平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

神の選びと応答

2014-09-30 14:19:56 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年9月28日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神の選びと応答」 民数記16章1-11節
 
 神の立てられた指導者としてイスラエルの民を導いてきたモーセやアロンは、強力なリーダーシップを持っていた。この指導者としてのモーセたちに対して、反発が起きた。強力なリーダーシップを発揮するモーセたちに対して、「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であって、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立とうとするのか。」(3節)と人々は訴えた。共同体全体が、聖なる神の民であって、その上に立つ責任を持った指導者などは必要ないと、言うのである。
 
 モーセとアロンに反逆したのは、レビ人コラに率いられた人々だった。レビ人というのは、神に仕える者として神に選ばれ、神のものとされた人々である。彼ら自身聖なる儀式で立ち働く資格を有する者であった。そのレビ人であるコラが、共同体全員を聖なる者とし、主の会衆の上に立っているという理由でモーセやアロンを訴えるのである。神の選び、神の特別な働きを託されているレビ人が、神の選びや働きの違いを認めないのである。モーセは、コラの思惑の中にある祭司職要求を見抜く(8-11節)。
 
 新約の時代にも、これと同じような紛争がコリントの教会にあった。使徒パウロは、この事柄について、「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(第一コリント12:4-6)と説いている。また、「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(第一コリント12:21)とも言っている。すべてのものは体の肢体のごとく、神にとってはなくてはならない尊い存在であることを教えている。
 
 どんなところに置かれても、そこに神の選びと召しを覚えて、神に向かって生きる時、神はその人を用いて、御自身の栄光の御業を進められる。私たちにとって大切なのは、自分の能力でもなければ、置かれた境遇でもない。私たちにとって大切なことは、この私が神に選ばれているということである。これこそ、私たちにとって、決して小さいことではない。これを誇り、ここに立って生きることこそ、私たちの最高の人生である。
 
 ダダンとアビラムは、コラと同じように不平を持っていた。それは、指導者としてのモーセはその職務を全うできなかったというものである。つまり、約束の土地に導き入れず、嗣業の土地を与えず、イスラエルの民を荒れ野で死なせるというものだった(13-14節)。ダダンとアブラムは、イスラエルの民が引き起こした背きと不信仰によって約束の地に入れなかったこと(13-14節)の責任を指導者にのみ負わせ、自らを省みようとしない。約束の地への侵入に失敗したイスラエルの民の自暴自棄的な屈折した心理状況がダダンとアビラムの中に見える。
 
 このときモーセは、どのように対処しただろうか。それは神にゆだねた。神の裁きにゆだねた、ということである。皆に香炉を持って、主の御前に出るよう、モーセは命じた。人間は神の定めた秩序を壊し、自分の役割を見失い、自分自身を聖なる者、権威ある者としていく誘惑にさらされている。しかし、真の権威は神ご自身のみにある。会衆の上に君臨していく権威が、人間モーセの中にあったのではない。神の権威の中でその時選び立たされた者が、特別な役割と責任、指導者としての役割と責任を果たすのである。

祝福ってな~に?

2014-09-30 11:05:48 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年9月28日 祝福ってな~に?

 この夏に3歳の孫娘が遊びに来た時、突然、大声で「♪ありのままで~」と歌い始めた。それも何回も同じフレーズを気持ちよさそうにというか無邪気にというか両手を広げて歌っている。このフレーズは、今春から上映されているディズニー映画『アナと雪の女王』の主題歌「Let It Go」のワン・フレーズである。

 「ありのままで~」か、そういえば聖書のメッセージも、「ありのままでいい、あなたは愛されている、あなたは生きる意味がある」と私たちに語りかけているではないか。これって、もしかしたら「祝福」のこと?

 キリスト教でいう祝福は「上から下へ」のもので、神からの祝福を指す。「God bless you」(神のお恵みあれ、神の祝福があるように)という言葉がそれを言い表しているだろう。では、祝福の内容はというと、旧約聖書時代では、子孫が多いことや仕事が繁栄していることが大事な要素となっている。「必ず、わたしは彼を祝福し、大いに子供を増やし繁栄させる」(創世記17:20)。新約聖書になると、神の祝福がイエス・キリストによって地上に実現された、とする考え方である。

