平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

流す、流れる

2016-09-27 13:15:40 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年9月25日 流す、流れる

 ある本を読んでいたら、「お金って、貯めると腐りますね」という言葉に出会った(『星言葉』晴佐久昌英)。なるほど、そのとおり。金持ちほどケチだと言われているけれど、実際貯めれば貯めるほど使うのが惜しくなるらしい。貯めることに腐心し、減ることを恐れる。実際、昔、同僚の女の先生で「お金を貯めるのが趣味」と公言し、毎日通帳を眺めてニヤニヤしているという人がいた。そうなるとお金は手段ではなく目的となり、意義ある使い道がどんどん失われていく。使わないお金は、その人の心の中で腐り始めるのである。

 昔から「お金は天下の回りもの」という。お金は使ってなんぼ。使ってこそ、その価値が発揮される。物も同じ。どんな高価な物でもしまい込んだり飾っているだけではもったいない。よく「タンスの肥やし」と言われたりする。使ってこそである。物自身も「使って」と叫んでいることだろう。

 お金は上手に流せば流すほど生きてくる。新鮮なお金の流れるところには、活きのいい人が集まってくるという。お金は人と人を結び、そこに新たな夢や値打ちある活動が生まれ、文字通り「お金にはかえられない」何かが育っていく。「ドブに捨てる」ような使い方だけはやめよう。

 「流れる」ということはあらゆることの根本かもしれない。たとえば健康とは、身体の中にいい流れができている状態のことだ。血液の循環がいいと健康体だといわれる。脳波の流れも気の流れも同じ。身体に限らず、健康な組織、健康な社会、健康な経済、すべて人や物や情報が滞ることなく流れていることが理想なのである。

 何かうまくいかない時や心身が不健康だと感ずるときは、何がよどんでいるかを捜してみよう。運動不足なのか、情報の断絶なのか、金品の死蔵なのか、原因が分かれば解決したも同然。あとはそれを流してやるだけ。新鮮な風を取り込もう。与えられた賜物、恵みを惜しみなく主のために用いよう。

チャペルコンサートのご案内

2016-09-24 16:57:56 | 教会行事

忘れないで……忘れないよ

東日本大震災・熊本地震支援
チャペルコンサート

2016年10月29日(土)13:30開場 14:00開演
平塚バプテスト教会 礼拝堂

チケット500円(中学生以上)小学生は無料
 幼児はご遠慮ください。

問合せ(チケット販売):電話・FAX:0463-33-2320
            メール:hiratsukabap@pro.odn.ne.jp
                 でご連絡ください。

売上げはすべて支援金として寄付します。

ささやかな支援ですが、「忘れないよ」というメッセージをお伝えしたいと願っています。

祖母の話をしよう

2016-09-20 17:41:24 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年9月18日 祖母の話をしよう

 明日は「敬老の日」。そこで私の父方の祖母の話をしよう。私の実家は三世代の大家族で祖母とは大人になるまで一緒に暮らした。祖母の名は「フサノ」。「○○子」でないので、子どもの頃、変な名前と思ったものだ。毛利藩の下級士族の長女として明治31年(1898年)生まれる。当時の祖母の実家は宇部市郊外でわずかばかりの田畑を耕す貧しい生活だった。

 下に次々と弟妹が生まれ、小さい頃から子守など家事を手伝わされた。小学校入学になっても父親は学校に通わせてくれない。役場の人が何度も入学させるよう説得に来たがダメだった。その時、祖母は泣いてお願いしたが聞き入れてくれなかったという。この話、子どもの頃何度も聞かされた。よほど悔しく悲しかったのだろう。近所の子どもたちが登校する姿を見ては隠れて泣いたという。

 よって、祖母は文盲なのである。読み書きそろばんが一切できないで一生を終えた。自分の名前すら書けない読めない。時々、祖母宛のハガキが来るが、「どうも私宛のようだがなんて書いてある」とハガキを私のところに持ってきたりした。選挙の時は、私の父親が手のひらにマジックで書いて、この通りに書くようにと言っていた。果たしてちゃんと書けたかどうか。

 買い物はどうしていたの?と聞いたことがある。そこは生活の知恵、その品物のだいたいの値踏みをして多目にお金を出す。お釣りが返ってきたら買えたということだ、と説明した。バスの行き先が読めないので乗れない。だから市内のたいていのところは歩いて行っていた。

