平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

感謝の信仰と希望の信仰

2018-02-27 17:50:43 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年2月25日 主日礼拝 杉野省治牧師
「感謝の信仰と希望の信仰」 ルツ記4章11-22節

 ナオミと一緒に祖国に帰ってきたルツはボアズと結婚し、子どもが生まれる。その男の子を見て、ベツレヘムの女たちはナオミに言う。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう」(14-15節)。高齢者の問題はただ生活の支えの問題だけでなく、「魂を生き返らせる」のでなければならないだろう。ルツ記が示す幸いな結末の背後には、主なる神がおられる。「主をたたえよ」「主はあなたを見捨てない」というのである。すべての背後にあって導いておられるのは「主なる神」であり、その「慈しみ」である。「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主」(2:20)がおられ、その「御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださる」(2:12)主がおられる。そのお方が信仰者の人生と家族を歴史の中で導いてくださる。神のこの慈しみは、ボアズやルツを通し、またその出会いや、共同体のあり方を通して示された。神の慈しみが時代の激動の中の家族を支えた。それがルツ記が告げている信仰のメッセージ。

 しかしルツ記のメッセージはそれだけではない。生まれた子どもはオベドと言い、その子はダビデの祖父になったと言われる。ベツレヘムの女たちが言った「イスラエルでその子の名が挙げられますように」という祝福の言葉は、その子がダビデの祖父になることによって実現する。ルツ記は確かにナオミとルツの物語である。しかし彼らはダビデの誕生に用いられる。ルツはダビデの曽祖母になる。「魂を生き返らされる」ということは、ただ個人的な人生が満ち足りるという話ではなく、「神の救いの歴史」に用いられることである。もちろんナオミもルツはダビデを見ていない。系譜で言えば四代先、100年先の話。ある人は、ルツ記は100年先を喜ぶ信仰に生きたと言う。このルツ記の系譜をマタイによる福音書は取り入れ、ダビデからさらにイエス・キリストに辿った。そこでは神の救済の歴史は、ダビデで終わらず、イエス・キリストに至る。イエス・キリストは神と一つであり、神であって、世の終わりまで生きて実在し、共にいてくださるインマヌエルの神。神の救済史はイエス・キリストによって、世の終わり、神の国のまったき到来までを視野に収めている。

 そうすると、信仰によってあずかる「救い」とは何だろうか。その一つは、神の慈しみに生かされ、その実に与ること。ルツ記が知らせるように、私たちも今その実に与っている。主にある共同体の助けを通して、あるいはそこに生きるボアズのような信仰的に誠実な人を通して、あるいはルツのような「あなたを愛する」(15節)人を通して。「たまたま」(2:3)起きる人との出会いや出来事を通して、背後に働く神の慈しみの実に与る。

 ルツ記は同時に、もう一つ、当事者たちがなおその実現を見ていない遥かな将来の実があることをも語っている。それは、大きな神の目的に用いられる信仰、救いの歴史の成就を遥かに望み見る信仰を語っている。ルツの生んだ子はダビデの祖父になったのだ、と。聖書は、一つは「今の救い」を告げる。神の慈しみとその果実は今既に与えられている。しかし同時に聖書は、より大きな神の目的の文脈を語る。それは、あなたは個人として救いに与っているだけでなく、神の大きな救済史のご計画に与り、用いられていると語っている。

 今既に恵みに生きる信仰と遥かに望み見る信仰、感謝の信仰と希望の信仰、この二重の信仰は、イエス・キリストに結ばれたキリスト者にこそ当てはまる。バプテスマによってキリストと結ばれた私たちは、すでにキリストと共に死に、その復活の命に与り、神の子とされている。このことを感謝し、喜んでいる。しかし同時に、私たちは神の子とされて「体の贖われること」を待ち望んでいる(ローマ8:23)。それはローマの信徒への手紙によれば、人間以外の被造物も、滅びへの隷属から解放されて、「神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれる」(8:21)ことを望んでいると言われるのである。万物の救いの時を希望しているわけである。「わたしたちは、このような希望によって救われている」(8:24)とも言われる。今既にキリストに結ばれ、キリストと共にいる恵みに感謝し、さらに「体の贖われること」、そして「神の国のまったき到来」と「万物の救済」を望み見ている。そういう感謝の信仰と希望の信仰を与えられていることを覚え、この信仰をこれからも歩んでいきたいと思う。

