(先週の説教要旨) 2012年7月29日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「神の杖」 出エジプト記17章8-16節
アマレクの攻撃を受けた時、モーセは戦いのため、男子を選び出すようにヨシュアに命令し、モーセ自身は神の杖を手に持ってアロンとフルを伴って丘の頂に立った(9節)。モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢となり、手を下ろすとアマレクが優勢になった(11節)。
この戦いの最中にモーセが両手を上げるという行為は何を意味しているのだろうか?「祈り」であると主張する立場もある。また6章6節後半(「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う。」)の「腕を伸ばし」に基づいて、ここでは、モーセは主の旗印の代わりに働いている。それゆえ、15節のモーセが築いた祭壇の名前は「主はわが旗」となっている、という立場もある。
この物語を、神は私たちが祈る時、その祈りを聞いて助けてくださると解釈する時、それは正しいとは言えない。聖書が証しする神は祈った者はお助けになるが、祈らないものは敵の意のままに放棄されるというような方ではない。私たちはモーセが神の杖を持って丘に登ったことを見逃してはならない。神の杖、これこそ、モーセが神から与えられた唯一のものであった。あの出エジプトという難事業を遂行するために神がモーセに与えた唯一のものであった。それは神がモーセと共にいましたもうという約束のしるしであった。モーセはただそのことに信頼して、エジプトを出、今荒野にあるのである。祈りは神への信頼、神への全き服従から生まれてくるものである。祈らずにはおれない状態に立つ者だけが祈ることができるのである。私たちにとって神の杖とは、主イエス・キリストである。神から与えられた唯一の救いの道であり、神、我らと共にありという約束のしるしである。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
レフィディムにおいてモーセは予期しない難問題にぶつかった。アマレク人は強く、彼らは弱かった。神の御旨に従う彼らの途上に立ちふさがり、彼らを滅ぼしつくそうとするアマレク人を見た時、彼らの確信や経験はひとたまりもなく消え失せていったことであろう。ここにあって、なお強く立ち得る道は、神が共にいましたもうという確証以外にはなかった。モーセの丘の祈りはこの神への求めよりほかではなかったのである。
モーセは、アロンとフルと一緒に丘の頂にいた。日の沈むまでモーセの手はしっかりと挙げられていた(12節)のでイスラエルの人たちの目にモーセの姿が映ったことだろう。彼らにとっては、モーセのまっすぐにのばされた手は、神の御手を見ることであり、励ましを与えたのである。このことは、主と民との共働的な関係を指している。モーセの手あるいは、杖は、「戦いの中で働いている神の御手を兵士たちに保証するのみならず、神がそこにおられるというモーセへの信頼を保証」したのである。モーセの手は、前進を阻むアマレク人との戦いに直面したイスラエルを励ますために伸ばされた神の手の代理と言えるだろう。私たちにとって、神の杖は、御言葉である。御言葉によって生かされ、導かれ、励まされるのである。「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」(ヨハネ6:63)