平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

悪を善に変える神

2011-06-28 18:27:14 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年6月26日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「悪を善に変える神」 創世記50章15-26節
      
 父ヤコブを埋葬した後、ヨセフたち兄弟はエジプトに戻って来る。しかし、ヨセフの兄弟たちは、父ヤコブが死んでしまったので、ヨセフの仕返しを恐れた。そこで自分たちがした悪事についてヨセフにゆるしを乞う。するとヨセフは彼らに応えて、「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。どうか恐れないでください」(50:19-21)と言った。確かにヨセフは兄弟たちの悪だくみによって、見ず知らずのエジプトへ奴隷として売られ、いろいろな苦労をした。もし彼は父のもとにいたら、彼の人生はもっと平穏であったに違いないだろう。しかし、神はこの不幸を良きに変わらせ、彼をエジプトの宰相とし、彼の親族を救わせて下さった。この事実を見る時、彼は兄弟に対する仕返しなど考えも及ばぬところであったのである。
 
 旧約の詩編84:6-7に「いかに幸いなことでしょう/あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は。嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」と詩人は歌っている。また預言者ホセアは2:17で「アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える」と神の言葉を告げている。アコルの谷とは苦悩の谷という意味。
 
 われわれは嘆きの谷を恐れ、苦悩の谷を忌み嫌う。自分でそこに落ちることを恐れ、また人におとしいれられはしないかと不安な気持ちを持つ。確かに、嘆きの谷や苦悩の谷は自ら進んで入るべきところではないだろう。しかし、もしそれらの暗い谷を泉ある所とし、希望の門としてくださる神がおられるならば、私たちはそれらのものを恐れる必要はなく、それらから自由にされた人生を生きることができるのである。
 
 人生にはいかなる金の力も、どんな人の好意も、そこにまで届かない谷がある。死である。私たちは、どんなにお金をかけても、医療に頼っても、やはり最後は確実に死ぬ。この事実を無視するような生き方は砂上の楼閣を築くようなものである。私たちは事実を無視してはならない。しかし、この事実とともに、もう一つの事実をも無視してはならない。それは「悪を善に変えられる」神がおられるという事実である。
 
 それゆえ今、人の悪だくみによって苦しみを追わされている人がおられるならば、その人はこの神に目を注ごう。今、嘆きの谷にたたずみ、悲しみの中にある人がおられるならば、その人は涙をぬぐいさろう。今、苦悩の谷で悩みと不安の内にある人がおられるならば、その人は躍り上がろう。なぜなら、神はそれらを良きものに、善に変わらせてくださるお方であるからである。ヨセフも証ししている。50:24と25節で繰り返し言っている。「神は必ずあなたたちを顧みてくださいます」。この神に対する信仰をしっかり持って、歩んでいくことである。

祈りって何ですか? ②

2011-06-28 17:57:17 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年6月26日 祈りって何ですか? ②

 よくキリスト教のお祈りの仕方を教えてくださいと聞かれます。キリスト教の祈りは、「天の父なる神さま」という呼びかけから始まります。信仰の対象がはっきりしているからです。

 では、どんなことを祈ればいいのでしょう。一般的な祈りは、商売繁盛、家内安全、無病息災、合格祈願など、自分本位なものが中心で御利益的なものばかりです。それらもいいのですが、キリスト教の祈りには、それ以上にもっと大切な内容があります。

 まず、神への賛美です。天地万物を創造された神の御名と御業をほめたたえます。次に神への感謝、神から受けた恵みを忘れてはならないでしょう。感謝することは、信仰の最大の表現です。悔い改めの祈りも必要となります。私たちは不完全な欠けだらけの存在です。キリスト者は、信仰生活が深まるほど、自分の罪や弱さがわかってくるのです。ですから、神に対する日ごとの悔い改めが大切なのです。

 願いごとも祈ります。先に挙げた内容も含めて、日常生活の必要を祈り求めます。そのときに、自分のためばかりでなく、他人の必要のためにも祈ります。これを「とりなしの祈り」と言います。先に述べたように、キリスト教の祈りの対象は「神」です。だから、人生のささいなことから重大事にいたるまで、すべての事柄について神の導きを求める祈りをします。

