平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

神との契約の塩

2013-06-25 15:10:07 | 説教要旨
      
(先週の説教要旨) 2013年6月23日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「神との契約の塩」 レビ記2章1-3、11-13節
 
 2章は、穀物の献げ物についての規定である。焼き尽くす献げ物が牧畜的な犠牲であったのに対して、穀物の献げ物は農耕的な供物で、穀物、オリーブ油などがその材料になっている。焼き尽くす献げ物が奉献者の献身の象徴であるとすれば、穀物の献げ物は神の賜物(収穫)に対する感謝をあらわすものであった。
 
 小麦粉を材料とする穀物の供物は、「すべて、酵母を入れて作ってはならない。酵母や蜜のたぐいは一切、燃やして主にささげる物として煙にしてはならないからである」と規定されている(2:11)。ところが「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」(2:13)と命じられている。
 
 「塩」は聖書の中によく出てくる。新約聖書にも、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう」(マタイ5:13)、「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。……自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」(マルコ9:49-50)、「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう」(コロサイ4:6)などと記されている。その意味するところは同一ではないが、これらの言葉に共通なことは「大切なもの」ということである。確かに塩は古今東西を問わず、人間にとって大切なものである。
 
 ではこのレビ記において言われているこの「塩」とは何を意味しているのだろうか?ここで言われている塩は「契約」(「神との契約の塩」2:13)を意味する。神と人との契約である。聖書における神と人との契約は、人と人との契約と異なる。人と人との契約は対等の契約であるが、神と人との契約は神が先行する契約である。
 
 モーセの十戒の前文に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト20:2)と記されているが、ここに神の先行的契約が示されている。神がまずイスラエルを愛し、その愛に応えていくところに、神と人との契約があるのである。だから、「契約の塩」とは人間の側から言うならば、それは神への誠実であり、服従である。換言すれば塩は「信仰」を指す言葉である。
 
 すべて、あなたの供え物は、塩を添えて献げなければならない、ということ。塩、信仰が添えられていなければ、どんな供え物も、それは神に通ずるものではないという(契約が実効性をもたない)ことである。
 
 私たちは、信仰生活を長く続けていくうちに、供え物が信仰の代理をしてくれるように思いやすい。宗教の堕落はここから始まる。供え物さえしておけばよい。献金さえしておけばよい。礼拝にさえ出ておればよい。私たちはこうした外面的で形式的な宗教儀式をもって、自分の信仰と思いやすい。しかし、それだけでは塩のない供え物である。それは印鑑のない小切手のようなものである。それは通用する力を持たない。見える形だけではなく、見えないところの信頼、誠実、服従といった信仰が伴ってこそ、はじめてすべての儀式は神に通じ、意義を持つのである。大切なことはそのような塩、信仰である。

証しは恵み

2013-06-25 13:00:54 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年6月23日 証しは恵み

 先週は伝道礼拝でI姉に、今週は転入会されるY兄に証しをしてもらいました。「証しをして下さい」と言われたら、皆さんどう答えますか。すぐにでも出来る方もおられるし、少し時間が必要な方もおられるでしょう。いずれにしても、主の恵みを数えてみましょう。それは同時に自分の信仰を今一度吟味する良い機会です。証しすることがまた恵みであることを実感されるでしょう。ぜひ、皆さんも続いて積極的に証しをしましょう。

 証しは簡潔に言うならば「イエス・キリストを救い主と証言すること」です。その内容は「十字架と復活についての証し」です。使徒言行録では繰り返し主の復活の証人として使徒たちが登場します。神が今も生きて働いておられることを身をもって証言したのです。それには、言葉で証しする、行いで証しする、そしてそこに居続ける存在をもって、身をもって証しする、と三つ考えられます。たとえ言葉や行いで証しが出来なくても、礼拝に出席し続けることは大切な証しです。どれだけ周りの人々を励ますことでしょう。

 言葉による証しについては、次の三つのポイントを押さえましょう。①イエスを信じる前の自分いついて。②どのようにして信じるようになったか。③信じた後どのような変化があったか。自分の身に起こったこととして確かなのだと言えばそれが証しです。そしてごく自然に淡々と語ることです。力んでではなく淡々というところがかえって大切で、好感をもたれるでしょう。

 口下手の人は聖書のみ言葉を手紙やはがき、トラクトなどで紹介しましょう。聖書を贈るのもいいでしょう。「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ5:39)とありますから。主イエスを紹介するには教会へ誘う手もあります。礼拝をはじめ諸集会やバザーなどに。来る来ないは神にゆだねましょう。そしてなりよりもとりなしの祈りをしましょう。