 地上で実現された出来事とは十字架と復活の出来事。それは向こうから(上から)、一方的に、無条件で降って来られた主イエスの贖いの出来事であり、愛の業である。無条件、ありのままでよし、とされる。祝福は肯定されるとか、受け入れられるとかを含んでいる。私たちをありのままで、根本的に受容し、承認することでもある。その反対が、否定し、排除すること、すなわち呪いである。

 神に祝福された者は、人を祝福する者とされていく。「祝福の源」とされたアブラハムは息子イサク、イサクは息子ヤコブというように祝福は継承されていく(創世記12章~)。ペテロの手紙一にも「かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(3:9)と明言されている。祝福は分かち合うものでもある。

人生の再解釈

2014-09-26 16:53:20 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年9月21日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「人生の再解釈」 詩編22編2-22節

 22編は人間の苦悩とは何か、一体、信仰者はどういうことを苦しむのかをよく言い表している。死の苦しみの呻きだろうか。この詩人は今ひどく不安に襲われている。死の病に取りつかれ、熱と苦痛、そして不安のために身の置き所がない。その上、周囲の人々が、彼を苦しめる。「わたしは虫けら」「人間の屑」「わたしを見る人は皆、私を嘲笑い」とある(7-8節)。彼は苦痛の中にあって、しかも孤独。「助けてくれる者はいないのです」(12節)。

 そのような中にあって、この詩人は苦しめる最大のことは、病の苦痛でもなく、また人間の非難や中傷でもなく、それは「神に見捨てられること」と語っている。ここで詩人は、何よりも深い苦しみは、神に見捨てられること、神が私たちの嘆きの言葉から身を背け、遠くにいて、身を向けてくれないことだと言う。それが人間を絶望の淵に落とす。
 
 しかし、この詩人は、その絶望の中でなお「わたしの神、わたしの神」と呼んでいる。それは、絶望の中でなお神を信じ、神に信頼を寄せているからではないだろうか。それは、「母がわたしを身ごもった時から 私はあなたにすがってきました。 母の胎にある時から、あなたはわたしの神」だからである(11節)。詩人はここでこれまでの自分の歩みを振り返っている。また自分の先祖の歴史を想い起している(5-6節)。そして、そこに示された神の憐れみを想起している。そのことがこの詩人を支えている。
 
 だれでも自分の人生を再解釈することができる。解釈し直して、正しく理解することができる。「わたしを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです」。このように誰でも人生をそう受け取り直すことができる。それは、神さまと出会い、神の愛を受け入れ、神の救いを信じることから起きる。

 その救いとは何か。この詩人の場合、病を癒されたのでも、敵がいなくなったのでもない。そこにあるのは、25節に記されている「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません」「御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださる」ということ。苦しむ者の苦しみを軽んじない神がおられる。それが神の救い。病が癒されたか、敵から救いだされたか、それは分からない。しかし分かっていることは、救いに入れられると人間は変わる、人間は救いの中で変えられるということ。新しく生まれ変わるということ。それは、今までの人生の歩みを振り返った時、その意味が再解釈されるからである。
 
 主イエスが十字架の上で、この詩篇22編の祈りをご自分の祈りとされたことが福音書に書かれている。それは、この詩人の苦しみ、そしてこの詩に託されたイスラエルの民とあらゆる人間の苦しみをご自分のものとされたということである。そのことは、苦しむ者の苦しみを神は軽んじないということが、主イエスの十字架によって決定的な証拠をもったということである。そこに救いはある。
 
 神が御子イエスの受難の中で、苦しむ者に目を向けてくださり、苦しむ者の苦しみまで降りて来られた。それだけではなく、主イエスは苦しむ者、神に見捨てられたと思われる者の身代わりになられた。主イエスは、苦しむ者の傍らにいてくださり、代わってその苦しみを負ってくださった。それは苦しむ者も神に見捨てられていないということ。ここにわたしたちの救いがある。
 
 救いとは、あなたの苦しみを神が軽んじないということ。神があなたに恵みをもって全身を向けてくださること。神が愛をもって共におられ、捉えてくださるということ。そのとき、わたしたちも変えられ、人生の再解釈がなされ、感謝と賛美を歌うことが出来る。
 

証しをしよう

2014-09-22 17:18:42 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年9月21日 証しをしよう

 先日、ある求道者の方から、今日の伝道礼拝の案内を読まれたのでしょう、「証しってなんですか?」と聞かれた。「証し」は証明、証拠という意味で一般的に使われている。「身の証しを立てる」「友情の証しとして」などと使われる。必ずしも「証し」は教会用語ではない。しかし、教会で使われると通じない。異教の地日本での伝道の難しさを思い知らされる。

