平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

失われた者の回復

2017-02-23 16:03:16 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年2月19日 主日礼拝 杉野省治牧師
「失われた者の回復」 ルカによる福音書19章1-10節

 イエスは「失われたものを尋ねだ」される(10節)。しかし、この物語で、最初に行動するのはザアカイである。イエスがエリコの町に来られることを聞き、見たいと思って行くが、人々から邪魔をされる。すると、今度はいちじく桑の木に登って、イエスを見ようとする。ザアカイの熱意と一途さがここにある。しかし、それ以上に彼のゆがんだ屈折した思いが感じられる。ルカ18:35~43に登場する目の見えない人は、通り過ぎるイエスに大声ではっきりと「わたしをあわれんで下さい」と助け求める。しかし、ザアカイは木の上から隠れて見るという行動しかとれない。ここに「失われたものの」姿を見る。

 イエスはザアカイのように隠れて見ようとする人にも、同じように関わってくださる。イエスはザアカイの名前を呼ばれた。「今日、あなたの家に泊まることにしているから」(5節)とイエスの方から、ザアカイに強く迫られた。これは、「わたしはあなたの家に泊まらなければならない」という意味であり、彼の家に泊まることが神による救いの計画を表わしている。煮え切らない態度のザアカイでさえ、イエスは尋ねだされたのである。

 そして、尋ね出された人には救いが来るのである(9節)。イエスを家に迎え入れたザアカイは大変喜び、悔い改めて、当時の法、慣習をも越える弁償を約束した。ここで意味深いのは、イエスはザアカイの仕事やその仕事ぶりについて何も言ってないことである。パリサイ人、律法学者であれば、取税人という仕事を捨てるよう要求しただろう。しかし、イエスは何も言われない。イエスは弁償のことさえ触れずに、ただザアカイの家族と共に食事をされただけである。そのイエスの深い愛に、ザアカイはまことの救いを見出したのである。ザアカイは真の悔い改めをもって、イエス・キリストにある救いを見出し、人生を生き直す方向転換をした。自分の名を呼び、自分をそのままで見つめて下さるイエスを知り、イエスと共に生きる決心をした。「悔い改めは人生の方向転換であって、人生からの脱走ではない」(レングストルフ)。

 ここに、一人の人を見る神の愛のまなざしを見ることができる。ザアカイという一人の失われた者が、新しく正しい生き方に自分から進んで出ていったのは、イエスが彼を信頼されたからである。イエスは私たちにもまた、アブラハムの子である、神様から愛されている者であるというまなざしで見ておられる。私たちもそのように愛されている者として、愛する者へと変えられ、そのように人を見ていき信頼する者とさせてくださるよう祈りつつ励みたい。

大竹しのぶさんのこと

2017-02-23 15:31:23 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年2月19日 大竹しのぶさんのこと

 毎週木曜夜7時30分からのNHKテレビ「ファミリーヒストリー」を楽しみにしている。著名人のルーツを探る番組である。その人の祖先の歴史に様々な人生ドラマがあり、興味は尽きない。

 先月は大竹しのぶさんが登場した。大竹さんといえばこんな逸話がある。私が以前住んでいたマンションに『キューポラのある街』の監督浦山桐郎さんもおられた。私が入居する前の話だが、浦山監督が当時撮影していた『青春の門 筑豊編』に出演していた大竹さん(当時17歳)を深夜奥さんに連絡もなしに連れて帰宅した。狭いマンションのこと。奥さんは怒って大げんかしたとのこと。マンション住民の語り草になっていた。

 その大竹しのぶさんはなんとクリスチャン家庭の子どもだった。彼女が毎週金曜の朝日新聞の夕刊に連載しているエッセー「まあいいか」にも彼女の家には仏壇も神棚のなく、94歳のお母さんのタンスの上に十字架と亡き祖父母と父親の写真があるだけと書いている(2月3日付)。お母さんの名は「江すてる」。そう、旧約聖書の「エステル記」に登場するエステルからとったもの。

 祖父母は幸徳秋水や内村鑑三とも親交があったという。祖父は吉川一水といい、無教会派の宗教家。戦前のこと、憲兵にも監視され、苦しい生活だったという。祖母八重もまたすごい人物。

 戦後、祖父吉川一水の聖書研究会に熱心に出席していた大竹章雄がしのぶさんの父親。このお父さん、実は江すてるさんと一緒になる前にすでに結婚して妻子がいたのである。お父さんは晩年この子どもたちとの再会を願っていたがかなわず、後日娘たちが謝ったそうである。ずっと心の奥に刺さったとげのようなものでさぞ苦しかったことだろう。

 2月10日の「まあいいか」に「ファミリーヒストリーに出演し、祖父母のたちの生き方が、今の私に繋がっていることをひしひしと感じた」と書いている大竹しのぶさん、聖フランチェスコの教え「清貧で自然を愛し神の前で平等」に感動するのだっだ。

袴田事件とは?

