平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

行き先知らずの旅立ち

2009-11-24 17:11:17 | 説教要旨

説教要旨 2009年11月22日  杉野省治牧師

 「行き先知らずの旅立ち」 創世記11章27-12章9節

 アブラハムは故郷であるカルデアのウルを出て、ハランに至り、神が行けと言われた通り、一族郎党を引き連れて、ひたすら示された地へ向かった。行けと言われた土地がどこにあるのか、彼には分らない。ただ「私が示す地」との神の約束があるのみ。ヘブライ人への手紙には、アブラハムは「行く先も知らずに出発をしたのです」(ヘブライ11:8)とある。

 信仰によって生きるとは、自分の計画やプログラムによって生きることを断念することである。求められることは、神に従うかどうかという決断のみ。計画やプログラムを信仰に持ち込むなら、人間の信念にはなるだろうが、信仰とは程遠い生き方になってしまう。神の約束は、必ず成るとの信頼が決断を生む勇気の源である。信仰とは何よりもまず、神の言葉を聞いて、従うことである。御言葉を聞いても、それに従わない者には信仰の世界が始まらない。

 アブラハムはカナンの地を通って、「シケムの聖所、モレの樫の木まで来」た(12:6)。ところが、そこにはすでに先住民カナン人が住んでおり、彼はその地を「自分の地」とすることはできなかった。アブラハムは戸惑ったことだろう。しかし、戸惑うアブラハムに主はご自身をあらわし、「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束された。しかし、アブラハムにとって現実は厳しく、この約束の言葉は受け入れがたいものであった。そこで彼はベテルの東の山に移っていき、さらに進んでネゲブ地方へ行った。それは南のはてにある所。もはやこの旅は神の示すものではなく、彼自身の旅路であった。彼はそこで飢饉に見舞われ、難を避けてエジプトに下り、その地で彼の生涯にとって最も恥ずべき失敗をしてしまった(12:10以下)。信仰の父と呼ばれるアブラハムにして、この迷いと失敗があったのである。

 最初は神の言葉に聴き従って出発をしたが、現実の厳しさのゆえに、終わりには己が道を歩み出す。これは信仰する者が出会う危機ではないか。神の言葉は現実の世界から出たものではなく、神の可能性の上に立ち、神のみ心によって語られるものである。そこに神の言葉を聞く者のつまずきがある。しかし、アブラハムには神の助け、神の守りが常に共にあった。「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(12:2)との神の祝福が、「私が示す地に行きなさい」という命令と併せてあった。それは神の保証である。行き先のわからない不安感、先の見えない不透明感があっても、しかし神の祝福がある、神が保証する希望があった。

 新しいイスラエルの民である私たちもまた同様である。新しいイスラエルの民である私たちに与えられた命令は、大宣教命令(マタイ28:18以下)である。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。「あなたがたは行って……」という主の命令とともに「いつもあなたがたと共にいる」との主の約束がある。

 主の御手はアブラハムを離さなかったように、私たちをも離さない。恵もうとして選ばれる主のかいなは、常に私たち不信仰な者たちを引き寄せ、恵みの御翼のもとに育みたもうのである。すべてをしのぐ神の恵み、そのゆえに、何ものも恐れずに、信じて出発することができるのである。

小沢一郎民主党幹事長発言に対する抗議声明

2009-11-23 10:18:00 | 牧師室だより

牧師室だより 2009年11月22日

小沢一郎民主党幹事長発言に対する抗議声明

 日本人は本当に宗教オンチだなと思わされる事件が起こった。宗教的センス、見識、関心がいかに低いかを思わざるを得ない。小沢一郎氏のキリスト教に対する発言である。小沢氏の発言にも呆れたが、それに対する国民やマスコミ等の受け止め方にもがっかりした。ほとんど何の反応もない。新聞に小さく記事が載ったぐらいである。テレビはほとんど無視。国民の関心を引く問題ではないと考えているのだろう。

 こんな国は世界中で日本ぐらいのものである。国の政権党のリーダーが今回のような発言をしたら、まずは首が飛ぶ。そのくらいの問題発言である。国民として情けなく思うと同時に強く抗議したい。以下、日本バプテスト連盟理事会の抗議声明文を掲載する。