 そこで、今日は証しについて考えてみた。証しにはいろいろな定義があるが、簡潔に言うならば「イエスが救い主であることを隣人に身をもって証言すること」と言えるだろう。言葉だけでなく、身をもってというところが大切。

 ザビエルが、マカオに漂流して滞在していたヤジローという漁師に、「これからあなたの国に行って伝道するのだが、どういう点に気をつけたらよいか」と問うた時、ヤジローは率直に、即座に次のように言ったという。「私たちの国民は良い教えは耳からではなく、目から入ると存じております」。

 だからといってあまり見える面だけを強調すると、表面だけ、外見のみを気にし、裏と表がつながらなくなったりする危険性があるから、程度問題なのだが、言行一致による証しが相手に通じることは昔も今も変わらないだろう。

 神が今も生きて働いておられることを身をもって証言することが証しだから、言葉で証しする、行いで証しする、そこに居続ける存在をもって証しすることが考えられる。言葉や行いで証しできなくても、礼拝に出席し続けることは大切な証しである。

 また、自分を通して主イエスを指し示す証しはあの将軍ナアマンの妻の召使いのようで良いのだと聞いたことがある。捕虜として連れられて来られた少女は、「ご主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」と女主人に神の人エリシャを紹介したのだ(列王紀下5章3節)。主イエスを紹介する証し人になろう。紹介するのが苦手な方は、教会へ誘いましょう。

キリスト者の自由

2014-09-18 17:50:06 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年9月14日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「キリスト者の自由」 コリントの信徒への手紙一9章19-23節

 現代の私たちにとって、自由ほど魅力的な言葉はないだろう。また、自由と権利を最も尊重すべき普遍的価値と考え、それを最大限利用するのが、現代人の生き方であると考えている。パウロの場合は、使徒としての「権利」を用いない。用いないという自由を選び取ったのである。このパウロの言う自由について、19節から見ていく。
 
 ここでパウロは、自分の伝道姿勢をさらに具体的に提示する。「私は、誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷となりました。できるだけ多くの人を得るためです」。これが基本姿勢。自由な人だけがすすんで仕える人になれるということ。逆に言うならば、進んで仕えることができない人はまだ自由になっていない人であり、パウロの言葉を用いるならば、「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子」であり、固い食物を食べられない人である(3:1-2)。
 
 パウロは、「できるだけ多くの人を得るためにすべての人の奴隷になりました」と言う。そのために自由を行使するのである。通常なら、自由は奴隷からの解放としての自由を考えるのが自然である。しかしパウロは、奴隷となる自由を選び取ったのである。言い換えれば、不自由となることをよしとする自由である。キリスト者の自由は、「~からの自由」ではなく、「~への自由」であると言われるが、彼がここで言う自由はそれこそ「~への自由」と言うことになる。彼はその自由を駆使して、「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のように……律法に支配されている人に対しては、私(パウロ)自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。……」(9:20)と言う。そしてついには「福音のためなら、私はどんなことでもします」(9:23)とさえ言っている。彼にとって自由とは解放を意味しない。不自由や束縛、痛みや苦悩すら、よしと引き受けていく自由である。罪の奴隷から解放され自由になった者(キリスト者)は、今度は「~への自由」に生きるのである。
 
 それはどういうことだろうか。様々な文化的・個人的相違を十分認めつつも、福音が相手に届くために自分を相手に適応させるべく、あのキリストがご自分を低くして神に服従なさった道、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)に従って、自分も歩くということだろう。

 コリントの教会には、弱い人を躓かせたり、傷つけたりして、自分を「強い人」と言って高ぶり、「すべてのことが許されている」と言って教会を建てることを妨げている人たちがいた。彼らへの痛烈な批判がここにあるだろう。弱くなれる人こそ本当に自由な人、強い人なのである。自分勝手な自由ではなく、「福音に共にあずかる」ため(23節)、弱い人へとなっていくのでなければ、実は福音にあずかれないのだと言っているのである。これは私たちにとってはチャレンジ。

 共感、共に生きる、寄り添う、思いやる、降りていく生き方、~からの自由ではなく、~への自由。

愛は造り上げる

2014-09-18 11:04:34 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年9月7日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「愛は造り上げる」 コリントの信徒への手紙一8章1-13節
 
