることはできない。こちらから何とかして破ろうとしたら、こちらが傷ついてしまう。向こうから破っていただくのである。向こう側から、救い主の方から破っていただいて前に進む。イエス・キリストは言われた。「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」。求めるというのは、ただ欲しいと思うことではない。祈ることです。そして私たちは神の門をたたく。門は向こう側から開いていただける。向こう側から、私たちには開けないと思った扉を、一つ一つ開いていただきながら、私たちは前に向かって歩いていく。それが信仰によって生きるということである。

最近、心に残った言葉

2015-03-10 10:32:21 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年3月8日 最近、心に残った言葉

 最近読んだ本や新聞などから、心に残った言葉や文章を拾ってみました。各種の情報が氾濫する日常生活で、時に立ち止まって沈思黙考したいもの。

 「人間は自分のことしか考えない」と思うのは絶望、「人間は他人のことを真剣に考えられる」と思うのは希望。(末井昭、朝日新聞「逆風満帆」3月7日付)。

 ダメな看護師さんというのはわかりやすい。患者さんが「胸が痛いんです」と言ってくると、「大変だ、先生呼んできます」と自分もパニック状態になってしまうような人。これはダメだ。標準的な看護師さんは、「胸が痛いんです」と言われると、「どう痛いんですか?」「どこが痛いんですか?」「いつから痛いんですか?」と問いかける。これは当たり前の行為。しかし、患者さん受けのいい、コミュニケーション能力の高いとされる看護師さんは、そうは答えないそうだ。患者さんから「胸が痛いんです」と言われると、そのまま「あぁ、胸が痛いんですね」と、まずオウム返しに答える。ただの繰り返しに過ぎないのだが、これが一番患者さんを安心させるらしい。(平田オリザ、『わかりあえないことから』講談社現代新書177p)。

 戦争を知らない世代が増えています、という問いに対して、なかにし礼(作家・作詞家)は、安倍さんも戦争を知らない。祖父の怨念を引きずって行動している。それにみんなが付いていく。「この道しかない」とは本当に怖い言葉で、何でもOKになってしまう。かつて「満蒙は日本の生命線なり」とか「アジア解放」とか言いながら真珠湾攻撃に至ったように。僕は日本が丸腰であるべきだと思うぐらい、日本のこの前の戦争は罪深かったと思っています。その罪深さを忘れるわけじゃないですか。歴史を修正して。僕は戦争経験者だから、国家はどんな残酷なことも、どんな非道なこともするんだということを知っているから、と答えている。(朝日新聞「人生の贈りもの」2月12日付)。

2・11集会感想

2015-03-03 06:52:32 | 牧師室だより

牧師室だより 2015年3月1日 2・11集会感想

 神奈川バプテスト連合の「信教の自由を守る日2・11集会」が相模中央教会で開催され、80名の参加があった。講師は比企敦子氏(日本キリスト教協議会教育部総主事)、テーマは「マイノリティの心の自由」。以下はA姉(80代)の感想文。

 すばらしい「2・11集会」を企画していただいてありがとうございました。神奈川バプテスト連合に社会委員会ができて、連合の皆さまと共に、しかも私たちの相模中央教会で、この集会に参加させていただいたことを心から感謝しています。ありがとうございました。

 何年か前に近いところでこのような集会がなかったので、2月11日、探しに探し、たしか久里浜の方の教団の教会まで行ったことを思い出します。

 今回の講演はとても内容が濃かったと思います。日頃から、「日本はこれからどこに行くの?」といたたまれない気持ちにかられる私ですが、特に教育の分野でここまで締め付けが来ているのか……と、かつて模範的な少国民の一人だった私は、背筋に寒いものを感じます。

 さて、どうするのか。最初に今日の演題をお聞きした時、私は思いました。「確かに私は、いったん教会の仲間を離れて人々の中に入ると、つくづく自分が『マイノリティ(少数派)』であることを思い知らされる。でも、主にあって、ここにしか立てない、この自由は誰にも奪われない。そして弱い私は誰かと、一人でも多くの人と連帯したい!」。

 比企先生の講演の最後にあったように、たとえ異なる価値観、異なる立場にあっても、「武器をとらない」「良心の自由を守る」などの点で一致できれば連帯して、声を大きくしていくことが大切だと改めて確認しました。昨年5月3日の日比谷での「平和憲法を守る集会」後のパレードで、そのことを実感し、とても勇気づけられたことでした。

 あと一つ、今日のお話で、自ら「マイノリティ」と自覚しながら、気づかぬうちに、ある人々に対して「マジョリティ(多数派)」となっていないかという大切な視点に目を開かれ、自戒いたしました。ありがとうございます。