平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

神の杖

2012-07-31 16:31:27 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年7月29日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神の杖」 出エジプト記17章8-16節

 アマレクの攻撃を受けた時、モーセは戦いのため、男子を選び出すようにヨシュアに命令し、モーセ自身は神の杖を手に持ってアロンとフルを伴って丘の頂に立った(9節)。モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢となり、手を下ろすとアマレクが優勢になった(11節)。

 この戦いの最中にモーセが両手を上げるという行為は何を意味しているのだろうか?「祈り」であると主張する立場もある。また6章6節後半(「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」)の「腕を伸ばし」に基づいて、ここでは、モーセは主の旗印の代わりに働いている。それゆえ、15節のモーセが築いた祭壇の名前は「主はわが旗」となっている、という立場もある。

 この物語を、神は私たちが祈る時、その祈りを聞いて助けてくださると解釈する時、それは正しいとは言えない。聖書が証しする神は祈った者はお助けになるが、祈らないものは敵の意のままに放棄されるというような方ではない。私たちはモーセが神の杖を持って丘に登ったことを見逃してはならない。神の杖、これこそ、モーセが神から与えられた唯一のものであった。あの出エジプトという難事業を遂行するために神がモーセに与えた唯一のものであった。それは神がモーセと共にいましたもうという約束のしるしであった。モーセはただそのことに信頼して、エジプトを出、今荒野にあるのである。祈りは神への信頼、神への全き服従から生まれてくるものである。祈らずにはおれない状態に立つ者だけが祈ることができるのである。私たちにとって神の杖とは、主イエス・キリストである。神から与えられた唯一の救いの道であり、神、我らと共にありという約束のしるしである。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)

 レフィディムにおいてモーセは予期しない難問題にぶつかった。アマレク人は強く、彼らは弱かった。神の御旨に従う彼らの途上に立ちふさがり、彼らを滅ぼしつくそうとするアマレク人を見た時、彼らの確信や経験はひとたまりもなく消え失せていったことであろう。ここにあって、なお強く立ち得る道は、神が共にいましたもうという確証以外にはなかった。モーセの丘の祈りはこの神への求めよりほかではなかったのである。

 モーセは、アロンとフルと一緒に丘の頂にいた。日の沈むまでモーセの手はしっかりと挙げられていた(12節)のでイスラエルの人たちの目にモーセの姿が映ったことだろう。彼らにとっては、モーセのまっすぐにのばされた手は、神の御手を見ることであり、励ましを与えたのである。このことは、主と民との共働的な関係を指している。モーセの手あるいは、杖は、「戦いの中で働いている神の御手を兵士たちに保証するのみならず、神がそこにおられるというモーセへの信頼を保証」したのである。モーセの手は、前進を阻むアマレク人との戦いに直面したイスラエルを励ますために伸ばされた神の手の代理と言えるだろう。私たちにとって、神の杖は、御言葉である。御言葉によって生かされ、導かれ、励まされるのである。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ6:63)

証し~被災地ボランティアにでかけて~

2012-07-30 10:40:08 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年7月29日 証し~被災地ボランティアにでかけて~ H姉
 
 4名の姉妹が7月9日(月)~12日(木)に震災支援ボランティアに行かれました。その報告の証しを一部抜粋して紹介します。

 2日目、私たちは大槌町小鎚第4仮設住宅の集会場での「お茶っこの会」をお手伝いさせていただきました。肩もみや手もみをさせていただきながらお話を聴きました。笑顔で話されることの片隅にやはり辛い経験が顔を出します。梅干のつけ方の話になれば「毎年幾つものカメにつけていたけどね。ぜーんぶ流されちゃったものねえ~」とか「仮設は何しろ狭いし、お隣りの音がうるさくてなかなか眠れないのよ。薬飲んでも寝れないよ。でもお互いだからねえ、言えないでしょう」などなど、お一人お一人の背後に大きな痛みのあることが分かります。今は誘い合わせて集まり、楽しそうにお話をされている方々ですが、お茶っこの会を始めた当初は、口は重く、中には泣いてばかりいる方もあったそうです。(中略)

