平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

伝道と宣教 

2014-10-29 14:04:37 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年10月26日 伝道と宣教 

 教会の使命(ミッション)は伝道です。その「伝道」をめぐる定義の一つにこうあります。「伝道とは、教会がキリストの福音を持って人々に接触し、その福音によって人々が悔い改めキリストを救い主として受け入れるように導くわざである」。

 伝道の主体は「教会」です。そして、その教会の働きの最も重要なものは伝道です。教えない学校、治療しない病院などありえないように、伝道しない教会もありえません。

 教会はそのようにして伝道のために存在している、と同時に伝道は何のためになされるかと言えば、教会を形成するためにこそ、とも言えるのです。教会なくして伝道なし、伝道なくして教会なしであって、この二つは表裏一体です。

 ところで、伝道と同じような使われ方をする「宣教」という言葉があります。しかし、伝道とちょっと違います。宣教は主イエスが地上で行ったこと。マタイ福音書に「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された」(9:35)とあります。教育、伝道、福祉(医療、施設)、これが宣教。宣教のほうが守備範囲が広い。教会はこの宣教のために「地の塩、世の光」として地域に仕えていくのです。

 宣教の働きを地域で進めていくためには、主イエスの生涯が、人々のため(for)にではなく、人々と共に(with)であったという事実から学ぶべきでしょう。教会の地域での実践は、コミュニティの中にあって教会員のみならず、人々の地域的ニーズを充足させ、同時に人々の人間的成長を支えるものであることが求められるでしょう。これは直接伝道とは一線を画した「福音のパントマイム(無言劇)」、生活と行動を通じて、コミュニティ形成の仲間となることです。

 地域に開かれた教会、地域に仕える教会は地域とともに、仲間になることが求められているのです。

ノーベル平和賞

2014-10-24 10:06:57 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年10月19日 ノーベル平和賞

 「学校に机や椅子がなくても気にしない。私はただ勉強したいだけ。怖いものは、何もないわ」。これはパキスタンの14歳の少女、マララ・ユスフザイの言葉です。彼女は、昨年10月9日に、女子が教育を受けることに反対しているイスラム主義組織タリバンの武装グループに銃撃されたが、一命をとりとめました。その時の言葉です。

 上記の文章は2013年1月13日のこの欄で取り上げたもの。そのマララさんが今年のノーベル平和賞に決まった。17歳の女子学生マララさんは、武装組織に銃撃され、重傷を負うという目に遭っても女性と子どもの教育を受ける権利のために今も奮闘している。その活動はノーベル平和賞にふさわしく、称賛に値する。

 一方で、発表1週間前頃に、日本国憲法の第9条も有力候補として挙がり、受賞してほしいと願っていただけに残念である。以下は今年の5月11日のこの欄で紹介したもの。

 …(前略)…「憲法9条にノーベル平和賞を」という活動を始められた鷹巣直美さん。彼女は二児の母親で、大野キリスト教会(相模大野駅近く)の教会員。彼女は「自分の子どもを含め世界中の子どもたちを戦争から守るため、戦争をしない憲法9条を世界に広めたいと思い、この活動を一人で始めた」と話された。それもたまたまで、そしてその後は多くの方の署名協力やネットでの拡散、賛同した人たちで実行委員会を結成と活動は広がっていった。…(中略)…鷹巣さんは「武装すると他の国を怖がらせ、嫌われる。でも戦争をしない憲法をみんなで掲げ、戦争するつもりはないと伝えれば、仲間として受け入れてくれる。好意と共感が広がり、戦争やめようと一緒に手をつないでくれる。これこそ、本当の戦争抑止力になる」とアピ-ルされた…(後略)…。

 以上であるが、21世紀になっても戦争や紛争が留まらない状況の中で、9条がノーベル平和賞の候補に挙がった意味は大きい。来年に期待したい。

すべて神の栄光のために

2014-10-15 16:44:30 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年10月12日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「すべて神の栄光のために」 コリントの信徒への手紙一10章23-33節

 コリントの教会のスローガンは「すべてのことが許されている」だった。ここでパウロは2回それを繰り返し、「しかし、すべてのことが益になるわけではない」、「しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」と警告する。益になることは造り上げること。「自分の利益ではなく他人の利益を追い求める」(24節)こと。これが教会の問題を解決する根本的な道であることをパウロは確認する。これがキリストによって共に生きる道である。
 
 偶像に供えられた肉の問題を、この道によって解決するとどうなるのだろうか。第一に、市場で売られている肉は良心(意識)の問題として詮索せず自由に食べてよいと言い、「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからと確認する。当時は「偶像に供えられた肉」が下請けに出されて市場で売られていることは日常茶飯事。そのような状況の中で、事実上、買う者が、市場の肉の由来を自分でつきとめることは不可能であったから、そんなことをいちいち詮索してもしょうがないのも事実である。主イエスも、同じようなことを言われている。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく」(マルコ7:15)。
 