失われたものを尋ね求めるイエス

2013-06-25 12:04:22 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年6月16日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「失われたものを尋ね求めるイエス」 ルカによる福音書15章1-10節

 ルカによる福音書15章には三つのたとえ話が記されているが、主イエスがこれらのことを話されたのは理由がある。徴税人や罪人といわれる人々が大勢主イエスの元にやって来た(1節)。ユダヤの人々にとって彼らは共同体の周辺、はずれにいるべき存在。共同体のお荷物。ローマ政府の手先、徴税人などしているので、きわめて迷惑な、嫌な人々であった。

 しかし、主イエスは喜んで彼らを迎えるのみならず、食事まで一緒にする(2節)。そのことは仲間であることを内外に明らかにすることになる。ユダヤ人たちは、そこにうさん臭い、いかがわしい連中が集まる、そのことが理解できなかった。そういうユダヤ社会の指導者たちの不審、怒り、不満、疑念に対して主イエスはこのたとえ話をされたのである。
 
 99匹の羊を野原に残して、見失った一匹を羊飼いが探し回る有名なたとえ話を主イエスは話された。このたとえ話の中に、羊飼いは見つけると肩に担いで家に帰って来たとある。羊は羊飼いがやっと見つけてくれたこと、そして肩に担がれたことで、自分がどのような状態であったのか、それほどまでに捜し求められていた自分であったのかと、分かったに違いない。「わたしは迷える一匹の羊です」と謙遜に言う人がいるが、羊飼いである主イエスに見つけていただいたからこそ、そう告白できるのである。

 一方、私たちは、自らを彼らと違って、もっと立派な人間であり、資格のある人間であると思う傲慢があり、自分の罪深さに気づいていない。そこを主イエスは指摘しておられるのである。放蕩息子のたとえ話の長男のように、失われていないと思っている長男には、どんなに説明しても、父の心を、すなわち福音を理解することはできなかったように。

 しかし、私たちが神から愛されたり、赦されたりする資格のない者であることを気づくところから、私たちの福音を喜ぶ生活が、この方によらなければ私の救いはないという信仰が生まれてくる。失われていた私たちが見つけ出された。そのことに気づくとき、悔い改めがおこる。そしてイエス・キリストの十字架に救いを見出し、その神の愛に感謝する信仰が生まれてくる。

 本来、神ご自身に属するもの、しかし失われていたもの、それが見出されたのだ。喜ぶべきことではないか。失われてしまっていた神の民が、神の宴席に回復されている、それが、この食卓の光景である。見失われていたものが、やっと見出された。誰が捜したのか。本来の所有者である方が捜したのである。どのようにして探したのか。身を低くして、はいつくばって、泥まみれになって、自ら傷ついて、十字架について。それがやっと見つけ出されたのだ。一枚のぴかぴかの、かけがいのない銀貨として見つけ出されたのだ。徴税人、罪人たちの喜びはそこにあった。自分たちのようなものを主イエスは「見つけ」て下さった。かけがいのない価値ある者として。

証し「暖かい光を感じ……」

2013-06-20 17:51:13 | 教会案内

2013年6月19日  伝道礼拝  証し   Iさん

 今日、この伝道礼拝でお証をさせていただくことができ、感謝いたします。今日は、私がイエス様を信じてバプテスマを受けた時のお話をしたいと思っています。

 私が教会で聖書のみ言葉に最初に触れたのは、小学生の時です。すでにクリスチャンでありました母に連れられて教会に行った時でした。何度か教会の小羊会に参加したりもしましたが、中学生になってからはすっかり教会には行かなくなっていました。ただ、その時に教えていただいたお祈りは、困った時には思い出したように祈るという、今思うと自分の都合で祈っていたのだと思います。

 そのような私が、20歳で結婚をし、娘が生まれて1歳の頃、住んでいた家を立ち退かなければならないことが起こり、それからは夫婦共稼ぎの生活をし、30歳の時、主人の夢でもあった小さなオートバイ店を友人と開業しました。資金はまったくなかったので、本当に狭い店でした。1年ほどで友人と経営方針が異なり、そこを離れ、昔からの知り合いのところの駐車場の一角で店を出させてもらいました。ただ1年後に立ち退きに会い、店を開けるところもない半年の間、収入が途絶えたりもしましたが、紹介で店舗兼住宅を借り、また一から商売をすることができ、仕事に励みました。

