平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

わたしは主である

2014-02-25 18:43:45 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年2月23日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「わたしは主である」  レビ記19章9-18節
 
 主なる神はイスラエルをエジプトから救出された後、シナイ山で律法を授ける。その目的は、彼らをご自分の民とするためであった。そのために「わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」という「神との新しい契約」を示す希望に満ちた宣言を繰り返される。だから、この神と民との関係、神との契約に基づいて与えられた律法は、「神の民」とされる喜びの言葉でもある。今日の説教題の「わたしは主である」という宣言も「神との新しい契約」を示す希望に満ちた宣言である。
 
 しかし、神が「わたしの民」と呼ばれるには、あまりにもイスラエルの民の罪は根深く、汚れと背きに満ちていた。荒れ野での旅の中で、民の罪は次々と露呈されていく。汚れと背きに満ちた人間は、自分の努力によって聖なる者になるという考えを断念せざるを得ない。しかし、「わたしはあなたたちの神となる」と言われた神は、その断絶の前でたたずむ方ではない。その断絶を打ち破って人々の生活の中に介入し、私たちに聖なる神の聖なる民として生きるよう求められる。それが律法。 

 律法の基本は、「神を愛し、隣人を愛せよ」である。その具体的な戒めが今日の箇所に書かれている。その戒めを命じるごとに、「わたしは主である」と繰り返し宣言する。それは、神はそのようにして私たちの生活の中にまで介入して、共に歩んでくださるお方なのだ、ということを示している。「わたしはあなたたちの神になる」と言われる神の愛がそこに示されていることを覚えたいと思う。

 教会学校の今日の聖書箇所は黙示録の21章。そこに「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と書かれている。この箇所は、ヨハネが見た神の国の幻である。神の国においては、「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」のである。

 その終末の事柄が、今、この現実の世において、先取りのかたちで行われているのである。神は、イスラエルの民たちに「あなたたちの神となる」と言われた。「あなたたちの神となる」とは、「神が人と共に住み」「神が自ら人と共にいて」なのである。神は遠くどこかにいて、宣言しているのではない。共に住んでおられるお方なのである。そのことを思う時に、神との契約に基づいて与えられた律法は、「神の民」とされる希望と喜びと励ましの言葉として響いてくるのではないか。
 
 イスラエルがかつて、十戒を与えられた時のことを見てみよう。モーセがシナイ山頂において十戒を与えられた時、主はまず「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)とご自身を宣言された。ここに、恵みの先取りが言われている。宣言する前に、命令する前に、いかに主なる神がイスラエルを愛し、憐れんでくださったか。その具体的な出来事として出エジプトというイスラエルのエジプトの国、奴隷の家からの解放の出来事があったのである。出エジプトの出来事、さらに荒野での40年にわたる旅路をみるときに、まさに「神が人と共に住み」「神が自ら人と共におられ」なければ、なしえないことだったことが分かる。いや、それは、今に至るまで続いている。インマヌエルなる主イエスを私たちのためにこの地上に送ってくださって、今も聖霊なる神によって導かれ守られている私たち。神の愛の永遠なることに感謝し、賛美しよう。

幸福とは?

2014-02-24 15:46:54 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年2月23日 幸福とは?

 ある本を読んでいると、「物を手に入れることによる幸福を感じる期間には限度がある」と書かれていた。そして、その具体的な例として、たとえば、欲しかった最新のパソコンの場合は一週間、欲しかった新車の場合は半年、欲しかった新築家屋の場合は一年とある。高いものを購入するほど、長く幸福感が続く傾向がある、という。なるほど、七百円のラーメンだと、いくら「極うま」でも幸福感は食べ終わって30分なのが理解できる。

 確かにその本にも書いてあるように、物を購入することでの幸福感は、カンフル剤を打ち続けている状態であり、限度がある。この種類の幸福感に頼ると、幸福であり続けるためには、常に購入し続ける必要があり、資金が尽きてしまう。また、ある程度続けていくと、購入自体に新鮮味がなくなり、幸福と感じなくなる。耐性ができてカンフル剤が効かなくなる、ということだろう。購入による幸福感は継続しない幸福感であって、見せかけの幸福感、一時の幸福感であることを知るべきである。