 さらにパウロは、27節で「あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と説く。しかし、異教徒の家に招かれて、食事の時、「これは偶像に供えられた肉です」と注意されたら、その注意した人のため、その人の良心のために食べてはいけない(28節)と警告している。偶像に供えられた肉だと言われて食べるのをやめるのは、そういうことを指摘して気にしている他人の意識を配慮して差し上げているだけであって、別に自分の意識にとってはどうという問題ではない、と言っているわけである。「私の自由が他人の意識によって裁かれることなどあり得ない」と言うのである。しかし、その自由が他の人の良心にとって益にならないときは、その自由を断念するのが、本当の「益」であり、「造り上げる」ことなのだ、とパウロは教えている。

 日本人がクリスチャンになる場合、風俗と信仰とをどうマッチさせるかが大きな問題である。突飛なことをして未信者の目を見張らせたり、私は自由にされたのだから、他人がどう思おうと「我が道を行く」のだという人も見かけないではない。私はやはり「愛の原則」が中心だと思う。すなわち愛の配慮である。パウロが言っていることは、何も現実と妥協せよと説いているのではなく、現実の人たちに誤解やつまづきを与えないようにというのである。

 私たちの信仰生活には、大切なこととさほどでもないことがある。大切なことは一歩も譲れないが、そうでもないことは、神を知らない人々への愛の配慮を原則にしていくことである。「自分の利益ではなく他人の利益を求める」、自分を愛するように隣人を愛しなさいに通じることではないだろうか。それが、人々が救われるため(33節)になるのではないか。敵を造ることもない。
 
 これは現代の教会にも、さまざまな応用問題に適用されうることである。決め手は何か。「何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」(31節)。これが結論。具体的には、キリストの体である教会を「建て上げる」ために益となるかどうかである。神の栄光のためにするというのは、生活とかかわりのない場で神の栄光を表わしていくものではなく、私たちの日常の具体的な生活が栄光を表わさなければならないということである。ともすると生活は生活、その生活から出て、どこかの世界で栄光を表わすというような錯覚に陥りやすい。が、そうではなく、飲んだり食べたりという泥くさい日常生活の中で、一つひとつ栄光を表わしてくださいと祈り、励むのが、私たちの信仰生活なのである。

心を亡くさないために

2014-10-14 11:11:33 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年10月12日 心を亡くさないために

 今年のノーベル物理学賞に3人の日本人研究者が受賞した。エジソンが世に送り出した白熱電球にかわり、革命を起こしたとされる発光ダイオード(LED)。その普及のカギとなった青色LEDの開発・製品化に成功した業績に対してである。私たちの生活を劇的に変えたと言われる。21世紀の「ひかり」革命である。

 科学・文化は日進月歩。発明・発見により製品化され、世に普及すると生活が一変することがある。私の子ども時代では、何といってもテレビと自動車と洗濯機をはじめとする家電によって、生活スタイルが激変した。

 数年前、ある新聞社が「私たちの暮らしを変えたもの」というアンケートを採ったところ、一位はコンビニ、二位は携帯電話、三位はインターネット、四位はテレビ、という結果が出た。皆、速くて便利なところが共通している。

 様々な情報やサービスが速く、いつでも、身近で受け取ることができる。これらのものは確かに私たちの暮らしを変えた。それを象徴するように、ある会社の広告に、「買ったのは私の時間です」というコピーがあった。便利になることで時間に余裕ができた。ところがそうやって手に入れた時間を私たちは何に使っているだろうか。世論調査によると、家庭での親子の対話時間は一日平均5~10分という驚くべき結果が出ていた。

 効率性や生産性だけを考えた時間の使い方は、我が身と世界とを滅ぼす。私たちの社会に起こっている様々な異常な犯罪、心が不安定化し、混乱し、暴力化しているのは、速いスピードの中で非人間的な生活を強いられているのも一因ではないだろうか。

 忙しいという漢字は「心を亡くす」と書く。だから心を亡くさないうちに、忙しい生活をいったん止めて、静まる時間が必要である。一日のはじめに祈りから、一週のはじめに礼拝から始めることは、神を想い、自分を見つめ、心を取り戻す大切な時間となるだろう。そこから新しく創造された生き方が生まれる。祈りや礼拝の時間を大切にしたい。

神は真実な方

2014-10-07 14:28:29 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2014年10月5日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神は真実な方」 コリントの信徒への手紙一10章1-13節

 パウロは前章の終りの「福音に共にあずかる」ことをイスラエルの歴史から語る。現在の私たちがイエス・キリストにより救われた原型をイスラエルの民のエジプトからの救出に見出している。この5節までに彼は「皆」という言葉を繰り返し、強調している。エジプトから「皆」助け出され、彼らの父祖の地であり、乳と蜜との流れるカナンの地へ「皆」行けるはずだったのが、その途中で彼らの犯した罪ゆえに、「皆」がカナンの地に入れたのではなく、大多数の者は荒れ野で滅ぼされた……。 

