平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

内心のうながし

2017-03-28 17:21:01 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年3月26日 主日礼拝 杉野省治牧師
「内心のうながし」 創世記12章1~9節

 信仰の父アブラムは、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」との主の言葉を聞いたとき、住み慣れたハランの町を出で立った。森有正(フランス文学者)はこのことを「アブラハム自身の内心の深いうながしに応じて自分で出かけた」と著書の中で書いている。そして、「内心のうながし」によって歩みだした歩みの中での経験こそがその人の信仰を形づくっていくという。アブラハムの信仰はまさにそのようにして形づくられた。

 彼は主の示されるまま旅に出て、カナンの地を通って、「シケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた」。しかし、そこにはすでに先住民カナン人が住んでいた。戸惑う彼に主はご自身を現し、「わたしはあなたの子孫にこの地を与える」と約束された。しかし、アブラムにとって現実は厳しく、この約束の言葉は受け入れがたいものであった。そこで彼はさらに南へと旅を進めた。もはやこの旅は神の示すものではなく、彼の旅路であった。最初は神の言葉に聞き従って出発したのであるが、現実の厳しさのゆえに、終わりにはおのが道を歩み出す。これは信仰する者が出会う危機ではないかと思う。神の言葉は現実の世界から出たものではなく、神の可能性の上に立ち、神のみ心によって語られるものである。そこに神の言葉を聞く者のつまずきがある。どんなときにも、神のゆえに、神の言葉を何よりも確かなものとして信頼して生きていくところに信仰する者の生き方がある。

 信仰の父と呼ばれるアブラムにして、この迷いと失敗があったのである。私たちもしばしばこの誤りを犯しやすい。しかし、アブラムは行く先々で、主のために祭壇を築き主の名を呼んでいる。それは神を礼拝することである。そして、そこには、「主よ、ここでよいのですか。ここがあなたの与えて下さる地なのですか」という問いが含まれていたのではないか。神の促しを聞き取って行こうとするアブラハムの信仰が見て取れる。神に問い、関係を否定しないところで生きるアブラム。

 そのようなアブラムを主は離しません。そして、主のみ手はアブラムを離さなかったように、私たちを離したまわない。恵まんとして選びたまいし主のかいなは常に不信の徒を引き寄せ、恵みのみ翼のもとにはぐくみたもう。すべてをしのぐ圧倒的な神の恵み、そのゆえに、何ものも恐れずに、信じることを得させて下さいと祈り求めていくことこそ、私どものつとめである。

ヒツジの話 その2

2017-03-28 16:34:28 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年3月26日 ヒツジの話 その2

 主イエスは「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:10-11)と人々に語られた。羊飼いの仕事はかなり苦労が多い。当時、野生動物は現代よりもはるかに数が多く、今では姿が見られないオオカミ、ヒョウ、オオヤマネコ、クマ、ライオン等が絶えずヒツジをねらっていた。さらに、盗賊もいた。一方、パレスチナ地方は乾燥して暑さが厳しく、ヒツジに規則的に水を飲ませることが必要だった。このため羊飼いは水や新しい牧草地を求めて群れを移動させなければならなかった。羊飼いは石投げ器やこん棒などで武装していたが、ヒツジを守るために、時には血を流し、命を落とすこともあったという。

 野生のヒツジが家畜化されたのは8千年前、またはそれ以前といわれている。家畜のヒツジは敵に対する防衛力を持たない。角は野獣に対する武器にはならないし、鋭い爪も牙もない。必然的に羊飼いだけが頼りである。ヒツジは臆病だとも言われるが、忍耐強く、柔和で従順である。

 聖書には九十九匹のヒツジを残して、迷子になった一匹のために時間と労力をさく羊飼いの話がある。こうした愛情に、ヒツジは羊飼いの声を聞き分け、絶対的な信頼をおいてその後に従った。この羊飼いとヒツジの関係は神と人間の関係によくたとえられる。実際に主イエスは人間の救いのために「よい羊飼い」として命を捨てられた。