 神は問題のない教会や信仰を求めておられるのではない。むしろ問題を神の前に持って行き、神の知恵と力を祈り求め、私たちがキリストによって共に生きることを求めておられるのだと気づけば、私たちは失望する必要はない。
 
 この8章で共に生きることを妨げている問題として語られているのは、「偶像に供えられた肉」を食べて良いか否かの問題である。コリント教会ではこの点につき見解が分かれ、パウロに導きを求めた。知識をもっている人たちは食べてもよいとしたが、その人たちは「世の中に偶像の神などはなく、また唯一の神以外にいかなる神もいないこと」(4節)という知識を持っていた。パウロもその点では同意見である。
 
 しかし、「この知識がだれにでもあるわけではありません」と、パウロは語る。どういうことなのだろうか。「ある人たちは……肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」と説明している。頭では偶像など存在しないと分かっているつもりでも、実際に目の前にある肉が偶像に供えられた肉だと分かると、信仰による確信が弱いために、食べた時に確信が揺らぎ、自分は神に対して罪を犯したという自責の念にかられ、神の前に澄んだ良心を持って出るのが妨げられてしまうということだろう。
 
 知識を持っている人たちからすれば、何と愚かなことかと思われるに違いない。彼らはその良心の弱い人に優越感を持ったことだろう。当時のコリントという異教社会では近所の人との交際上、偶像の神殿での食事の席に招かれることもあったはず。そのようなとき、知識を持っている人が良心の弱い人を教育してやろうと思って、その席で肉を食べ、弱い人はそれにつられて食べるようになる事態を想定し、パウロは警告をしている。その結果、弱い人はその後、自責の念にかられ、罪を犯したという呵責に耐えきれず、信仰がつぶされてしまうことになる。
 
 そのことをパウロは「あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」と警告する。「このようにあなたがたは、兄弟に対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」と断定している。
 
 何が問題なのか。このことを考える時、パウロは知識と愛の関係をまず持ち出す。「われわれは皆、知識を持っている」というコリントの教会の主張をパウロは受け入れる。しかし、神についての知識に限らず、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(1節)ということが根本的に重要である、とパウロは主張する。
 
 コリント教会の問題の根底にはいつも「高ぶり」があった。そして欠けているのが愛だった。ここで重要なことは、「愛は造り上げる」と言われていることだ。「造り上げる」は建設するという意味で、キリストの体としての教会を建てるということである。これがすべての試金石だとパウロは教えているのである。この試金石によって知識が本物かどうかが試されるのである。
 
 私たちが自分の教会の問題を扱うとき、これが試されているのではないだろうか。知識では問題は解決しない。しかし、教会で重んじられるのはえてして知識であって、愛でないことが多くある。「兄弟をつまずかせないために」(13節)、愛を優先することが求められるだろう。

漕ぎ出してみる

2014-09-18 10:33:07 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年8月31日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
 「漕ぎ出してみる」 ルカによる福音書5章1-11節
 
 群衆が皆イエスから神の言葉を聞こうと思って押し寄せているのに、ペテロは一生懸命網を洗っていた。皆がイエスに神の言葉を求めている時に、彼は背を向けていた。その彼がどうして信仰に入り、イエスの弟子になったのか、それは彼が、一つの事実に出会ったからである。

 ペテロたちは漁師。漁のことは専門家。そのペテロたちが一晩中網を打ったが、何も取れなかった。みんな不機嫌で、黙って網を洗っていた。そこへイエスから突然言われた。「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。ペテロは答えた。「夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした」。あなたは偉い先生かもしれないが、魚を取ることについて指示されたくないという思いがにじむ。
 
 「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と続けて返答するペテロ。ぶつくさ言いながら、ペテロは仲間をうながし立ち上がる。この先生を信じたのではない。ひょっとしたら、万に一つ当たるかもしれない、そう期待したのかもしれない。あるいは、この偉い先生に思い知らせてやろう、と思ったか。おっしゃる通り沖に出て、指示に従って網を降ろす。その上でカラの網を見せて、こう言ってやりたい。「ほうら、ごらんの通り。わかっていただけましたか、先生」。ペテロたちは信仰のゆえに従ったのではなく、不信仰のゆえに従ったというべきか。神を試す。神を自分たちの都合のいいように扱う。
 
