平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

イースターおめでとう

2016-03-29 12:09:07 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年3月27日 イースターおめでとう

 イースター(復活祭)おめでとうございます。イースターはイエス・キリストが死からよみがえられたことをお祝いする日です。キリストの復活は、「死者のよみがえり」「死の克服、いのちの勝利」という希望の告知です。そしてそれはキリストへの信仰だけが明らかにしてくれる、神の秘儀です。教会はこの復活の告知から出発しました。
 「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(第一コリント15:14)。

 そのようにイースターは教会ではクリスマスと並んで大切な喜びの祝祭ですが、クリスマスに比べ日本ではなかなか広まりません。それは、イースターが春分以後の最初の満月の次の日曜日となっていて、日にちが毎年違うことも原因の一つかも知れません。それはともあれ、新聞報道によると、最近、バレンタインデーやハロウィンのようにイースターも商機ととらえ、コンビニなどがいろいろな商品を開発して大々的に宣伝をしているそうです。数年後には日本でもイースターが「なに、それッ」と言われることもなくなるかもしれませんね。

 教会は世間の騒ぎとは別に、信仰に立って、心からのお祝いをしたい。感謝の祈りをしたい。
 「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』」(ヨハネ福音書11:25) 。
 ルターの復活日の祈り。
 「全能なる神よ、あなたは、御子の死によって罪と死とを滅ぼされ、御子の復活によって清浄と永遠の生命とを回復されました。それは私たちが悪の支配からあがない出され、あなたの御国に生きるためであります。私たちが、全心をもってこのことを信じ、この信仰にかたく留まり、常にあなたをたたえ、あなたに感謝することができるようにしてください。世々限りなく、あなたと聖霊と共にひとりの神として生きて統べ治められる御子、イエス・キリストによって祈ります。アーメン」。

素敵な言葉との出会い

2016-03-22 07:02:52 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年3月20日 素敵な言葉との出会い

 新聞をはじめ、いろいろな雑誌、本などを読んでいると、時々素敵な言葉に出会います。今日は、そんな言葉をいくつか紹介しましょう。

 三月に入り春めいてきましたがまだまだ寒い日があります。「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」。この言葉は、シドニーオリンピックの女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子さんの座右の銘。高校時代の恩師に教えられた言葉だそうです。教会も礼拝出席が減少し、今は寒い日かも知れません。そんな時こそ、足腰を鍛える時、御言葉を蓄え、祈りを集める時。

 次は、儒教の始祖・孔子の言葉。「益者三友、損者三友」。「益者三友」とは本当の友は三種類あると説く。①素直で正直な友は、仮に自分が間違った道を歩んでも、必ず間違いを指摘し、正してくれる。②誠実な友と接すれば、その真摯な心に影響を受け、自ずと誠実な行動をとるようになる。③時流に明るく見識のある友ならば、その知識、情報によって正しい判断を下すことができるようになる。一方、「損者三友」とは「体裁ばかり気にする人、媚びへつらう人、口先ばかりで調子のいい人」。互いに高めあう信仰の友でありたい。

 最後は「啐啄同時(そつたくどうじ)」。もともとは禅の言葉。悟りを得ようとしている弟子に、師匠が教示を与えて、悟りの境地に導くことをいう。言葉の意味は、鳥の孵化に由来する。ヒナが生まれようとする時、卵の内側からコツコツつつくことを「啐」といい、親鳥が外から殻をつつくことを「啄」という。両方のタイミングと努力が一致して、初めてヒナが生まれることから転じて、物事のなるのは双方のタイミングと努力が必要ということ。イエスさまが外からドア(私たちの心の扉)をたたいておられる。その時、内側から私たちが応答してはじめて救い(恵み)はなされる、ということと同じことですね(黙示録3:20参照)。応答しなければ何事も生まれない。

受難週のおさらい

2016-03-15 10:19:53 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年3月13日 受難週のおさらい

 今日はレント(受難節)の第5主日です。レント(今年は2月10日~3月26日)は私たちのために主イエスが苦しみを受け、十字架の死を通して救いを完成して下さった恵みの出来事を深く覚えて過ごす大切な時です。なぜなら、主イエスの十字架の死と、その復活の出来事からキリスト教は始まったと言ってよいからです。「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(コリント一15章14節)。

 そこで、1週間早いですが、レントの最後の週、受難週(今年は3月20日~26日)と呼ばれる、主イエスの生涯の最後の一週についておさらいをしてみましょう。四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)はそれぞれにかなりのページを割いて受難週を記しています。しかし、四つの福音書の受難週記事には、当然多くの共通点もありますが、相違点もたくさんあります。それぞれの福音書記者の用いた資料(伝承)と、編集の意図(強調点)の違いによるものです。そこで今回は、最古の福音書と言われるマルコ福音書によって、この一週間をたどってみましょう。