 主イエスは「柔和な人々は、幸いである」(マタイ5:5)と語り、聖書は随所で忍耐と柔和な心を求めるように勧めている。人間は科学におごり、武器で平和を勝ち取れると錯覚してしまった。今こそ「よき羊飼い」の声を聞き分けるために、柔和な心とともにヒツジの臆病さをも学ぶべきだろう。臆病さとは謙虚さに、柔和な心とは憐れみ、慈しみの心に通じるだろう。

慰めに満ちたる神

2017-03-21 07:18:33 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年3月19日 主日礼拝 杉野省治牧師
「慰めに満ちたる神」 コリントの信徒への手紙二1章3~7節

 神様は模範的な教会を用いられたのではなく、このコリントの教会のような、いわば劣等生のような教会を用いられた。私たち劣った者一人ひとりに対しても同様である。私たちは自己の弱さ、つまらなさに泣くとき、私たちが生きているのではなく、神様に生かされ用いられているのだと信じることが肝要である。私が仮に三つしか出来なくてもよい。神様がお用いになるときには、三も十も結局同じになってしまうからだ。なぜなら、神様は三の者にも十の者にも、無限大をプラスして下さるのだから、答えは同じなのである。だから、自分は三だけしか出来ないことを恥じる必要はない。いや、むしろ三を全力あげて出し尽くしていくところに、神様の働きがあらわれるのである。

 この手紙の特徴は「慰めの神」について書かれてあることである。この数節に「慰め」という語が、10回も用いられている。神様の豊かな慰めが、苦闘するパウロの上にいかに満ちあふれていたかがうかがえる。どのような患難にあっても、神様の慰めが満ちあふれていたのだ。そして、神様はパウロに、その受けた同じ慰めをもって他の苦しむ人々を慰める力を与えて下さった。神様の慰めは、その人一人にとどまっているものではなく、その人を通して他にも働きかける。そして、この慰めの浸透しえない患難はないのである。ただし、パウロたちの受けている苦難は、いわば、キリストの苦難にあずかることなのだが、これはまた、ただちに、キリストにある慰めにあずかることでもあった。キリストとの苦難の共同、そして、慰めへの共同参与である。そのように、教会はいわば苦難の共同体であり、慰めの共同体である。

 パウロが心血を注いで牧会したコリントの教会は、パウロから背いていた。なんでもない人が反対しても、さほど気にならないが、愛して育てていった者から背かれることは、どうにも許しがたく、つらく悲しいことである。このどこにも慰めを求めることの出来ない孤独の中で、パウロは慰めに満ちた神様を知ったのである。

 その神様はいつも私たちのかたわらにいてくだる。神様が共にいて下さることが「神の慰め」でもある。「インマヌエル、アーメン」。

罪と恥

2017-03-21 06:59:34 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年3月19日 罪と恥

 1946年、米国の文化人類学者ルース・ベネディクトは、日本人の精神を西洋と比べた日本文化論『菊と刀』を著した。彼女は日本を定義して「恥の文化」といい、西欧の文化を「罪の文化」と呼んで比較した。

 実は、ベネディクトの日本文化論の研究は、太平洋戦争が始まって、米国が敵国日本の実情を知るために行われたものだった。米国は早くから戦争のことだけではなく、敵国を支配統治する準備をしていたのである。

 「罪の文化」は神と自分との関係において物事をとらえ、人が見ていようといまいが、絶対者なる神の前における自分の態度を問う。一方、「恥の文化」は他人の目に自分がどのように映るかを考えて行動する、と。

 70年を過ぎたこの日本文化論は今も通用するだろうか。気になるのは、「他人」が現在ではさらに狭められて、「仲間」(ごくごく内輪の者)の目しか気にしてない風潮がみえることである。いや、もう日本人は「恥」という感情を失ってしまったのかと思われるような光景や破廉恥な事件を毎日のように見聞きする。今話題になっている豊洲問題、森友学園問題、五輪開催の問題などはまさにそうだ。

 もともと「罪」意識が薄いといわれている日本人が「恥」意識さえ捨ててしまったら、あとに残るものはなにか。算盤勘定だけのような気がするのは私だけだろうか。悲しいかな、現代の日本人の行動様式(特に政官財の日本のトップの指導者層の倫理観のお粗末さ)を算盤を前にして玉をはじいてみれば、その言動原理が大方理解できるのである。

 神に対する畏れを失った人間、宗教的感覚の欠如は何をもたらしたのか。自尊心さえも失ってしまい、恥も外聞もあるものかとばかりのガリガリ亡者の住む世界とはどんな世界?