 3日目は「まごころネット」を通して仕事を頂きました。この日は11日、仏教的な言い方ですが月命日です。朝、まごころネットの基地で黙祷を捧げ、朝礼をして出かけます。朝礼で代表の多田さんがおっしゃった言葉が印象的でした。「大震災から一年4ヶ月が経ち、次第に忘れられています。弱い方々の声が聞こえなくなってきています。だからこそ私たちは弱い人たちの声を聴く努力をより一層していかなくてはならないのです」。 ああイエスさまの姿勢と同じだと思いました。

 この日は大槌町の国道45号線沿い花壇の除草作業と植栽作業を一日させていただきました。ご近所のおばちゃんもお二人参加してくださいました。暑い日でしたが、吹く風がすがすがしく、休憩の時に見た景色は海も緑も本当に美しいものでした。一緒に作業をしたおばちゃんは「きれいなとこでしょ。あの震災さえなかったらいいとこなんだよ~」と言われました。2時46分には海に向かって黙祷をしました。11日に奉仕させていただいたことを本当に感謝しました。(後略)

終末の信仰に生きる

2012-07-26 14:04:51 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年7月22日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「終末の信仰に生きる」 マタイによる福音書5章1-12節
 
 3節から言われていることは、私たちの考え方とはおよそ逆説的なものである。富んでいる者が幸いであって、貧乏人は不幸なのであり、それはこの世の道理である。悲しんでいる者よりも、喜んでいる者が幸いなのであり、強い者が地を継ぐのであって、弱い者や柔和な者はいつも放っておかれるのである。憐れみ深いようなことをしていたら人生の落後者になってしまうし、心の清いということも、この世では通用しないものになってきている。
 
 ところが、主イエスが来られることによって、貧しい人が幸いになる新しい世界がもたらされた。この新しい世界とは、主イエスがガリラヤで宣教を始められた時、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)と言われた、その天の国(他の福音書では「神の国」)のことである。
 
 貧乏人がいつまでも不幸な生活をしなければならない世界にあって、幸いであるという光がもたらされた。新しい世界は、主イエスという光が来ることによって知らされる、この世では理解できない世界である。山上の説教は、主イエスがこの世に来られたということを除いては理解できないものである。「悔い改めよ。天の国は近づいた」という福音を信じる信仰によってのみ理解し、受け入れることのできるものなのである。
 
 主イエスは、誰も相手にしてくれず、自分はだめだと絶望している人のところへ行って友だちになってくださる。罪を犯しているからどうしようもないというその罪を、主イエスは引き受けてくださる。悲しんでいる人を捜し求めてその人のところへ行かれる。だから、主イエスに出会って主イエスからの慰めが与えられるのである。不公平のようだけども、主イエスは悲しんでいる人を求めていかれるのである。それは、エゼキエル書の34:16に「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。」とあるように、それが神の愛の本質だからである。
 義に飢え渇いている人、柔和な人、憐れみ深い人、心の清い人、平和を作り出す人、義のために迫害されてきた人たちも皆そうである。こういう人たちを、主イエスが尋ねていかれるから幸いなのである。もし、私たちが主イエスに出会い、主イエスの言葉を聞き。手に触れ、足に触れようと思うなら、ここに書かれているような人となり、そういう生活をしていかねばならないだろう。
 
 富める青年が、ある日主イエスのところにやって来て、「どんなに一生懸命頑張っても、自分は永遠の命を得ることはできない。何か足りない。安心ができない。どうしたらあなたのように永遠の命に生かされるという確かさを持つことができるのですか」と尋ねた。それに対して主イエスは、「あなたの持ち物が、それを邪魔している」と言われた。貧しくなるために持ち物をみな人にあげたらよい、そうしたら永遠の命を受けることができるというのである(19:16-22)。
 