 (1)日曜日(棕梠の主日・枝の祝日):エルサレム入城(マルコ11:1-10)。
 (2)月曜日:宮潔め(11:15-19)。
 (3)火曜日:神殿説教(11:20-13:2)。
 (4)水曜日:オリーブ山説教(13:3-37)。
 (5)木曜日(洗足木曜日・愛の戒めの木曜日):最後の晩餐(過越)・ゲッセマネ・逮捕(14:12-72)。
 (6)金曜日(受難日・受苦日・聖金曜日)ピラトの裁判と判決・十字架の主の死・埋葬(15:1-47)。
 (7)土曜日(安息日・聖土曜日):女弟子たちが香油を準備したこと(16:1)以外、聖書記事ナシ。

 受難週をマルコ福音書に従って読み、祈り、主イエスの受難を想起しつつ過ごし、そしてイースターの朝を迎えましょう。なお、金曜日(25日)は受難日祈祷会を10時30分から行います。

 *『礼拝を豊かに―対話と参与』(日本基督教団出版局)を参考。

充実したレントに

2016-03-15 10:14:36 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年3月6日 充実したレントに

 先月の10日(水)よりレント(受難節)が始まっている。レントはイースター前の6回の日曜日を除いた40日間をいう。主イエスが荒れ野で40日間断食されたことに基づく。この間は悔い改めのための特別な期間で、一日一度の食事しか取らず、肉や酒の飲食を禁じた時代もあった、という。日曜を除くのは、日曜が主イエスの復活の喜びの日であって、断食すべき日ではないからである。

 レントは悔い改めの時というが、悔い改めるには、何をどのように悔い改めたらよいのか示されなければできない。そのためには聖書を読み、神の御声を聴かなければならない。だからレントはキリスト者としてどのように生きたらよいのか、神の御心を知る時でもある。それには、詩篇46:11「力を捨てよ、知れ!わたしは神」(新共同訳)「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳)との姿勢が大切である。これはどういうことか?あなたが神であることは知っている。今更、静かにしなくてもというかもしれない。しかし、本当に神の御心、御力を知った上で、私たちは主に喜ばれる信仰生活を送っているだろうか。案外、私たちは神の前に静まることなく、自分の思いで、いたずらに動き回ってはいないだろうか。

 忙しくしていないと不安な人がいる。しかし、忙しい時、人は心を失い、静かに聴く忍耐力がない。だから、すぐに人を非難し、裁く。神の言葉の中に、神の恵みをくみ取れない。困った忙しさである。霊的無能な忙しさである。信仰から遠い忙しさである。神の臨在に気が付かない危険な忙しさである。

 レントは、霊的危険な忙しさの生活パターンから、自己を解放する時である。自らの力を捨て、静かに神と親しく交わることによって、神から新たな力を頂くことができる。また新年度に向けての準備の時でもある。時間を献げて祈祷会で祈り合いたい。祈りを合わせることで、慰められ、強められ、信仰が回復する。充実したレントの期間となるように、悔い改めと感謝の祈りを献げたい。

喜べないときはどうする?

2016-03-01 10:30:09 | 牧師室だより

牧師室だより 2016年2月28日 喜べないときはどうする?

 聖書の中には「喜びなさい」という言葉が八百回も出てくる。「えっ、ホント、うそみたい」と思われるかもしれないが、「うそ八百」ではない。特に有名なのは「いつも喜んでいなさい」(テサロニケ一5章16節)だろう。でも、人はいつも喜べないもの。

 昔、中学で陸上部の顧問をしていた時、夏休みに3泊4日の合宿を行った。その時、生徒に約束させたのは二つだけ。「いつもニコニコ、履物をそろえる」。合宿はいつもより練習がきつい。当然疲れる。疲れがたまると人間不機嫌になり、ちょっとしたことでけんかになったり、トラブルを起こす。そこで生徒に「いつもニコニコだろう」と言って、笑って見せる。生徒も約束だから無理してニコニコしてみせる。「うん、いい笑顔だ」と言ってほめる。それで一件落着。実はこれ、先輩の先生に教えてもらった指導法。

 確かに、喜びというのは感情の表れだから、何らかの理由で喜べない時もあるだろう。そういう時はどうするか。かつては身近な所に手こぎポンプの井戸があった。ポンプをこいで水が出ないときは、呼び水を上から入れる。するとあら不思議、ガボガボッと水が出てくるのである。もし喜びがない時は、「喜ぶフリ」という呼び水を入れてやればいい。「ああ、うれしい」と叫んでみる。上記の「いつもニコニコ」の約束も呼び水だったのである。

 悲しみや苦しみの中でも、喜ぶような笑顔を作る。喜ぶ動作をしてみる。あるいはうれしいような格好をする。ガッツポーズもいいかもしれない。ポーズだけではなく、うれしくなるような場所に行く。あるいはうれしくなるような服を着る。服ならすぐに変えられる。明るい服はどうだろう。実は服を着替えるのではなく、そうすることで気分を着替えているのだ。心の中にそんな呼び水をしてみる。そうすると喜びは持続してくる。いつも笑顔にしていると、まわりも明るくなる。元気を与える。お金はかからない。