 祈りは神との会話です。特別な必要がなくても、神との親しい交わりを求めるのは必然で、それは祈りとなっていきます。以上のようなことを祈りますが、いつもすべてが含まれるということではありません。聖霊の導きに従って祈ればいいのです。

 最後に「イエス・キリストの御名によって祈ります」と言って、祈りを終えます。それはきよい神さまと罪深い私たちを結びつけてくださったのはイエスさまだからです。そして最後の最後、「アーメン」と言います。「アーメン」とは「その通り」あるいは「その通りになりますように」の意味です。祈りの仕方がわかったでしょうか。

罪の自覚

2011-06-21 11:56:10 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年6月19日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「罪の自覚」 サムエル記下12章1-6節
      
 イスラエルの統一王国の最初の王であったダビデの「罪」を聖書は隠さず記している。人間を美化せず、その弱さや罪をそのまま記す聖書のリアリティーはなかなかのものだと思う。なぜなら人は通常自分に都合の悪いところは隠そうとするからである。しかし、サムエル記下11章にダビデの「罪」はしっかりと記録されている。
 
 自分の部下であったヘト人ウリヤの妻バト・シェバが沐浴しているのを見初めたダビデは、彼女を呼び寄せて自分のものとしてしまう。これは十戒の「姦淫してはならない」という戒めに対する背きである。ダビデはウリヤが邪魔になったので、彼を戦場の最前線に送り、戦死させてしまう。
 
 そして、続くサムエル記下12章、そこには、預言者ナタンが「二人の男の譬え」を挙げてダビデの罪を叱責する場面が記されている。譬えを聞いたダビデは罪を犯した男に「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」(サムエル記下12章6節)と激怒する。このダビデの言葉に続くのが、「その男はあなただ」というナタンの叱責の言葉である。この糾弾の声にダビデはハッと覚醒する。その時に彼は初めて自分の犯した罪に気づき、深い悔い改めをもって、「わたしは主に罪を犯しました」と告白する(12:13)。罪の自覚のためにダビデは預言者ナタンの叱責の声を必要とした。そしてそこではこの罪が何よりも「主」に対して犯された罪であったということが自覚されている。

 神から遣わされた預言者の役割はイスラエルの民に罪の自覚を促し、罪からの悔い改めを迫り、民を真の神に立ち返らせることである。主なる神は私たち人間に自らの罪を自覚することを求めている。しかし私たちの眼は自分の視界を妨げている「丸太/梁」を見ることはできないようである。マタイ7:3で主イエスは「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか」と言われているとおりである。
 
 ダビデがナタンを必要としたように、私たちも外から私たちに対して言いにくいことであってもそれをきちんと告げてくれる者の声を必要としている。洗礼者ヨハネは荒野で「主の道を備え、その道筋をまっすぐにせよ」(マルコ1:12)と呼ばわった。また、ペテロが三度イエスを知らないと拒んだ時に鳴いたのは鶏であった。鶏の鳴き声によってペテロは主イエスの離反予告の声を思い起こしたのである(マルコ14章)。ここでは鶏が預言者ナタン的な役割を果たしている。印象的なことにルカ福音書はこの場面にペテロを見つめられる主のまなざしを付記している (ルカ22:61-62)。
 
 私たちにとってのナタンの声、預言者ヨハネの声、鶏の鳴き声、主のまなざしをどこに聴き、見ることができるのだろうか。神は聖書の御言葉を始め、様々な出来事、証しを通して私たちに罪の自覚を求めておられる。それは、神を神とし、人が人として生きる真の道だからである。

祈りって何ですか? ①

2011-06-20 14:02:03 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年6月19日 祈りって何ですか?①

 人生には宗教が必要であり、宗教には祈りがつきものです。特定の信仰をもっていなくても、「ご健康をお祈りします」と書いて手紙を締めくくったりします。このことからも、特定の信仰の対象がなくても、多くの人に祈り心があるのは確かです。それでは、キリスト教会では、祈りについてどのように教え、どのように祈っているのでしょうか。

 キリスト教の祈りは「神との交わり」を意味します。具体的には「神との会話・霊的生命の呼吸」です。ちょうど肉体的生命に食事と呼吸が必要なように、霊的生命には、「神のことばと祈り」が必要なのです。それは、祈りが単なる形式ではなく実質であることを意味しているのです。