 これが本物だ、真実なものだと分かったら、そのためにはいっさいのものを捨てていく情熱が、決断が信仰には必要だというのである。私たちの信仰は、この世に宝を積むのではなく、天に宝を積むものである。そこにわたしたちが貧しくなっていく世界がある。私たちの信仰は終末に生きる信仰である。神の国へと旅するこの世においては旅人である。その旅中、すでに主イエスが共に私たちに伴ってくださる。私たちのなすべきことはおのずから主イエスによって示され、促され、なされていく。主イエスと共に歩んでいこう。

隣人援助は愛のわざ

2012-07-24 16:37:43 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年7月22日 隣人援助は愛のわざ

 ときどき「ホームレス支援をしています」と言うと、「善いことをされていますね」と言われることがある。自分では「善いこと」をしているつもりはないのでとまどってしまう。

 以前、カウンセリング講習を受けていた時、ある先生が「カウンセリングの勉強をしてひとさまのお役にたつような善いことをしたいとおっしゃる方がよくおられますが、ガウンセリングの働きは、善いことをするというより隣人を愛することですから、そこのところを間違わないように」と言われたことがあった。確かにカウンセリングは、ひとさまの問題を解決するための援助の働きだから、善いことに違いない。でもカウンセリングは善行とは少し違うと思う。

 善行は自分にとって善いと思うことをすること。だから「一日一善」という標語が励みになったりする。その結果についても「善いことをした」という気持ちが自分を満足させる。場合によっては善行の押し売りがはじまる。

 カウンセリングの働きは、それによって自分にとって善いことをしているのではなく、相手にとって援助となることは何かを求めることなので、カウンセラー側にとって不都合であっても、来談者にとって結果が良ければ、カウンセリングの目的は達成される。

 ホームレス支援も同じようなことがいえる。やむなく路上生活をしている方が自立して生活できるよう物心両面で支援するわけだが、その人にとって何が必要か、相手の立場になって支援する。

 その意味でカウンセリングもホームレス支援も愛のわざというほうがふさわしいのではないか。愛の対象は出会いから始まり、時には援助者側にとって不都合な場合も出てくる。だから隣人援助のわざは、泥沼に足を踏み入れるようなものだと言われることがある。苦悩や痛みを相手と共有しながら、何が相手にとって最も援助になるかを探す働きは、傷を負うこともしばしばである。その傷の痛みを自分のものとして引き受ける包括的な態度が援助する者には求められるだろう。

資格の喪失者の回復

2012-07-18 15:54:16 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2012年7月15日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「資格の喪失者の回復」 ルカによる福音書15章25-32節

 今日の聖書個所は、有名な放蕩息子の譬え話である。この放蕩息子は、父から財産をもらって放蕩に身を持ち崩し、最後に飢えて死のうとするような状態になる。そこで彼が「もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」――資格を失った者であると告白したのである。
 
 資格の喪失者が、この父によって資格をもう一度回復することができた。そこにこの放蕩息子の譬えの大きな意味がある。息子としての資格の回復は、父からもう一度資格を与えられる以外に自分ではどうすることもできない。神の御前に資格を失った者に資格を与えてくださるのが主イエスである。これをとりなしという。しかし、放蕩息子のお兄さんは自分が資格の喪失者であることに気づかず、弟が父から愛を受けるのを見聞きした時、立腹した。資格のある者にとっては、資格のない者を無条件で許したり、資格を与えたりする神に対して、何か不公平さを感じるのは当然であろう。
 