 では「本質的な幸せ」とは何か?その本は続けて、次のように、箇条書きに述べている。・他人を幸福にすること(すると自分が幸福と感じる)。・神を知る。・人を愛する。・人に与える。・勝利する。・人から愛される(愛している人から愛される。・人から与えられる(欲しいものを与えられる、愛する人から与えられる)。これは聖書の真理であるが、これに、・平和をつくりだす。を加えてほしい。

 人は、他人を幸福にすることで自分が幸福と感じる生き物である。人は一人ぼっちで存在している時には幸福を感じないもの。共に喜び、共に泣く人を必要とする。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(Ⅰコリント12:26)。 

*『聖書に隠された成功法則』(松島修著 サンマーク出版 2010)から一部引用。

橋渡しの主イエス

2014-02-20 10:07:26 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年2月16日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「橋渡しの主イエス」  マタイによる福音書 22章34-40節

 現代人の抱えている最大の問題は、自分の生きる根拠を見出せないことではないのか、ということがよく言われる。根無し草。どこに立って生きているのか、生きていけばよいのか。存在することの不安。

 今日の聖書の箇所で、主イエスは、神との関係、人との関係、この二つこそ、最重要な戒めであると断言している。神との関係が、いわば縦の関係とするならば、人間との関係は、横の関係にあると言えるだろう。人間は、二つの座標軸に位置づけられ、縦横に織りなされている。そのどちらかとの関係を失った時、人は宇宙の中に存在位置を失って、不安と焦燥にかられる。現代人の抱えている問題は、突き詰めれば、まさしくこの問題なのではないだろうか。

 アダムとエバは、この二つを失った。神の言葉に背いた時、「神の言葉によって創造された」という縦的な存在の根拠を失い、共同で罪を犯したことにより、二人は憎みあう仲になり、人間同士の横的関係を失った。それ以来人間は、存在の根拠を失ったまま、浮き草のような生き方をしてきた。

 それで、その失った二つの関係を取り戻すために、主イエスが遣わされた。その主イエスが、神を愛し、人を愛すること、この二つこそ、最重要なものであると教えられたのは、当然と言えば当然なことだった。また主イエス自らがそれを実践されたのが十字架への道であった。
 
 この「愛」を考える時、それは主イエスから始まり、主イエスに終わるもの、主イエスにのみその根拠を置くものではないだろうかと思う。「心全体、魂全体、思い全体」で神を愛すること。「あなた自身を愛する」ように隣人を愛すること。果たして、私たちはそんな愛し方ができるのだろうか。私は自身を振り返っていくと、まるで一枚一枚皮が剥がれるかのごとく、私自身の本性が明らかにされていくような気がする。そして、そこで明らかにされた「私の本性」とは、「自分の存在いっぱいで、神を愛しきれていない自分」だし、「自分自身を愛することでいっぱいで、ましてや、隣人までなんてとてもとても」なのである。

 このように私たちが「愛する」ということにおいて、この二つの教えの前に立つとき、私たちの本性、エゴ、自己中心の姿があらわにされるのである。「神を存在いっぱいで愛し、隣人を自分として愛する」の前に、実は、立つことすらできないのが私たちなのである。 

 しかし、そこに主イエスの言葉、「私は成就するために来た」との言葉が響き渡る。「十字架の光」が、差し込む。主イエスは全存在をかけて、「神を愛すること、隣人を愛すること」を私たちにもたらして下さった。この事実を抜きにして、私たちには「愛すること」は行い得ない。