2017-02-13 11:05:41 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年2月12日 袴田事件とは?

 袴田事件は冤罪(えんざい・無実の罪)事件である。袴田事件とは、1966年6月30日未明、静岡県清水市(現静岡市清水区)の味噌会社専務一家4人が殺され、放火された事件。当時会社の従業員であった袴田巌さんが逮捕され、拷問を伴う長時間の取り調べにより、自白を強要され起訴される。

 袴田さんは一貫して無罪を訴えたが、1968年静岡地裁で死刑判決、1980年最高裁で死刑が確定。それ以降、再審を求め続け、遂に2014年3月27日、静岡地裁は再審再開を決定。その内容は「証拠はねつ造」「これ以上の拘置は正義に反する」という画期的なものだった。この日、袴田さんは獄中48年目にして東京拘置所から解放された。テレビなどで報道されたのでご覧になった方もおられるだろう。

 先日、袴田さんの獄中書簡集『主よ、いつまでですか』(新教出版社)をいただいた。書名を見て驚いた。「主よ、いつまでですか」。これは聖書の言葉ではないか。イザヤ書6章11節。もしかすると、袴田さんは獄中で洗礼を受けたのではと思い、さっそく読んでみると、果たしてそうであった。1984年12月24日、志村辰弥神父より、カトリックの洗礼を受けられる。

 その日の日記に次のように綴られている。「額に十字架の印を刻むように受けた時には、私の全身の周囲が明るくなり和らかな光さえ感じたのであります。洗礼の妙、幸福の永生、始めて燃えあがる真の生命、輝く星花を感激に満ちて凝視したのである。この時こそ正に私にとって新鮮な歴史が開花する瞬間であった。いや、歴史だけではない、キリストの福音にあって勝利と誉れを歌い上げる天上の予感であった。予感だけでもない。精彩を放ってあたかも勝利を組み立てる芸術者たる、神を拝む心地よい感動の極致であった。…アーメン」。

 この書簡集を読んで感動した。獄中の祈りともいうべき、彼の叫びと同時に恨みつらみを訴えるというより、明るい澄みきった心境が綴られている。人間にこれほどの強さ、優しさがあるのかと思わされた。本を会堂の後ろに置くので、自由にお読みください。

映画『袴田巌 夢の間の世の中』平塚上映会 ご案内
日時:2017年2月18日(土)開場13時 上映13時30分~15時30分
   金聖雄監督対談:15時45分~16:45分
会場:平塚市中央公民館大ホール
前売券:1000円 当日券:1300円
当教会で前売券販売中

土台があれば乗り切れる

2017-02-07 14:39:28 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年2月5日 土台があれば乗り切れる

 米国の社会ではユニークさを出すことは高く評価され、人と同じことをしている人は能力がないとみなされる。しかし、日本の社会では、ユニークさを出すことは、反感を買い、いじめの対象にすらなることがある。そういう恐れというマイナス面は当然ついてくる。だからユニークさを出す生き方は、その根っこに土台がないと続けることができない。

 ユニークなことをして最初は揶揄(やゆ)や抵抗を受けても、その人が結果を出せば、抵抗は自然に収まっていくもの。そして結果を出し続ければ、そのユニークさを真似る人さえ出てくるだろう。最初の結果を出すまで持ちこたえるためにも、自分の心の土台をしっかりさせる必要がある。

 ソニーの創業者・井深大(まさる)氏は熱心なクリスチャンだった。彼の口癖は「人真似はするな。ユニークさで行きなさい」。その結果、独創的な製品を次々と生み出し、世界のソニーと言われるまでになった。彼の土台は聖書である。

 今の日本は様々な問題はあるにしても、餓死者や身売りをする人があふれているわけではなく、表面的には平和な時代だ。しかし、心の危機、心の闇は深くなっているのではないだろうか。無縁社会となり、児童虐待や孤独死、ブラック企業の存在などの問題が生まれている。地域の共同体への帰属意識の薄れとともに、社会的な規範意識も薄れ、人は何を基準にして物事を判断していったらいいのかわからなくなっている。それは日本だけのことではなく世界が今混迷の時代に入っていると言われている。そういう時代こそ、ユニークな発想、思考が突破口を開くカギとなるだろう。そのユニークさを発揮するためにも心にしっかりとした土台を持つことが必要になる。聖書(御言葉)はそうした土台になりうるのである。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイ7:24)。