受難節(レント)は自己解放の時

2018-02-26 13:28:10 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年2月25日 受難節(レント)は自己解放の時

 今日は受難節(レント)第2主日礼拝である。今年の受難節は2月14日(水)からで、この日は「灰の水曜日」(中世のカトリック教会で、この日に主の受難を覚えて、頭に灰をかぶったことから名付けられた)と呼ばれ、この日から主の十字架の苦しみを覚える受難節に入る。

 受難節はイースター(復活祭)前の6回の日曜日を除いた40日間をいう。40日間とは、主が荒れ野で40日間断食されたことに基づく。この間は悔い改めのための特別な期間で、一日一度の食事しか取らず、肉や酒の飲食を禁じた時代もあった。日曜を除くのは、日曜が主の復活の喜びの日であって、断食すべき日ではないからである。

 レントとは、神の御声を聴く時である。キリスト者としてどのように生きたらよいのか、神の御心を知る時である。それには、詩篇46:11「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳)との姿勢が大切である。あなたが神であることは知っている。今更、静かにしなくてもというかもしれない。しかし、本当に神の御心、御力を知った上で、私たちは主に喜ばれる信仰生活を送っているだろうか。案外、私たちは神の前に静まることなく、自分の思いで、いたずらに動き回ってはいないだろうか。

 忙しくしていないと不安な人がいる。しかし、忙しい時、人は心を失い、静かに聴く忍耐力がない。だから、すぐに人を非難し、裁く。神の言葉の中に、神の恵みを汲み取れない。困った忙しさである。霊的無能な忙しさである。神の臨在に気がつかない危険な忙しさである。

 レントは、霊的危険な忙しさの生活パターンから、自己を解放する時である。自らの力を捨て、静かに神と親しく交わることによって、神から新たな力を頂くことができる。信仰復興の時でもある。充実したレントの期間となるように、悔い改めと感謝の祈りを献げ、聖書に親しむ時としたい。そして私たちは、イエス・キリストの福音が告げ知らせる神の慈しみと赦しとを思い起こし、与えられている信仰がさらに新しくされて、復活の朝(4月1日)を迎えたいと思う。

人生相談

2018-02-19 12:12:26 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年2月18日 人生相談

 私は以前の教師時代、そして今の牧師という仕事柄、相談を受けることが多いのだが、いつもこちらが悩んでしまう。情報提供して、当事者が自ら道を選び前へ進んでいってくれればいいのだが、そういうケースは少ない。話を聞いてあげるだけで済む時もまれにあるが、それは本人がすでに答えを持っていて、ただ誰かに確認してもらいたいだけだったりする。

 そんな難しい人生相談について、加藤諦三さん(早稲田大学名誉教授)が朝日新聞(2018年1月30日)で語られている言葉に教えられた。彼は、「悩みというのは『変装』が上手なのです。多くの場合、相談者の真の問題は、本人が考える悩みの背後に隠されています」と言われる。その事例として、女性から「子ども夫婦の仲が悪くて心配」という相談を紹介。これを申告通り受け取ってはいけないと言われる。「なぜそれが悩みなのか」と問いを立て話を聞くと、実は相談者の心を本当に悩ます問題は「老後への不安」だったと言うのです。なるほど、そういうことかと、今までの相談事を思い浮かべながら納得した。

 さらに朝日新聞2月8日夕刊の「歌舞伎町・駆け込み寺をたどって」にも人生相談の記事。駆け込み寺所長の中島一茂さんの話から。「死にたい」と言い出したらどう対応するか。「生きていれば、いいことあるよ」とか「命を粗末にしてはいけない」などと当たり前の返事は相談者の心には響かず、かえって反発を招く、という。初めから「死にたい」などと切り出す人は、相手が信用に足りるかどうか「ジャブを放っている」場合が多いという。ではどうするか。まず真摯に受け止める。それから、どう解決したものか相談者を主体に考える、と言われる。