 「日本人は信心深いが、信仰心が乏しい」とよく言われます。それは「信じる対象よりも、信じる心が大切である」と考えているからなのです。自力本願とでも言えましょう。信じる自分が中心で自分の心、気持ちが大事なのです。ですから、先に挙げた「ご健康をお祈りします」というのは、あなたの健康を案じているというより、私はあなたのことを案じていますよ、という自分の気持ちを伝えることに重要な意味があるのです。だれに向かって祈っているかは問題にはなりません。ですから、昔から、「何者のおわしますかは知らねども/かたじけなさに涙こぼるる」とか、「祈りても/しるしなきこそしるしなれ/願う心のまことならねば」と歌われるのも分かります。

 しかし、キリスト教では祈りの対象がはっきりしています。それは、天地を創造された、全知全能の神さまです。だから、「神さまはわたしの祈りに答えてくださる」という確信に満ちて祈ることができるのです。

 祈りは、子どもがお父さんに話すように祈ればいいのです。イエスさまも「アッバ、父よ」と祈られました(マルコ14:36)。「アッバ」とは、アラム語で「お父ちゃん」と呼ぶ、親しみのこもった言葉です。そこには子どもを愛し、支え、保護してくれる父親への絶対的な信頼と親しみが込められています。(このテーマは次週に続く)

勇気を出しなさい

2011-06-14 12:18:46 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年6月12日 ペンテコステ礼拝宣教 杉野省治牧師

 「勇気を出しなさい」 使徒言行録23章1-11節      
 
 パウロは最高法院の取調べを受けることになったが、律法に精通しているパウロに大祭司も最高法院全体も歯が立たず、復活の問題をめぐって会議は分裂騒ぎを起こしてしまう。パウロは、ローマ市民であることを名乗って千人隊長を屈服させたこともそうだが、最高法院でのパウロは実に巧妙な駆け引きや弁論で追及をかわしている。

 パウロはここで、一つの政治的なテクニックを用いた。パウロは議会を見て、サドカイ人とパリサイ人とがいるので、「わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです」と発言をした。サドカイ派とファリサイ派は日頃から復活や霊、天使などをめぐって論争している犬猿の仲。両派は復活を信じるパウロの発言をめぐって論争を始める始末。訴えている相手が、暴力的で、狂信的なごり押しできているようでは、もう正当な弁明は聞いてもらえないだろうと判断し、裁判上の駆け引きを用いたのである。キリスト者は、ただ馬鹿真面目ではなく、イエス・キリストも言われたように、「へびのごとく賢く、はとのごとく素直であります」。

 このようなパウロの対応をどう考えるべきだろうか。11節にその答えを見いだすことが出来るだろう。「エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」(23:11)。確かに、パウロは、早くから、「私は、そこ(エルサレム)へ行った後、ローマも見なくてはならない」(19:21)という主の使命を受けていたのであり、彼が熱望したことだった。だから苦難や身の危険をも恐れず、同時にどのような事態にも賢く対処することが出来たのではないだろうか。
 
 ここで神はパウロに現れ、「勇気を出しなさい」と言われた。それはヨハネの福音書16章33節で、主が「あなたがたはこの世では悩みがある、しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っています」と、言われたあの御言葉と同じである。このように私たちの主は、すでに勝利しているから、主の僕は安心しなさい、しっかりしなさい、「勇気を出しなさい」というのである。しかもただ安心するだけではなく、そのように、主からいただいた力を通して、主を証しするよう励ましているのである。

 神は、パウロに、「勇気を出しなさい、あなたは、エルサレムで私のことを証ししたように、ローマでも証ししなくてはなりません」(23:11)、こう言って励まし、慰めを与えた。しかし、これは単に、個人的な慰めではなく、私たちが、神の宣教と隣人のために生きる時、そのような奉仕の中で、神からの励ましと慰めとを受けることなのである。果たして私たちは、このキリストへの奉仕と、宣教の使命を知って、それに生きているだろうか。ただ個人的に慰めと励ましだけを得たいと願って、神と人に奉仕することを忘れてはいないだろうか。ここでは神の励ましと神の使命とは、しっかりと結びついている。「勇気を出しなさい」という慰めと励ましは、ただ個人的に慰めと励ましを得るということに留まらず、神と人に奉仕する、神と人に仕えるという主の使命へと私たちを押し出していくのである。

 聖霊ってな~に?