 結果は思いもかけないものだった。おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。ペテロたちは何も期待していなかった。しかし、イエスに言われ、「やってみた」。やってみると思いがけない収穫があった。この出来事はキリストの言葉と弟子たちの関わりを示している。ペテロは、自分で考え決意して、「やってみた」のではない。キリストの言葉にうながされて「やってみた」。不承不承、仕方なしに、腹を立てて。
 
 しかし、やってみると現実が動いた。動かないとあきらめていた現実が動いた。網が破れるほどの収穫。長い間漁師をしていた彼には考えられないことであり、人知をはるかに超えたものであった。人間の受け止め切れない祝福が与えられた。その時、彼は今までの意地を張っていた生活、むやみに反発していた生活が、いかに愚かなことであるかがわかった。その時ペテロは、自分の罪を認識した。罪を責められて自分の罪を認識したのではない。祝福を与えられて、自分の罪を知った。光につつまれて、自分の闇を知った。「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」(8節)。
 
 信仰生活は、人知を超えた神の力、働きにふれることがなくてはならない。そこから信仰は始まっていく。私たちが神を必要としているとか、信仰生活をするのが良いとか、そういうことが信仰の原動力ではない。神が私に迫ってきたから信仰せざるを得なくなる、福音を語らなければおれなくなるというものが、私たちの中に起こされてくるところに信仰の原点がある。

 神の言葉は、ただそこに石ころのように在るのではない。それは、私たちに語りかけられている。神の言葉をただ眺めていても、いくら熱心に観察しても何も出てこない。聞かなければいけない。聞いて、生きてみる。動かないと思っていた現実が動き始める。何にも生み出さないと思っていた世界、不毛の世界が私を満たす世界として活動しはじめる。恵みが私を圧倒する。小さな舟は恵みによって沈みそうになる。 
 
 私たちは神の力を知らず、神の言葉を思想化し、観念化して、キリスト教の教えはこうだ、私たちはこうすべきだということだけを言っていてもだめである。神は生きておられる。神の約束には間違いはない。その通りにやってみるという信仰の飛躍、み言葉に聴従することによってのみ私たちの信仰は開かれていく。

追悼集会2014

2014-09-16 12:12:14 | サポーティングハウスひだまり

2014年9月13日(土)13時30分 平塚バプテスト教会にて
平塚でホームレス支援活動をしている市民ボランティア団体の
「平塚パトロール」と「サポーティングハウスひだまり」の共催で
ホームレスの仲間の追悼集会を行った。今年で4回目。
約15年間の間、関わった仲間で亡くなられた方々22名。
今年6月、湘南海岸公園の野宿者がテントの中で亡くなられていた。
行政(平塚福祉事務所)や医療機関(平塚済生会病院)や我々も日常的に
パトロールしていたにもかかわらず。
支援の難しさや限界をも思わされた。
死者の声なき声に謙虚に耳傾ける。黙祷。

ホームレスの問題を共に考える「講演会」

2014-09-16 11:50:38 | サポーティングハウスひだまり
地域の課題でもある「ホームレス問題」
共に考えてみませんか?

講演会のお知らせ
テーマ:「神奈川のホームレスの人々をめぐる助け合いの歴史
     ――なんで活動するんだろう?」
日時:2014年10月18日(土)13:30~15:00頃
場所:ひらつか市民活動センター(JAビル2階)
   平塚駅南口徒歩1分
講師:林 真人(社会学者)
主催:サポーティングハウスひだまり・平塚パトロール
協賛:平塚診療所
問い合わせ:0463(33)2320(杉野・平塚バプテスト教会)
入場無料・先着40名

映画『標的の村』平塚自主上映会のお知らせ②

2014-09-16 11:32:32 | その他
ドキュメント映画『標的の村』 平塚自主上映会のご案内
日時:2014年10月24日(金)13:30-15:10
場所:ひらつか市民活動センター(JAビル2階)
   平塚駅南口徒歩1分(大変便利でわかりやすい)
入場料:900円(先着80名)
    入場券は事前にお買い求めください。下記の主催団体または教会で販売しています。
    0463(33)2320(平塚バプテスト教会・杉野)
主催:平和憲法を守ろう!ひらつか9条の会
   ℡:0463-24-0702

沖縄での普天間基地のオスプレイ配備反対運動の記録。
今、オスプレイは沖縄だけではなく本土の三沢、厚木、福生、岩国などの米軍基地に配備されようとしている。遠い沖縄の話ではない。
なぜ沖縄が「標的の村」なのか?
この映画を観てわかります。沖縄が置かれている現実が。