(先週の説教要旨) 2013年6月23日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「神との契約の塩」 レビ記2章1-3、11-13節
2章は、穀物の献げ物についての規定である。焼き尽くす献げ物が牧畜的な犠牲であったのに対して、穀物の献げ物は農耕的な供物で、穀物、オリーブ油などがその材料になっている。焼き尽くす献げ物が奉献者の献身の象徴であるとすれば、穀物の献げ物は神の賜物(収穫)に対する感謝をあらわすものであった。
小麦粉を材料とする穀物の供物は、「すべて、酵母を入れて作ってはならない。酵母や蜜のたぐいは一切、燃やして主にささげる物として煙にしてはならないからである」と規定されている(2:11)。ところが「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」(2:13)と命じられている。
「塩」は聖書の中によく出てくる。新約聖書にも、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」(マタイ5:13)、「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。……自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(マルコ9:49-50)、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」(コロサイ4:6)などと記されている。その意味するところは同一ではないが、これらの言葉に共通なことは「大切なもの」ということである。確かに塩は古今東西を問わず、人間にとって大切なものである。
ではこのレビ記において言われているこの「塩」とは何を意味しているのだろうか?ここで言われている塩は「契約」(「神との契約の塩」2:13)を意味する。神と人との契約である。聖書における神と人との契約は、人と人との契約と異なる。人と人との契約は対等の契約であるが、神と人との契約は神が先行する契約である。
モーセの十戒の前文に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)と記されているが、ここに神の先行的契約が示されている。神がまずイスラエルを愛し、その愛に応えていくところに、神と人との契約があるのである。だから、「契約の塩」とは人間の側から言うならば、それは神への誠実であり、服従である。換言すれば塩は「信仰」を指す言葉である。
すべて、あなたの供え物は、塩を添えて献げなければならない、ということ。塩、信仰が添えられていなければ、どんな供え物も、それは神に通ずるものではないという(契約が実効性をもたない)ことである。
私たちは、信仰生活を長く続けていくうちに、供え物が信仰の代理をしてくれるように思いやすい。宗教の堕落はここから始まる。供え物さえしておけばよい。献金さえしておけばよい。礼拝にさえ出ておればよい。私たちはこうした外面的で形式的な宗教儀式をもって、自分の信仰と思いやすい。しかし、それだけでは塩のない供え物である。それは印鑑のない小切手のようなものである。それは通用する力を持たない。見える形だけではなく、見えないところの信頼、誠実、服従といった信仰が伴ってこそ、はじめてすべての儀式は神に通じ、意義を持つのである。大切なことはそのような塩、信仰である。