 苦労話は山ほど聞いたが、今日はここまで。教えられたこと。基礎学力がないと世界は広がらない、知的成長に限界がある。人生の可能性が著しく狭められ、楽しみが限られる。今でいう自立した人生と真反対の依存した生活を余儀なくされる。そのような祖母の人生であったが、決して不幸な生涯ではなかった。苦労の連続ではあったがその中を精一杯生き抜いた(働きづめ)結果の幸せな晩年だった。

高齢社会と2025年問題

2016-09-12 07:29:17 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年9月11日 高齢社会と2025年問題

 何歳から高齢者と呼んだらいいのだろう。敬老の日を前に少し悩む。私たちの教会では70歳以上と決めた。内閣府の意識調査によると、2014年では70歳以上がトップだが、わずかの差で75歳以上が続き、さらに少しの差で80歳以上が続く。ある教会では80歳以上の方にお祝いを差し上げると聞いた。あり得る判断だと思った。

 ところが、1999年では70歳以上が断トツのトップだが、次に65歳以上だと考える人が多かった。日本老年学会は「現在の高齢者は10~20年前に比べて5~10歳は若返っている」と発表している。国民の意識と一致する。

 昔の童謡「船頭さん」は「村の渡しの船頭さんは/今年六十のお爺さん…」と歌う。少し前までは60歳はもう立派な高齢者。だから定年退職は55歳であった。それが60歳になり、今は実質65歳定年が増えている。併せて、年金支給開始年齢も60歳から65歳に引き上げられた。このように猛スピードで高齢社会から超高齢社会へと日本は移行している。世界に前例がないという。

 このような状況が2025年には「団塊の世代」が全員75歳を超えて、国民の5人に1人に達し、医療、介護、年金などの費用が急増し、社会保障制度が行き詰まる、というのだ。これを「2025年問題」という。この言葉を聞くたびに、「団塊の世代」の一人である私は、ちょっと不快な気分になる。なぜなら、そんなこと今さら言うなんて、統計上はとっくに予想できたこと、想定外とは言わせない。だったら早くから対策をすべき、それが政府の仕事だろう、と言いたくなる。それに「問題」と言われると何か長生きすることが悪いみたいに聞こえる。それは75歳以上の者が「後期高齢者」と呼ばれてなんとなく不快に感じるというのと同じであろう。

 いずれにしても、高齢者が尊敬され、大切にされる世の中であってほしい。いずれは我が身である。箴言に「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」(16:31)とある。

読書感想文

2016-09-05 17:00:22 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年9月4日 読書感想文

 9月に入り夏休みも終わりましたが、夏休みで思い出すのは宿題。毎年、一番てこずったのが読書感想文。何しろ感想文を書くにはまず本を読まなければいけない。当たり前であるがこれが難問。

 何を読んでいいか分からない。さして読みたい本があるわけではない。そこでとりあえず学校の図書室か市立図書館に行って適当に一冊借りてくる。でも、特段読書好きでもないので気にはしつつ本には手が伸びない。夏休みの終わりが近づいてやっと本を手にするが、今度はどう書いていいか分からない。そんなこんなでいつも適当に書いていた気がする。

 中学三年の夏休み。今年こそはと読書感想文のために島崎藤村の小説『夜明け前』に挑戦。ところがである。蒸し暑い畳の部屋で寝っ転がって読み始めたものの1ページで本を閉じて断念。とてもこんな分厚い小説を今から読んで、さらに感想文なんか書く余裕はないと思ったのだ。

 そこで、自由作文に切り替えた。身近なことがいいと考え、隣のちょっと変わったおじさんとその子どもたちの生活ぶりを少し面白おかしく描いた(実際おもしろいおじさんと子どもたちだったのだ。よく遊んでもらった)。あっという間にすらすら書けた。なんとその作文が校内で選ばれて優秀賞をとり、さらに市内の作文コンクールで佳作をとったのだ。文才があるなんて思ってもみなかったので本人が一番びっくりした。

 先日の新聞に「読書感想文マニュアル論争」という見出しの記事があった。感想文の「書き方マニュアル」を配布した小学校があり、その詳細な内容をめぐってSNSで賛否両論の意見が飛び交っている、というのだ。