 聖書の「神」は創造主であり、我々と対話される神、平和の君であり、愛の神。その愛に生かされ、愛するようにと励まされるキリスト者の存在は少数であっても貴重であり、責任は重大であろう。世の光、地の塩として。

み言葉の種をまく

2017-03-16 16:33:10 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年3月12日 主日礼拝 杉野省治牧師
「み言葉の種をまく」 マルコによる福音書4章1~9節

 種まく人のたとえ話は、神のみ言葉を人々に説くことによって、人々の心に神の国を築こうとするイエス様の目的が語られている。イエス様の教えの中に、またそれに答える人々の応答の中に存在するものとして、神の国を示している。「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ17:21)。

 このたとえ話では、まずだれもがあてはまる、あまり望ましくない最初の三種類のタイプを示し、その上で、最後に願わしい一つの理想のタイプを示している。それは、私たちにみ言葉を聞いて受けいれる人になりなさい、そして30倍、60倍、100倍の実を結ぶよう努めなさい、と勧めている。そして、そのような豊かな実を結ぶところがまさに神の国なのであるといわれる。

 ではイエス様はこのようになりなさいと勧めるためにだけ、このたとえ話を語られたのか。目的を指し示し、かたわらで腕組みして見ているだけなのか。そうではない。イエス様は私たちを救おうとされている、その意思を示しておられる。三番目のたとえと四番目のたとえの間に十字架が隠されている。私たちはこの十字架を見逃してはならない。そこに十字架を見ないとこのたとえ話はただの道徳的なお話、気の利いたお話で終ってしまう。十字架を見ないで、人を見ることになる。そこには神の国はない。

 サタンや艱難、迫害、この世の思いわずらい、富の誘惑、その他色々な欲望。これらは、私たちの現実である。私たちの現実がそのようなものであるからこそ、イエス様は十字架の死を選ばれた。神の裁きから逃れようのない私たちに代わって、その滅びの罪を引き受けて下さった。その意味で、厳しい現実を語られることは、イエス様にとって、自らの十字架を指し示す行為だったのではないか。パレスチナの平和な種蒔きの情景を歌ったような、種蒔きの譬え話にも、罪のもとに苦しむ人々に対するイエス様の悲しみと愛があふれている。

もうひとつのメッセージは「収穫は確実である」という約束である。14節に「種を播く人は、神の言葉を播くのである」とある。私たちは種を蒔く。播く時はこの種が芽を出し、成長して、実を結び、収穫できると思うから種を播く。実るわけがないと思って種を播く者はいない。

 しかし、現実は確かにサタンや艱難、迫害、この世の思いわずらい、富の誘惑、その他色々な欲望によって実を結ばないことが多い。それにもかかわらずみ言葉は豊かな収穫をもたらすとここで言っている。コロサイの信徒への手紙は、このたとえを思い起こしているかのようにこう言っている。「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」(1:6)。

 「良い土地」(20節)がどこであるのか、私たちが特定することはできない。人の目には隠されている。われわれの努力の多くは、何の結果も生み出さないように見えるかもしれない。多くの労働が無駄になったように思えるかもしれない。しかし、この譬えはまた我々にこう語っているのではないか。「忍耐せよ、仕事に励め、種をまけ。あとは神にまかせよ。収穫は確かである」と。この譬えの最後に現れた豊かな収穫を約束するみ言葉によってわれわれは励まされ、勇気を与えられるのである。

 詩篇126編5~6節。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」

レント(四旬節・受難節)

2017-03-16 15:55:18 | 牧師室だより

牧師室だより 2017年3月12日 レント(四旬節・受難節)

 今年もイースターが近づいてきました。4月16日です。クリスマスと比べてイースターは盛り上がりませんが、レントの意味を知れば致し方ありません。しかしキリスト者にとっては大事な時です。