 私も「死にたい」という相談を何度も受けたことがあるので、中島さんの言われることはよくわかる。加藤さんの「背後に隠されている」と合わせて考えると、「死」そのものではなく「生」の問題が背後にあり、そのことの解決を共に考えていくことになる。その後は、本人自身が決断し、歩みだすのだが、伴走が必要なことが多い。苦労は多いが共に生きることの喜びを体験する時だ。

光の中を生きる

2018-02-13 16:14:57 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年2月11日 主日礼拝 杉野省治牧師
「光の中を生きる」 ヨハネの手紙一 1章5-10節

 人生には、つらいこと、悲しいことがたくさんある。そして誰でもつらい思いや悲しい目に遭うと、闇の中をさまよっているように感じる。聖書はそれをよく知っている。詩編23篇に「死の陰の谷を行くときも」とあるように、絶望的な状況に立たされる時がある。しかし、詩編の詩人は「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない」(23:4)と言う。なぜなら「あなたがわたしと共にいてくださる」からだと告白している。まるで闇と思える時にも、神が共にいてくださることによって、根本的に変えられると言うのである。神との交わりによって生かされるならば、希望を失わず、生きる喜びがわいてくるというのである。

 聖書は、イエス・キリストによって神を信じているキリスト者は「光の中を歩んでいる」と語る。「神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)とはっきり言う。ヨハネの手紙一だけでなく、ヨハネによる福音書でも、主イエスは「わたしは世の光である」と言われ、「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)と言われた。光の中に生きているというのは、神は光ですから、光の中に生かされていると言うのである。神のご支配の中にいる。神の愛に包まれている。神に愛される存在として生きている、と言っていいだろう。

 では、「神との交わり」というのは具体的にどういうことなのか。それは聖書の御言葉を通して神を知り、神と出会い、神を信じ、祈りつつ、礼拝に生きるものとされていくことである。さらに、そのことの具体的な特徴を聖書は7節で二つ述べている。一つは、神との交わりを持ち光の中を歩む人は、「互いに交わりを持つ」。もう一つは「罪から清められる」と言うのである(7節)。

 私たちは神との交わりに入れられることによって、新しく交わりを築くことができる。神との交わりを持っているということは、私たちの生活を変える。私たちを照らし、温め、私たちを導き、他者との交わりに誘う。神との交わりを持っていることは、私たちを生かし、導き、希望を与え、愛する力を与え、他者のために仕え、平和を生み出し、主に従う人生を起こす。

 もう一つ、光の中に生かされる人生について、「御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」とある。光の中に生かされながら、「自分に罪がない」というのではない。様々な罪を経験するのがキリスト者の人生である。自分は罪を犯したことがないとか、罪はないなどと言うのは、むしろ罪の問題を軽く考えているしるしである。当時のグノーシス主義という異端的な人々がそうだった。信仰によってもう罪のない完全なものになったと主張した人々がいた。しかしそれは「自らを欺いている」(8節)と聖書は言う。どんな敬虔なキリスト者にも罪がある。欠けたところ、失敗や誤りがある。キリスト者は光の中に生かされながら、罪を告白しているのである。光の中に生きることは罪がないことでも、罪を犯したことがないことでもない。光の中に生かされながら、罪ある私たちである。これは決して矛盾ではない。そうではなく、その罪を赦され、そしてあらゆる罪を清められるというのである。

 「あらゆる罪」と複数形で記されている。それを神の御子イエスの血、その十字架の犠牲によって清められるのである。「清められる」という言葉は現在に継続している動詞の形で記されている。過去のことだけでなく、今日もその力は働いていて、一つひとつの罪を除いてくださっているということである。山上の説教の中で、主イエスは「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5:8)と言われた。神の御子イエスの十字架に流された血が、今日も働いて、あらゆる罪から清め、神を見る者にしてくださる。「神との交わり」を持っているというのはそういうことである。自分の罪を言い表し、罪の告白をすることは、自分を貶め、自分を傷つけることではない。世の罪に打ち勝ち、私たちの罪を決定的に赦し、さらに一つひとつの罪を取り除いてくださるキリストの血、そこに示された神の真実と力を確信し、信頼して歩むことである。