 40節に「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」とある。「基づいている」、この言葉は新約では7回使われており、そのうち4回は「(十字架に)かける」で使われている。口語訳聖書では「かかっている」。本来の意味である十字架刑に関わる動詞がここに登場することを見逃したくはない。それは、律法全体と預言者が神を愛し隣人を愛することによって立つ、その根拠を主イエスに見出すからである。この愛が旧約の根底にあり、しっかり支える。もしこの愛がなくなってしまったら、旧約は立つ場を失って崩れ落ちてしまう。「私が来たのは律法や預言者を完成するため」(マタイ5:17)、こう宣言された主イエス自らが「十字架にかかり」、その宣言を愛を持って実現して下さった。私たちが「愛せよ」との命題に取り組む根拠もイエスの十字架に「基づいている」のである。
 
 私たちはただ、主イエスが示された「愛」への応答として、「愛の業」に励むのみである。私たちはどれだけ出来るとか、どこまでできるとか言う以前に、自分にある力をどう用いていたのだろうかと問いたい。そして、主イエスがその全存在をかけて私たちに愛を示されたことに、まず自分なりに精一杯の応答をしたい。そう、まず私なりに「力いっぱい主を愛そう」から始めたい。

対話力

2014-02-17 09:52:47 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年2月16日 対話力

 先週の火曜日、湘南台教会で、連合の「2・11集会」が行われ、会堂に入りきれないほどの参加者(71名)があり、有意義な集会となった。講師の加藤誠先生(大井教会牧師)は戦前・戦後のキリスト教会の歴史を概観しながら、今、私たちに問われている課題について講演された。

 その課題の一つとして、「対話力」に言及された。日本の社会全体の「対話力」が落ちている。自分の関心や世界に閉じこもり、「異見」を許容できない社会になり、一人ひとりの「孤立」が深まっている、と指摘。だからこそ、聖書を真ん中に、お互いに聴きあい、建設的に語り合っていくプロセスが大切だ、と語られた。また、「異見」を受け止めながら、批判(非難ではない。課題を冷静に整理する)しつつ、対話を通して、教会の志と徳が高められていくプロセスの大切さをも話された。

 聖書(神)との対話、人との対話。今はやりの言葉でいうならば「ガチンコ勝負」の対話。それは誠実で真摯な、忍耐を要する「対話力」を必要とするだろう。私たち日本人はすぐ白黒をつけたがり、深く物事の本質を掘り下げて考えない。面倒なことは「臭いものにはふた」で、すぐ水に流して終わり、すべて「あいまいなまま」やり過ごしてしまう。民主主義の前提の議論を尽くす、対話を重ねるが成り立たない土壌にある。だからこそ、その「対話力」を養成していく教育や訓練が求められる。

 実は、昨年の「2・11集会」でも講師の吉高叶先生が、平和を構築していくには「対話力」が必須だと語られている。憲法9条に関連して、紛争の解決を武力でもってしないのだから、私たちには対話の道しか残されていない。その対話を培う教育を戦後してきたのか、と問われた。その時、元教師だった私は、確かにそうだ、平和教育はしたが、それはたいてい「ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ」であり、戦争体験を聞くというものであった。対話力の育成、確かに意識してこなかった、という反省がある。「対話力」、時間をかけて取り組まなければならない宿題である。

神の恵みの善い管理者

2014-02-13 11:04:01 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年2月9日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神の恵みの善い管理者」 ペテロの手紙一 4章7-11節

 『執事/役員の働き』(日本バプテスト連盟)に執事選挙の大切さが次のように述べられている。「二重の意味で、執事を見ればその教会がわかるといわれます。執事に選ばれた人とその方々を選んだ人たちがそこに表われているからです。執事選任に関して何を基準にしているか。たとえばこの世的に「社会的地位」が高いというだけで名誉職的に選んでいる教会。地味だけど誠実な教会生活を続けている人を選んでいる教会。……いずれにしても選任され委託を受けた執事にはそれに応える責任が、選んだ教会員には自分たちが選び委託した執事を祈って支える責任があります。その双方の責任がうまくかみ合う時、教会はさらに祝福され、福音宣教の使命を果たしていくことができる」。まさにその通りであるが、私たち一人一人に大変重い言葉ではないだろうか。