 そのレントはイースターの前の6回の日曜日を除く、40日間を指しています。ですからレントを四旬節ともいいます。レントは水曜日から始まることになるので、この日は悔い改めを示す「灰の水曜日」と呼ばれてきました。

 イースターは、春分後の最初の満月直後の日曜日と定められていて、年によって日が変わりますから、レントの始まり(灰の水曜日)も年ごとに変わります。ちなみに、今年は3月1日が「灰の水曜日」でした。

 ではなぜ、灰の日と呼ばれるのかと言いますと、それは深い悔い改めや悲しみをあらわす聖書的な象徴として「灰」が出てくるからです(ヨブ記2:8、イザヤ61:3,ヨナ書3:6など)。前年のしゅろの日曜日に配られたしゅろの枝を燃やした灰を悔い改めのしるしとして頭にかぶったり、額に付けるなどして、四旬節に入る決意を新たにする教会もあります。この日からキリストの十字架の苦難をしのぶ期間に入ります。

 40日というのは、主イエスの、40日間の荒野の誘惑、さらにイスラエルの40年間の荒野の旅路に対応している数です。そして、レントの最後の週、主イエスがエルサレムに入城された日曜日から「受難週」が始まります。マルコ福音書によると、木曜日が最後の晩餐・ゲッセマネ・逮捕、金曜日がピラトの裁判と判決・十字架の主の死・埋葬、土曜日が女たちが香油を準備したこととなっています。

 レントは何よりも、世界の罪を担ってくださったキリストの苦しみと十字架の死が告知され、私たちの悔い改めと感謝と献身の信仰が深められる時ですから、大切に覚えたいと思います。そして私たちは、イエス・キリストの福音が告げ知らせる神の慈しみと赦しとを思い起こし、与えられている信仰がさらに新しくされて、復活の朝を迎えたいと思います。

胸を打つ祈り

2017-03-07 12:36:07 | 説教要旨

<先週の説教要旨> 2017年3月5日 主日礼拝 杉野省治牧師
「胸を打つ祈り」 ルカによる福音書18章9~14節

 イエスは、このたとえ話を「自分を正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」語られた(9節)。登場するのは、一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人である。

 ファリサイ派の人というのは、「自分を他人から区別する人」という意味である。ファリサイ派の人々は、真面目で、神の命令(律法)に従う、筋の通った信仰生活を確保しようとした人々であった。そして、他人と自分を区別し、自分たちの義の生活を確保することに使命感をもっていた。だから祈りも一所懸命やった。胸を張って、堂々たる姿勢で祈った。そうして、両足でしっかり立っているようには思えない他人の祈りを見下げていた。

 もう一人の徴税人は、祈るとき「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈りはじめた(13節)。それも「遠くに立って」とある。神に近づくことも出来ない。しかし、この徴税人は神の前に立つことが出来ないからといって、そこから逃げ出したりはしなかった。遠く離れていても、自分は目を天に向けることが出来なくても、神様には目を向けていただきたかった。もしも神様の方で、自分の祈りに耳を傾けて下さるならば、神様が私を赦して下さることも起こるのではないか。いや、神様が私を赦して下さらなかったならば、いったい自分は何を頼りにして生きていけるのであろうか。ただ神の憐れみに取りすがっていた。「神様、罪人のわたしを憐れんでください(口語訳:おゆるしください)」。神様に赦していただく以外に、頼るべきものは何もなかった。

 そして、イエスは神に義とされたのは、この徴税人であったと、はっきり宣言された。そして、こう言われた。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)。祈りの姿勢は低くあるべきだと教えられる。イエスは、すぐ次の場面では、幼子を招いて言われた。「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(17節)。

 祈りの心の姿勢は、結局のところ、幼子のように祈るということに尽きるのではないだろうか。幼子のように姿勢を低くし、神の国を、つまり神様のご支配を受け入れる。祈りは、この幼子の心から生まれる。そこで支えられる。幼子は一人では立っていない。主の祝福に支えられている。祈りの支えは、神にある。主イエス・キリストにある。主の赦しの支えがある。その主の支えによって、私たちも天に目を向けることが出来る。天にいます父なる神のもとにいつも主がおられ、私たちをとりなして下さる。ここに望みをもって祈り続けることのできる道が開かれていく。