 この放蕩息子のことでも、この前に出てくる一匹の迷える羊についても、不公平ではないかと私たちには思われる。放蕩息子や迷える羊には非常に親切であるが、迷わない羊や、父のもとで真面目に働いていた兄に対しては冷たい。迷った者、遊んだ者に親切にするのなら、迷わない、遊ばない真面目な者には、もっと大きなことをしてやってもよいではないかと、そこに一つの矛盾を感じてしまう。実はパリサイ派の人々や律法学者たちもそう感じているのである。しかし、主イエスはその人たちに向かって、あなたがたは自分が資格を失った者であることに気づいていないと言われたのである。
 
 なぜ神はそうされるのだろうか。それは失われた者を見出すために来られた方であるからである。「わたしは悪人の死を好むであろうか」(エゼキエル書18:23)と言われ、同じく「わたしは何人の死をも喜ばないのである」(同書18:32)と言われるのである。滅びゆく者に心を砕かれるお方であるからである。さらにエゼキエル書34:16には「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」とある。
 
 ここで、兄は父の自分に対する態度と弟に対する態度が違うと父を論難している。その時、兄は弟を自分の弟とは認めない。「あなたのあの息子」としか言わない。関係性の喪失である。関係ない、という態度である。父は、それに対して明確にその過ちを訂正する。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った」ではないか、と言うのである。この喜びは、お前の喜びではないのか、と。徴税人や罪人を兄弟として迎えることができないファリサイ派や律法学者が兄の姿に映し出されていることは明らかである。そうとすれば、主イエスはただ、その姿勢を論難されるだけではない。祝宴に彼らを招いておられるのである。羊が戻っても、銀貨が見つかっても、喜びが分かち合われる。それを天にある喜びだと言われる。その天の喜びにファリサイ派も律法学者も招かれている。この招きを聞き、受け入れる時、弟を拒否した罪を悔い改めざるを得ないだろう。実は、この招きは私たちにも向けられている。この招きを受け入れ、悔い改め、共に喜びの生活へと入って行こうではないか。

漂 流

2012-07-16 13:19:06 | 牧師室だより

牧師室だより 2012年7月15日 漂 流

 ロシアの文豪トルストイのある寓話を紹介しよう。

 私は突然、見知らぬ岸辺から押し出された小舟の中に座っているような気がした。対岸の方向を教えられ、二本のオールを与えられただけで、あとは自分一人でやらなければならなかった。私はオールを動かし、前へとこぎ進んだ。が進むにつれて流れが強くなり、舟はコースからはずれてしまう。

 ほかの人の舟に出会った。彼らもやはり流されていた。ある者はオールを投げ出してしまっていた。流れに逆らって奮闘している者も多少はいたが、たいていの者は流れと共に流されていた。

 さらに進むと、さらに多くの舟が長い列をなして流されていくのが見えた。私も、これがお前のコースだ、と教えられた方向を忘れてしまった。四方八方から私に向かって「このコースでいいんだぞ」という楽しそうな声が投げかけられた。私はその言葉を信じた。ほかの人たちが流れのままにすべるように進んでゆくので、私も一緒に流されるままにまかせていた。が、やがて急流のとどろきが聞こえてきた。ほかの連中の舟が粉砕されているのが見える。私も同じように滅びることは明らかだった。

 その時私は正気に戻った。

 前方にあるのは破滅だけだ。今自分はそれに向かってまっしぐらに進んでいる。どうしたらいいのだ。

 うしろを振り向くと、いくつかの舟が流れに逆らってなんとか進もうと悪戦苦闘しているのが見える。その時私は、対岸のこと、コースのこと、オールのことを思い出した。そこで直ちに激しくこぎ始めた、対岸を目指し、上流に向かって。

 対岸とは神である。流れとは人のしきたりである。オールとは自由意志である。神との結合に到達するために、自由なる意志が私に与えられているのである。

 寓話は以上です。皆さんはこの寓話から何を教えられましたか?今の自分の生き方を振り返ってみましょう。現代社会の変化は激しくついていけないほどです。情報はあふれ、おぼれそうです。目指すべきところから目を離さないように。