 誰にとっても忙しい時代の中で、主日礼拝を献げる時間を確保するだけでも大変なのに、さらに、主のために時間を作り、生活を工夫し、献金を献げ、率先して奉仕し、教会のあらゆることに心を配り、労している執事さんたち。その奉仕に対して、教会員の多くの理解と感謝、祈りと支えがぜひ必要である。

 さて、私たち日本バプテスト連盟では、2月をスチュワードシップ月間と名付けて、取り組んでいる。「スチュワードシップ」という言葉は、欧米においては教会ばかりではなく、国家や企業においても、例えば、土地、(周りの環境も含める)や人材(その人を育てている文化も含める)などを、最もよい状態で管理運営するという意味で用いられている。これはもともと聖書が記している言葉で、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(4:10)とあるとおりである。
 
 「管理」とは冷たい「管理主義」を指しているのではなく、神から頂いているものを、あるべき姿で生き生きとあり続けるための管理なのである。私たちにとって、自分の体、時、財はすべて本来的に神のもの、神からお預かりしたものであって、自分が自由に用いてよいものではないことが前提である。そこで、健康管理、時間の管理、富の管理において、私たちは主権者である神に対して責任がでてくる。だから、私たちは「自分の体で神の栄光を現わし」(第一コリント6:20)、「今の時を生かして用い」(エフェソ5:16口語訳)ていくことが求められている。

 私たちが100人礼拝を目指しているのもそこからきている。100人という数字は、あくまで目標であり、目的や使命ではない。目的、使命はどこまでいっても福音宣教の働きである。では、なぜ100人かというと、単純なこと、会堂に100人の席が用意されているから。100人の礼拝ができる会堂、土地建物が与えられているから。神から頂いているものを、あるべき姿で、生き生きと用いることが求められている。会堂や椅子や車が駐車できる中庭など、十分に使われてないのでは、会堂や椅子や中庭はさぞ寂しい思いをしていることだろう。いや、神さまが一番悲しい思いをされているだろう。
 
 もちろん100人という量的な数字だけが神の栄光を現わすわけではない。数ではない。目の前にいる一人の魂が救われていくことに全教会的に関わり、祈りっていく時に神の栄光はそこに現れる。主イエスが迷える1匹の羊をどこまでも捜し求められたように。それこそが私たちに求められている使命。

犠牲を払うことは幸せ

2014-02-11 09:57:31 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年2月9日 犠牲を払うことは幸せ

 「子どもを『人間としてみる』ということ」という書名に惹かれ、さっそく購入して読んだ。保育・幼児教育者向けの専門書ではあるが、分かりやすく、多くのことを教えられた。

 本の中で、佐伯胖先生(東京大学名誉教授)が、二歳未満の赤ちゃんを対象にした実験のことを紹介されていた(実験は米国の学者によるもの)。その実験とは、ぬいぐるみの動物が「おやつ(ビスケット風のおもちゃ)」をおいしそうに食べる。そのあと、(場面1)赤ちゃんに数個の「おやつ」がわたされる。(場面2)たまたま、もう1個、「おやつ」が見つかり、実験者はそれを赤ちゃんに上げる。(場面3)さらにもう1個、「おやつ」が見つかり、それを実験者がぬいぐるみの動物にあげる。(場面4)赤ちゃんに、自分が持っている「おやつ」を、ぬいぐるみの動物に「わけてあげて」とお願いし、赤ちゃんは自分の持っている「おやつ」のなかの1個をぬいぐるみの動物にあげる。

 さて、それぞれの場面の赤ちゃんの表情や様子を、「幸せ度評価」(実験を知らない判定者が、赤ちゃんの最後の場面での様子だけについて「幸せ度」を得点で評価する)をしたが、圧倒的に(場面4)、すなわち、「自分の“おやつ”を分け与える」ときが、一番幸せそうな様子だったという。つまり、赤ちゃんは自ら犠牲を払って(自分の持ち物を減らして)、他人に分け与えることを一番の幸せと感じていた、という次第です。