 小沢一郎民主党幹事長は去る11月10日、和歌山県高野町における全日本仏教会松永有慶会長との会談後の記者会見において、キリスト教に対して「排他的で独善的な宗教だ。キリスト教を背景とした欧米社会は行き詰っている」。またイスラム教について、「キリスト教よりはいいけど排他的だ」との見解を表明したと新聞報道されています。
 私たち日本バプテスト連盟理事会は、今回の小沢幹事長の発言は宗教に対する偏見と誤解に満ちた差別発言であり、政治的な意図が窺え、看過することができません。また、この発言は宗教間の対話を非常に重要視している国際社会においても容認されるものではありません。むしろ、今日、世界においてはあらゆる人々が宗教、思想、信条などの違いを超えて共生や和解のために努力・尽力していることを認識すべきです。
 私たちは小沢幹事長の今回の発言に対して厳重に抗議すると共に、今後、国際的にも見識を問われるような発言は控えるよう要望いたします。
 なお、私たちはこれまでも、あらゆる人の命の尊厳を守り、平和を実現するために、他の宗教者の方々とも共に手を携え、祈り、行動して参りました。これからもその姿勢を大切にしてゆく所存です。

2009年11月12日 宗教法人日本バプテスト連盟理事会 

ホームレス支援・バーべキュー会

2009-11-20 15:32:12 | サポーティングハウスひだまり
今日、当教会の中庭でホームレス支援・平塚パトロール仲間の会によるバーベキューが行われた。この不況下、みなさん、職がない、と困っておられた。生活支援、就労支援など総合的な支援体制の必要を思う。
厳しい状況だけども、これからの寒い冬を元気に乗り切ろうとお肉や魚、野菜などいっぱい食べた。同時に、毛布や古着、タオルなど必要なものも渡すことができて感謝。カンパ、毛布、古着、タオルなどありましたら送ってください。

招きにあずかる者

2009-11-18 16:11:51 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2009年11月15日  杉野省治牧師

「招きにあずかる者」 ルカ福音書14章15-24節

今朝の聖書の個所はたとえ話である。「ある人」とは「神」を、「大勢の人」とは神から選ばれたイスラエルの民を指す。宴会に招待されていた「大勢の人」は、事もあろうに「皆、次々に断った」。断りの理由は、それぞれに故なきことではない。農夫にとって畑を買うということは生涯をかけた決断であり、牛を使って牧畜や農業を営む人にとって十頭の牛を買うことは大変な投資だし、新婚の男の場合、結婚は人生の一大事なのだから、それぞれ宴会を断念したことはやむを得ないだろう。要するに、彼らは安易に、勝手気ままに断ったのではなく、断らざるを得なかったのである。同情的に考えれば、彼らだって宴会に行きたかったに違いない。

しかし、彼らの断りの根底には、相通じるもの、共通する同じ理由がある。それは「自分の財産を増やすこと」、「自分の生活を安定させること」、「自分の生活を楽しむこと」、そこに共通しているのは「自分中心の判断」がある。そして、自分中心に物事が判断されるところでは、神の招きは拒否されるほかない、と聖書は語る。大宴会に招かれた人たちは、主の言葉より、自分の願いと思いを優先させた。そして、主の招きに応じることができなかった。私たちは岐路に立たされた時や決断を迫られた時、何を基準にして、何を最も大切なこととして、選びをするだろうか。これは極めて重要な問いかけだと言える。

さて、宴会の始まりを告げに行った僕が、空しく帰って来た時、家の主人は怒って、ためらうことなく、招きの方向を変える。招いておいた人たちが皆、出席を断ったにもかかわらず、盛大な宴会は中止や延期されたりせずに、新しく別の人々を招いて予定通り行われた。神の計画は、人間の反応や都合によって、変えられたりはしない。神のみ旨は必ず成るのである。