 「神との交わり」に生かされていることは、あやふやなことではない。私たち自身の日常生活の中に力として発揮される確かなことである。私たちを互いの交わりに生かし、健やかにし、罪を赦し、罪を取り除いてくださる。その交わりの光の中に生きる者とされたことを感謝したいと思う。

ボケない小唄

2018-02-13 12:21:35 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年2月11日 ボケない小唄

 先日の「サロン虹」でMさんから「ボケない小唄」「ボケます小唄」を教わった。歌詞カードには作者不詳とあり、「お座敷小唄」の節で歌いましょうとあった。早速みんなで合唱。それにしてもよく考えるものだ。紹介しよう。

 「ボケない小唄」「1、風邪をひかずに 転ばずに/笑いを忘れず よくしゃべり/頭と足腰 使う人/元気ある人 ボケません 2、スポーツカラオケ 囲碁将棋/趣味のある人 味もある/異性に関心 持ちながら/色気ある人 ボケません 3、年をとっても 白髪でも/頭はげても まだ若い/演歌うたって アンコール/生き甲斐ある人 ボケません」。見事なアンチエイジング(老化防止)です。

 それに引き換え「ボケます小唄」は悲惨。「1、何もしないで ぼんやりと/テレビばかりを 見ていると/のんきなようでも 年をとり/いつか知らずに ボケますよ 2、仲間もたずに 一人だけ/いつもすること ない人は/夢も希望も 逃げてゆく/年をとらずに ボケますよ 3、酒も旅行も 嫌いです/歌も踊りも 大嫌い/金とストレス ためる人/人の二倍も ボケますよ」。

 高齢者の集いである「サロン虹」を始めて7年目。これらの小唄に照らし合わすとボケないために多少は役に立っているのかと思う。こひつじ館もできたことだし、囲碁・将棋・マージャン、カラオケなどの会でもやってみるかと夢は広がる。キーワードは「つながる」。人と人がつながり、人と教会がつながり、神につながっていければいいなと思う。囲碁・将棋、カラオケなどはあくまで手段。結果、ボケ防止にもなり、神と出会うなら最高だ。超高齢社会になっていく時代に高齢者の居場所づくりは最重要課題になっている。

 聖書で高齢者についてどんなことが書いてあるか。「夕べになっても光がある」(ゼカリヤ14:7)。「白髪は輝く冠、神に従う道に見出される」(箴言16:31)。「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(使徒言行録2:17)。

降りてゆく生き方

2018-02-06 18:09:48 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2018年2月4日 主日礼拝 杉野省治牧師
「降りてゆく生き方」 コリントの信徒への手紙一 1章18-25節

 ここでパウロの言う「十字架の言葉の愚かさ」とは下降する、下るということである。神が下降するということは人間には不可解な、理解できないことである。神が罪人の下まで下降するのである。

 福音書の中に、100匹の羊の中の失われた一匹を捜し求める羊飼いの話がある。いなくなった羊を捜すために、羊飼いは羊が迷って行った同じ道を辿らなければならない。道なき道である。雑草や茨の生い茂っている道である。迷った羊が傷ついたように、捜し求める羊飼いも傷つく。有名な聖画がある。足を滑らせて谷を滑り落ち、灌木に引っかかっている羊がいる。羊飼いは谷に身を傾けてその羊に手を伸ばしている。傷ついた十字架の主イエスを暗示している場面である。十字架まで下って羊飼いは羊を見出すのである。自ら危険に身をさらして危険に瀕している羊を見出すのである。キリストの十字架の右と左に処刑されようとしている強盗。彼らは罪の当然の報いを受けている人間。それ以外の結末はあり得ない人間。その人間の場所に、キリストは降りられるのである。

 十字架の言葉の愚かさ、それは降りていく愚かさである。自ら、あえて選んで降りてゆく愚かさである。それは人の知恵では理解でない。しかも、神がそういう道を選ばれるということを人は納得できない。なぜなら、人の知恵は必ず上に向かうものだからである。人の賢さは高みに向かうことしか知らないからである。高みに向かい、人を見下ろせる地点に立つことしか求めないからである。