 上記のような私の子どもの頃の経験と長年の国語教師としての経験から言えばマニュアル賛成派である。好きなように書けばいいなんて言ったって、書けるものではない。何事も真似、お手本、マニュアルに従ってきっちり基礎基本を身につけることが上達の早道。作文もしかり。信仰生活も同じだと思う。

赤とんぼ見ての雑感

2016-09-05 16:54:45 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年8月28日 赤とんぼ見ての雑感

 先々週の昼下がり、教会の中庭に赤とんぼが5,6匹飛び回っていた。それを見て、「ああ、もう夏も盛りを過ぎたな」と思った。旧盆(8月15日)の頃であった。そういえば、子どもの頃、大人たちが「旧盆が過ぎると朝晩風が涼しくなる」とよく言っていた。

 このように私たち日本人は、自然現象の変化によって、季節の移り変わりを敏感に感じ取っている。次の歌などはまさにそれを詠んでいる。「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる」(藤原敏行・平安時代)。意味は、「秋の気配は、目にははっきり見えないけれど、さわやかな風のたてる音でそれと気づかされた」。

 セミの鳴き声にも季節を感じ取れる。「ミーンミンミンミン」と聞くと、「もう夏休みも終わりだな」という思いにさせられた。外国人はセミや秋の虫の鳴き声はただの騒音としか感じ取れないという。車の騒音と違って、風流な音なのにもったいないことだ。

 ところで、最近の気象情報は「今日の最高気温は何度です」といって、数字で表す。確かに35度とか36度とか言われると「えー、暑そう」とは思うけれど、なんだか味気なく、実感が伴わない感じがする。それにしても、子どもの頃に夏休み帳に毎日、天気と気温を書き込んだ記憶によると、30度を超す日は珍しかった気がするが、最近は毎日30度を超えて普通である。日本はもう亜熱帯気候だという人もいる。これも異常気象か。

 気温も重要だけど、日本の夏は湿度が高いので不快指数が上がる。関東では暑くても日陰に入ると風が心地よい。ところが、私の故郷の瀬戸内海は風もなく日陰でも高湿度でムッとする。扇風機もあまり効果がなかった。冷房機(クーラー)が普及してやっと逃げ込む場所ができた。大人たちはデパート、喫茶店、パチンコ屋、映画館などで涼をとったものだ。

 四季の移り変わりを自然現象から感じ取ろう。暑さしのぎになるかもしれない。

年相応に生きる

2016-09-05 11:32:53 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年8月21日 年相応に生きる

 人間、年をとるとガタがくる。私も高齢者と呼ばれる65歳を過ぎた。やはり、あちこちガタがきて、最近、病院通いに忙しい。以前から通っているものとして、○○症の治療のため、2ヶ月に一度、茅ヶ崎の医院に採血に行き、一週間後に検査結果を受けての診断に行く。この医院、とにかく患者さんが多くて、1時間待ちはいい方で2時間近く待たされることがあり、さすがにうんざりする。また高血圧のため1ヶ月に一度、近くの医院に行く。こちらは10分も待たないで呼ばれる。ほとんど薬の処方箋をもらいに行くようなものだが。

 それに加えて最近になって歯の治療に週2回のペースで通うようになった。以前治療した入れ歯にガタが来たのだ。治療してもらっていたら案の状、別の虫歯が見つかりその治療もということになった。さらに、評判のいい鍼灸整骨院が近くにあると聞いて、古傷の右肩の亜脱臼と慢性の腰痛の治療に行くことにした。診察の結果、昔やった足首のねんざとそこからくるひざの関節痛も治療してもらうことになった。日常生活には何の支障もないのだが、衰えるばかりの今後のことも考え通うことにした。これも週2回のペース。長引きそうだ。

 そのように私も年相応に耳も遠くなり、目もかすむことがある。さらに気力、体力、集中力、記憶力など少しずつ衰えていくのが分かる。だからといって、気落ちしないし、不幸だとも思わない。それが自然だ、と思うからである。年相応に生きればいいと考えている。

 だからといって、自分の身体や与えられた命、粗末にしていいとは思わない。神から与えられた命、かけがえのない人生、精一杯生きようと思う。そのためにも手入れは大事。

 そこで久しぶりに「人間ドック」に行った。「ドック」とはよく言ったものだ。本来は船舶の修理、建造、検査のために設けられた施設のこと。車も3年に一度は「車検」がある。人間も同じ。手入れをしながら大事に使って、生涯、神の奉仕に励みたい。年相応に。