聖書の時代、ユダヤ人たちは、自分たちはアブラハムの子孫であり、神の選びの民だけれども、ユダヤ人以外の人たちは、神の選びの外にある地の民であり、異邦の民であり、救われない者と考えていた。しかし、主イエスはこのたとえ話によって、神の救いは、招かれていなかった人々、貧しく、弱く、この世で注目されていなかった人々や、路地裏に暮らしていた人々にも及ぶことを明らかにされた。

このたとえ話の最後の言葉は、随分厳しいものである。「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」。自分たちは神から選ばれた神の民だと誇っていたイスラエルの民は、主の食事を味わうことはできない、と主は言われる。私たちが、自分のことを第一に考えて、自分の利益を優先して考える限り、私たちもまた、招きに応えることはできない。私たちは、表面的な栄光を求めて、真実なものを見落としてはいないだろうか。多くの物を持ちながら、真実に大切なものを失ってはいないだろうか。楽しみに心を奪われ、私たちを真実に生かすものを見逃してはいないだろうか。

最後に、私たちは、もう一度この大宴会の招き主に注意しなければならない。だれが私たちを招いてくださるのか。招き主は、神の独り子でありながら、人となり、この世に下り、私たちの救いのために十字架上に死に、復活して今も働きたもう主キリスト・イエスである。その主が、「来たれ、すでに備わりたり」と招いてくださるのである。今、私たちに求められていることは、謙虚に、心を開いて、主の招きに応えること。そして、そこでは、そのうちに参りますと言うのではなく、応答の即時性、今この時の決断が求められている。


銭湯検定に挑戦!

2009-11-16 15:42:25 | 牧師室だより

牧師室だより 2009年11月15日 銭湯検定に挑戦!

 世の中、検定ばやり。昨年は、漢字検定の協会が不正をして世を騒がせたが、検定ブームはおさまりそうもない。○○検定という名がつくものが数多く生み出されている。銭湯検定もその一つ。

 銭湯検定が今年から始まったという情報を聞きつけた、趣味が銭湯めぐりの私は、さっそく検定にチャレンジすることにした。まずは4級から。これはれっきとした?社団法人日本銭湯文化協会実施によるものである。ただし、合格したからといって、就職や出世には全く関係のないことをことわっておく。いくつか出題するので挑戦してみてください。

(1)寺院が布教のために庶民に入浴の機会を与えたことを(  )といった。
  ①沐浴 ②温浴 ③施浴 
(2)江戸時代の銭湯の、浴室から湯船のある部屋に入るときくぐる低い入り口の名前は(  )である。
  ①牡丹口 ②琵琶口 ③石榴口 
(3)江戸時代の銭湯は定休日以外、ふつう(  )は営業しないことになっていた。  ①雪の日 ②風の強い日 ③雷が鳴っている日 
(4)式亭三馬が江戸時代の湯屋に集まる人々を描いた作品は(  )である。
  ①湯屋百景 ②日本永代蔵 ③浮世風呂 
(5)江戸時代の女性は美白のために銭湯では(  )で洗顔した。
  ①ツバメの糞 ②スズメの糞 ③ウグイスの糞 
(6)東京の銭湯建築に特徴的な「宮造り」は、(  )に急に増えてきた。
  ①江戸時代 ②明治中期 ③関東大震災後 
(7)銭湯の背景画は東京・神田猿楽町にあった「キカイ湯」が発祥で、(  )の絵が  描かれた。 ①鯉 ②富士山 ③七福神 
(8)銭湯の入浴料は、法律で3つに区分(一般に「大人」「中人」「小人」)されている。  大人の区分は(  )である。 ①12才以上の者②15才以上の者③18才以上の者(9)端午の節句の日に、(  )を入れて、入浴すると邪気を払うといわれる。
  ①ショウブ ②バラの花 ③桃の葉 
(10)20世紀半ば「時間になると銭湯の女湯から人が消える」という伝説を生んだラジ  オドラマは(  )である。 ①君の名は ②青い山脈 ③紅孔雀 

 さて、正解は何問?7問以上正解を合格とする(正式には50問ある)。雑学は人生の潤滑油。
<答え>(1)③(2)③(3)②(4)③(5)③(6)③(7)②(8)①(9)①(10)①
*問題は「社団法人 日本銭湯文化協会」の銭湯検定4級試験より出題。