2011-06-13 06:38:53 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年6月12日 聖霊ってな~に?

 今日はペンテコステ、聖霊降臨の記念日です。使徒言行録の2章に書かれているように、主イエスの復活日から数えて50日目、聖霊が弟子たちに降って、彼らは力と励ましを与えられ、復活の証人として立てられていきます。

 では、「聖霊」ってなんでしょう?霊というと幽霊、亡霊、背後霊ということを連想したり、最近ではスピリチュアルスポットとかパワースポットとかいって霊的スポットがブームになっています。何やら摩訶不思議な、怪しげな力を漠然と考えたり、ただ健康だとか金運、結婚運、癒しなどの御利益を求める対象になっているようです。

 聖書のいう聖霊とは、目に見えることはできないが現実に働く神の愛の力です。愛に気づかせる神の力と言ってもよいでしょう。中世の神学者トマス・アクィナスは「愛こそは聖霊の本来の名」と断言しています。

 聖霊、見えない霊の力が見えるものに働きかける、その作用力から形、行為、言葉が生じます。具体的な働きは、聖霊のカタログと言われているガラテヤ書5章22節以下に、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」とあります。みんな願わしいこと、欲しいものばかりです。

 聖霊はギリシア語で「プネウマ」といって「気」つまり生命原理そのものにも触れる、深く重い領域にも接します。もちろん精神的領域にも関係します。ではどうしたら聖霊は受けられるのでしょうか。祈ることです。私心を取り去り、神に向かう心に聖霊は注がれます。「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル上3:9)と祈る時、聖霊に満たされます。

 聖霊を受けると、力強くなり、人と共に生きようとし、素直な心で恵みを受ける心が与えられます。力、交わり、恵みを得る。狭さが広さへと変えられ、自由になるという感じです。聖霊は人を酔わせるものでなく、目覚めを与えつつ、広く豊かに自由に人を生かします。聖霊の働きを求めて祈りましょう。

*『おもしろキリスト教Q&A77』(山北宣久著、教文館、2001)48-49p参照。

土に癒される

2011-06-11 09:45:27 | サポーティングハウスひだまり
平塚市片岡にある「ひだまり農園」。
毎週火曜日の午後に農作業をしている。
5~6人が雑草を抜き、土を耕し、種をまき、苗を植える。
水やりもする。そのように土に触れながら土に癒されていく。
少しずつ、作付けも進み、収穫できるようになった。
初めて参加したAさんは、「土を耕していると癒される」と
感激していた。また来たいと喜びを隠さない。
Bさんとは休憩時間に年金の相談を受ける。
いろいろおしゃべりしながら楽しい時間が過ぎていく。

万軍の主の熱心

2011-06-09 16:21:51 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2011年6月5日 主日礼拝宣教  杉野省治牧師

 「万軍の主の熱心」 使徒言行録22章1-21節      
 
 パウロは今、激高するユダヤ人の前に立って弁明を試みようとしている。18章では、パウロはアテネでギリシアの学者を相手に説教した。しかし、それはあざ笑われておしまい。そして今は、ユダヤ人の前に立っている。けれども福音はユダヤ人にはつまずき、ギリシア人には愚かなものに映った。それにもかかわらずパウロは、福音を語ることをやめない。このパウロの伝道の熱心さはどこからくるのか。
 
 回心前のパウロは、実に謹厳な、真面目で信仰熱心な人間であった。厳格なパリサイ人である。ごりごりの律法主義者と言ってもよい。だからパウロ自身も、「今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」(22:3)と言っている。しかし、律法に熱心、それは自分の熱心にほかならない。人間の熱心は、いずれ崩れ去る。熱いものは必ず冷める。当たり前のこと。

 今パウロは人間の熱心から、「万軍の主の熱心」(イザヤ37:32)に変えられたのである。人間の熱心は、しばしば熱狂や狂信を生む。それは、手前味噌の熱心。それは、神の言葉以外のものに頼ろうとする人間の偶像礼拝にほかならない。人間の熱心は、必ず行き詰まる。人間は、自分の外にある、この真理の言葉の威力を知らないと、別なものに依り頼む。こうして、人間の熱心が行き詰まった時、神の熱心、「万軍の主の熱心」が現れてくる。
 