 「皆」という言い方は、イスラエルの民全体を一つの集合体として、神はエジプトからの解放を約束してくださったのであり、個々の者が、「神の御心に適わず」、神に背けば滅ぼされるということでもある。それは現代の教会でも同じ。救いは教会に約束されているが、個々の者ではないということ。ゆえに、教会がら離れていけば救いはない。パウロは、「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こった」と言い、「彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために」(10:6)と言う。このことこそ、コリントの教会が知るべきことだったのである。

 パウロはここで、「悪をむさぼる」ことの具体的なこととして4つ挙げている。偶像礼拝、みだらなこと、キリストを試みること、不平を言うこと。そして、11節でも「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」と、6節と同じように、コリントの教会が知るべきことであるという。神の歴史に学べということだろう。新約に生きる私たちもまた同じように、コリントの教会をはじめとして、キリスト教会の歴史から教訓を学ぶことが求められるだろう。パウロは警告する。「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(10:12)。今信仰があると思っても、いつ倒れるか分からないですよ、と。歴史に学ばざる者に成長なし、同じ過ちを繰り返すだけだというのである。
 
 さて、荒野の旅はまた試練の連続である。しかし、神は「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(10:13)と、慰め深い言葉をパウロは語っている。コリントの教会の人たちも、神の約束を信じて生きようとしたとき、少なからぬ試練を受けただろう。そして、信仰から脱落していった人も少なくなかった。その現実の中でパウロは、神の恵みの中に入れられているが、様々な困難がやってくる。その困難の中で大切なことは、約束をしてくださった方は真実な方だと信じることであり、そこに信仰があるのだと説くのである。

 私たちの信仰は約束の信仰である。常に将来の信仰である。今ここで実現するよりも、いつかそれが実現すると待ち望みながら生きていくのである。それが、今ここでかなえられるという御利益宗教と違う点である。将来の約束だから、そこに信じることがなければならない。分かったから信ずる世界ではなくて、信じたらわかる世界である。
 
 試練には、お先真っ暗でこれからどうなると思うこともあるもの。パウロは、いかなる試練にも出口があると確信している。これを信仰の楽観主義と見るのは早計である。彼は、途方に暮れ、出口がどこにも見つからない時には、キリストという出口が必ず残されていることを信仰によって知っている。これこそ「神は真実な方」(10:13)であることの証しであって、信仰者は裏切られることはない。信仰者はたとえ荒野の旅の最中にいても、その保証の中を歩いているのである。

ふうけもん

2014-10-06 16:59:04 | 牧師室だより

牧師室だより 2014年10月5日 ふうけもん

 先週、映画『ふうけもん』を観てきた。「ふうけもん」とは、佐賀弁でバカ者、はみ出し者のことだそうだ。この映画は元祖便利屋の右近勝吉さんの実話を映画化したもの。

 モデルの右近さんはクリスチャンである。右近さんは1940年に佐賀県で生まれた。中学生のときにヤクザの世界に入り、新宿で毎日ケンカに明け暮れていた。しかし、ある日、道ばたで笑顔が素敵な宣教師に出会い、その笑顔見たさに教会に入り浸るようになり、やがてヤクザから足を洗って、洗礼を受けた。その後、紆余曲折はあったが38歳で心機一転、世間の雑用代行業=便利屋を始めた。

 便利屋を始めて5~6年たった頃だと思うが、右近さんを特別伝道集会にお呼びしたことがあった(経堂バプテスト教会)。集会後の雑談で、「今、私は自主的に日曜日の朝、教会の玄関から表を眺めながら来られる方を迎える奉仕をしています」と言われたことが忘れられない。受付の担当でもないのにである。あのニコニコした丸顔で迎えられるとホッとするだろうな、と思った。

 右近さんは「自分は凡人だから、自分の出来ることは何でもやろうと便利屋になった」と言う。また、右近さんは、「自分が凡人だということから始めれば、現状を肯定することができる。そして、いま目の前にある仕事に誠実に向き合うことが出来るようになる。それだけでも、いい仕事ができるようになる」と言う。さらに、「凡人に徹しなさい。そうすれば絶対に成功するから」とも言われる。これぞ「凡人力」。プライドを捨てられるか。

 さて、映画『ふうけもん』だが、監督は『釣りバカ日誌』シリーズの栗山富夫で、主演は中村雅俊、妻役に浅野ゆう子、その他中村玉緒など豪華実力派キャストである。映画は右近さんの人生を振り返りながら、便利屋家業を通してみえる、家族とは、友情とは、信頼とは、ゆるしとはといった根源的なテーマが織り込まれている。テンポよく展開し、個性ある俳優の演技も相まって、あっという間の2時間だった。

 この映画は諸事情によって一般公開上映ができなくなり、今、各地のホールなどで、日本縦断上映の旅と称して、北海道から南下して沖縄まで自主上映している。詳しくは「ふうけもん」で検索してみてください。