 この話を読んで、「受けるよりは与える方が幸いである」、また「神の愛は自己犠牲(十字架の愛)」という、聖書の教えを思い出した。さらに、主イエスが子どもを祝福する場面を思い出す。人々が主イエスに祝福してもらおうと子ども(実際は2歳未満の嬰児)を連れてくると、弟子たちは叱った。それを見て主イエスは弟子たち憤って言われた。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(マルコ10:15)。私たち大人のなんと欲深く、偏見に満ちていることだろう。主イエスは悔い改めを求められる。

礼拝から始まる生活

2014-02-05 14:41:08 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年2月2日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「礼拝から始まる生活」 ローマの信徒への手紙12章1節

 私たちは日曜日を「主の日」と呼ぶ。もともと聖書では、「主の日」は歴史の終末の日のことだが、主イエスが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣教を始められた時から、すでに神の国が始まり、主イエスの復活において終末の日に起こるべきことが先取りされた。だから、「主の復活の日」(日曜日)はまさしく「終末の日」を覚える日でもある。日曜日に礼拝することによって、私たちは、この日に復活された主を記念し、またこの主が終末時に再び来られるという約束を待ち望む。

 ところで、「礼拝」という言葉、「拝む」という字が入っている。神を拝むのである。だから、自己崇拝者や拝金主義者は礼拝に来ません。そして、私たちは「礼拝」と言う時、その後に、「捧げる」とか「守る」とかよく言う。それは、御言葉により恵みを受けて、祈りと賛美と献金とを「捧げる」からである。そして、「守る」というのは、神第一とする生き方から引き離そうとする悪しき力の中で礼拝を「守る」から。「礼拝を守るあなたが守られる」というわけである。礼拝から離れるとあなたは守られないということになる。礼拝が私を守る、のである。

 さて、礼拝に欠かせないことは、神に栄光を帰すること。つまり神に最高の価値をお返しすること。そして神への献身を新たにすること。さらに目に見えない世界(天)に根差し、見える世界(地)に派遣されること。「霊と真理をもって父を礼拝する」(ヨハネ福音書4:23)。そのことによって、礼拝で生ける神の存在を実感し、主と出会う。

 私たちの生活は主の日の礼拝から始まるということが大切である。私たちの生活全体はその出発点において、神からの祝福された生活である。どんなに困った、つらい生活であっても、神は私たちと一緒に、このつらさを味わって下さる。それによって、私たちがこれ以上、困難の中にとどまるところがないように、である。また、生活の中で喜んでいたら、神も一緒に喜んで下さる。私たちがこの世の喜び以上のものを知るようにと、神はそうして下さる。

 だから、私たちの生活は、「キリストを証しつつ、隣人と祝福を分かち労苦を共にする」という点に、根本的な意味がある。パウロは、「わたしは前の手紙で、不品行な者たちと交際してはいけないと書いたが、それは、この世の不品行な者……と全然交際してはいけないと、言ったのではない。もしそうだとしたら、あなたがたはこの世から出て行かねばならないことになる」(第1コリント5:9-10)と言っている。ここにキリスト者の社会との関係が示されている。私たちは社会の中で、キリストを証しつつ、社会の問題と取り組み、奉仕するようにと、押し出されている。私たちの生活は、礼拝において、神によって進むべく、祝福されて、この世へと遣わされていく。

 1月に「遣わされて生きる」と題して3回説教した。誰に遣わされるのか。どこから遣わされるのか。私たちは神によって遣わされる。教会から遣わされる。どこへ、誰のところへ?それは私たちの生活のただ中へ。現実の社会のただ中へ、である。特に、エゼキエル書34:16で神が言われた、「わたしは失われた者を尋ね求め、追われた者を連れ戻し、傷ついた者を包み、弱った者を強くする」と言われたように、失われた者、追われた者、傷ついた者、弱った者のところへ、である。そこで私たちは共に生きるのである。それが福音宣教の働きである。それは礼拝から始まるドラマ。