 パウロは、面白いことに自分が迫害している、当のイエス・キリストから呼びかけられた。彼は、三日間目が見えなくなった。神は、現れる時、まず私たちを打ち砕く。どんな人間の熱心も、神が目一つを奪えば、もう絶望の底に落ちるほど、人間は弱いもの。しかし、この絶望のどん底で、神は新しい目が開かれるように用意してくださる。これまでのパウロの熱心と勇気の源は、きわめて人間的な誇りに過ぎなかった。回心は、人間の一切の誇りを奪う。「誇り」は、「塵あくた」に過ぎない。見栄と外見で固めた心は、神によって打ち砕かれなくてはならない。回心とは、私たちが「得る」ことよりも、先に「奪われる」こと。私たちがキリストを信じたいと思うなら、奪われよ、取り去られよ、失え。つまり捨てなくてはならない。それはキリストを得るためにほかならない。

 回心はどんな人間にも、起こることである。パウロのようなキリストの迫害者に起こったとすれば、どうして他の人に起こらないはずがあろうか。回心とは、神中心に帰ること。神第一の生き方に方向転換すること。その時、自分の罪が示される。私たちはそこで、悔い改めを迫られる。そして悔い改めた人間は、同時に主告白をし、同時に罪のゆるしを信じて、行動的になっていく。そのことを、パウロは自分の身に起こったこととして証している。その証の中心は、主の呼びかけであり、主の熱心である。「熱心に神に仕えていた私」が、主の呼びかけ、主の熱心に応えて、伝道者として異邦人に福音を語って行く道を歩み始めたことであった。すべては、主の呼びかけ、主の熱心から始まるのである。

 今朝、あなたに主は何と呼びかけておられるか?その主の呼びかけに、主の熱心に応えることこそが福音宣教の働きへと押し出されていくことなのである。

これ、何の穴?

2011-06-07 14:22:17 | 風景
これ、何の穴?子どもの遊びのあと?自然にできたもの?車のタイヤで削られた?はたまた蟻地獄?何やら春になると教会の中庭に3-5個ぐらい、直径10-20㎝のあなが出没。
先日、現場を目撃。なんとスズメが水浴びならぬ砂浴びをしていたのだ。これで人生の謎の一つが解けました。めでたし、めでたし。

聖霊降臨祭(ペンテコステ)

2011-06-07 07:13:31 | 牧師室だより

牧師室だより 2011年6月5日 聖霊降臨祭(ペンテコステ)

 今年の聖霊降臨日(ペンテコステ)は来週の6月12日です。「ペンテコステ」はギリシア語で「50日目」という意味。旧約聖書ではユダヤ教三大祭りの一つである過越しの祭りから数えて50日目。だから「五旬節」とも言います。この日、モーセがシナイ山で十戒を中心にした律法を与えられたので五旬節をユダヤ教の誕生日としています。

 新約聖書では、イエス・キリストの復活から数えて50日目。主イエスが十字架にかかられた時、弟子たちは逃げ去りましたが、復活した主イエスの姿に接して、喜びのうちに再び集まります。そして50日目、彼らの喜びをさらに決定的にする出来事が起こりました。彼らはそれを「聖霊に満たされた」と表現しました。弟子たちにとって聖霊に圧倒される体験だったからです。

 その日から弟子たちはエルサレムで公然と宣教を始めます。神の国を告げ知らせたために処刑されたばかりの主イエスを証し始めたのです。神が自分たちと共にいて守り導いてくださると確信しなければとうていできないことです。神の霊が人を立ち上がらせたのです。教会ではこの日を記念して聖霊降臨祭として祝います。

 ところで、皆さんは、「霊」「聖霊」という言葉からどんなイメージを持ちますか。「幽霊」「交霊術」「心霊写真」など、オカルト的にとらえたり、興奮や陶酔感と結びつけたりということはないと思いますが、なんとなく分らない、実感がないという人はないでしょうか。

 もしあなたが御言葉を聞いて「イエスは主である」と信仰告白に至るならば、あなたはすでに聖霊をいただいています。愛、喜び、平和といった良い実を結ばせるのも聖霊です(ガラテヤ5:22-23)。

 ただ、聖霊の働きには、人には予測不可能な自由さがあります。風(聖霊)は思いのままに吹きます。そのことは、宣教の働きが神ご自身であり、私たちでないことを明らかに示しています。