 これまで日本人は、「物質的に豊かになれば幸福になる」「多くもつものが幸福である」という、カネやモノをより多く得ることを欲求の対象として生きてきた。これは、「足していく」ことに価値を見出す、「足し算の生き方」といえる。 しかし、物質的な豊かさの追求によって幸福を得るのが難しいのが明らかな現代社会においては、多く持ちすぎることによって、何が大切かわからなくなっている。即ち、何を得るかではなく、「何を手放すか、捨てるか」ということこそが、いまは大事なのではないか。 つまり、いらないもの、無駄なものをどんどんと「引いていき」、本当に大事なものを見すえるという「引き算の生き方」こそが、何が大切か分からなくなっている現代の日本人にとって大事なのではないだろうか。 豊かさを目指して国民一体となって「昇っていく」時代においては、たくさん得ることがしあわせのように思えた。 しかし、いま我々は、経済成長がピークを迎え、下り坂の時代を生きているのだ。昇っていく生き方ではなく、降りていく生き方こそ、いま求められている。

 北海道の浦河に、「べてるの家」と呼ばれる精神障がいをもつ当事者と地域の有志による共同生活と事業の拠点がある。その「べてるの家」の理念の一つに「降りてゆく生き方」がある。この施設のリーダーである向谷地生良(北海道医療大学教授)さんが学生時代に読んだ神学者、思想家のP・ティリッヒが著した『ソーシャルワークの哲学』の「愛するとは、降りてゆく行為である」という趣旨の言葉に由来する。以来、向谷地さんは今日までソーシャルワーカーとして、「降りてゆく実践」をされている。「降りてゆく生き方」はまさにイエス・キリストを指し示す。

 「愛するとは、降りてゆく行為」。降りていく実践をしていこう。

八木重吉の詩

2018-02-06 11:37:23 | 牧師室だより

牧師室だより 2018年2月4日 八木重吉の詩
 
 大学の時、いつも八木重吉の詩集を持ち歩いていた同級生がいた。八木重吉の名前は知っていたが詩は読んだことがなかった。しかし、彼の影響で読み始め、その詩のすばらしさに感動したことを覚えている。その後、全詩集も買って愛読した。

 重吉はたった5年で約三千の詩を残し、29歳の若さで亡くなった。光と闇、悲しみと喜び、一見相反するものを描いたその詩は平易な言葉でありながら、心の内に突き刺さってくる。いくつか紹介しよう。

 「ねがい」「人と人とのあひだを/美しくみよう/わたしと人とのあひだをうつくしくみよう/疲れてはならない」

 「素朴な琴」「この明るさのなかへ/ひとつの素朴な琴をおけば/秋の美しさに耐へかね/琴はしづかに鳴りいだすだらう」

 八木重吉は1898年(明治31年)、現在の町田市相原町に生まれる。後に神奈川県師範学校(現・横浜国立大学)、さらに東京高等師範学校の英語科を卒業し、英語教員となる。神奈川県師範学校在学中に教会(鎌倉メソジスト教会)に通いだし、21歳の時に洗礼を受ける。24歳で結婚したが、その後結核を患い、茅ケ崎の南湖院で療養生活を送っている。意外と身近なところで生涯のある時期を過ごしていることを知ると親近感がわいてくる。

 「信仰」「基督を信じて/救われるのだとおもひ/ほかのことは/何もかも忘れてしまわう」

 「神の道」「自分が/この着物さへも脱いで/乞食のようになつて/神の道にしたがわなくてもよいのか/かんがへの末は必ずここへくる」
 かなりはっきりとした、まっすぐな信仰の持ち主だったことが分かる。

 自然に託して己の心象を描いた詩もある。
 「太陽」「お前はしづんでゆく/何んにも心残りもみえぬ/何んの誇るところもみえぬ/ただ空をうつくしくみせてゐる」
 「蟲」「蟲がないている/いま ないてをかなければ/もうだめだというふうにないている/しぜんと/涙をさそわれる」

 妻・登美子の回想。「そばにいて思ったのは、有名な詩人になることなんかより、信仰を高め、神に喜ばれる人間になろうとしていた真摯な求道者って感じでしたね」。
 
 *『重吉と旅する -29歳で夭逝した魂の詩人-』(いのちのことば社)参照。