平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

希望・感謝・派遣

2013-10-17 18:45:11 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年10月13日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「希望・感謝・派遣」 ルカによる福音書17章11-19節

 救われるというのは、たとえば居場所がある、役割がある、つながりがある、つまりその存在が承認されることではないだろうか。人間の尊厳が取り戻されることではないだろうか。今日の聖書箇所の人たちはどうだろうか。

 主イエスは弟子たちとエルサレムへ上る途中、ある村に入られると、十人の重い皮膚病を患った人たちが、主イエスに救いを求めて、叫びをあげた。「私たちを憐れんで下さい」と。当時のユダヤ社会では、重い皮膚病の人は一般の健康な人に近づくことを禁じられていた。共同体の外に出され、「私は汚れた者です」と繰り返し口にしながら歩かねばならなかった。それため、彼らは主イエスに近づくことをためらい、「遠くの方から」、声を張り上げて叫んだ。差別と偏見、屈辱と悲しみの中で、遠くからの叫びを上げたのだ。

 主イエスは彼らの叫びを聞かれた。そして一言「祭司たちのところへ行って、からだを見せなさい」と言われた。当時、重い皮膚病の者が回復して、社会復帰をするためには、祭司の許可と儀式が必要だった。この時点ではまだ、病は癒されてはいない。彼らの病が癒されたのは祭司のところへ「行く途中」でのこと。ここに、まだ実現していないにもかかわらず、信じて出かける信仰が問われている。希望の信仰が問われている。十人の人たちは、この希望にかけた。病のままで歩み始めた。そして、その希望への歩みの中で、彼らは癒されたのだった。

 主イエスは言う。弱く愚かなままで、歩み始めなさいと。その主イエスの言葉を信じて歩み始める時、その途上で癒しを体験するのである。

 この十人の人たちはこの希望のゆえに癒された。しかし、いやしに感謝し、神をほめたたえるために帰ってきたのは、一人のサマリア人だけ。この「外国人」(18節)は神を賛美するために、主イエスの足元にひれ伏した。賛美の真の対象はエルサレム神殿ではなく、主イエスであることを暗示している。

 推測だが、この一人のサマリア人も主イエスのもとへ帰るのに、心の内に葛藤があったことだろう。屈辱と悲しみから解放され、一刻でも早く祭司のところへ、さらに家族のところへ行きたいという思いがあったことだろう。しかし、サマリア人はその思いを超えて、主イエスへの感謝と神への礼拝を選び、喜び、賛美しながら帰って来たのである。

 主イエスへの感謝と神への礼拝のために帰って来たサマリア人。しかし、主イエスは、彼に「立って行きなさい」と言われた。主イエスの下に留まるのではなく、社会の真っただ中に彼を送り出したのである。派遣である。

 さて、癒された十人のうち、救われたのはだれか。居場所が与えられ、役割が与えられ、つながりができたのはだれか。居場所とは主イエスの足元、教会。役割とは出て行って証しすること、宣教。つながりとは主イエスにつながり、隣人とつながること、和解。帰って来たサマリア人は、まさに救われたのである。だから主イエスは言われた。「あなたの信仰があなたを救った」。