 はじめの何年かは定休日もなくて、朝から、時には日をまたぐこともしばしばでしたが、店を転々とすることなく、仕事も出来て安堵しておりました。8年後、2店舗目は借り物ではない自分の土地と店を持ちたいという思いがかない、店舗付き住宅を購入しました。しかし、1年たたずして主人が仕事先で倒れた際に、くも膜下出血で救急搬送され、しばらく仕事ができない状態になりました。その時は借りている店舗、購入したばかりの店舗とかなりの返済があり、娘の高校受験も重なり、4人の従業員をかかえ、これからどうしたらと、かなり精神的にも辛かったですが、半年ぐらいで、主人の状態はよくなりました。でも、なかには仕事をさせすぎだと私に言う方もいました。今までは主人と一緒に店の経営と従業員の面倒を見ること、娘の成長が私のすべてで、生きがいでもあったはずなのに、高校生になり、だんだん自分から離れていくように見える娘に寂しさを感じ、自分の時間がなく、店に縛られ、何を頑張っても評価されないような虚しさが加わり、友人も少なく、まして店から出ていく時間も限られ、このままこれから先ずっとこの状態が続くのかと考えているうちに、どんどん落ち込んでいってしまいました。
 
 そして夜眠れなくなり、でも昼間は仕事をしていくうちに、手が震えて事務ができなくなったり、経理一切を行っていたのに得意先に言われるまで誤りに気づかないミスをしたり、毎日作っていた娘のお弁当も作れず、心も体も弱り果てて、寝込んでしまいました。食事も食べる気がせず、このまま私は社会復帰ができないのではないか、とまで思いこんでしまった時、このような状況から私を助けてくださいと、起き上がることもないまま、祈っていました。いつもお願いばかりでごめんなさいと、心で謝りながらですが、今でもはっきり覚えているのです。どのくらい祈ったかは覚えていません。そんな時、何か暖かい光を感じ、体全体が包まれ、何か安心感で涙があふれ、「あっ、イエス様だ」と思える時間がありました。私は今まで霊的なことを感じたことは一切なかったのですが、その時のことは今でも覚えています。
 
 その後、体調の悪い私を気遣って、主人が気分転換にと外に誘い出してくれた時、賛美歌のCDに目が留まり、毎晩賛美歌を聴きながら、涙したこともありました。そんな時、ポストに手紙を取りに行き、この教会からのクリスチャン新聞を見つけ、「教会はあなたのお越しをお待ちしています」の言葉に神様の導きをはっきりと感じ、主人に日曜日に教会に行かせてほしいと言い、およそ30年ぶりともいえる礼拝に出席しました。幼いころに手にした聖書と賛美歌を渡され、か細い声で歌った賛美でしたが、心にしみました。何回かの礼拝で、聖書のみ言葉が語られ、一つひとつ心の中に沁み込んできました。長い間出血が止まらない女がイエスさまのみ衣に触れた時、癒された話。放蕩のかぎりを尽くし、父のもとに立ち返った息子を責めることなく抱き寄せ、祝宴をあげた父の話。「重荷を負うものは私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と招くみ言葉。私はただ助けてほしいと祈っただけ。信仰といえるものではないのですが、バプテスマを受けて、イエスさまを求めていきたいと思いました。教会に行き始めてから、およそ2カ月後にバプテスマを受けました。よく思い起こしてみれば、主人が倒れた時も、母が教会の皆さんが祈ってくれているからね、と言ってくれたこと、私のために長い間たくさんの方々の祈りがあったこと、そして神様に支えられているからこそ、ここまで来られたのだと、悔い改めることばかりでした。

 何カ月かたち、主人も私の状態を相当心配していたのでしょう。二つの店舗とも従業員に任せて、私の負担を取り除いてくれ、礼拝に行くことができるようにしてくれました。今は片方の店舗を任せた子が事故で亡くなってしまいまして、一つの店を車の整備工場として経営しておりますが、日曜日の礼拝を主に招かれ、ささげることが出来、たくさんの方々と、主にある交わりが出来まして、本当に感謝です。

 またその頃から気になっていた甲状腺の手術を5年前に受け、術後の経過観察を定期的に受けておりましたが、来月でちょうど5年になり、主治医からは再発の心配はないと言われているので、神様のお守りを本当に感謝しています。お願いばかりのこんな私の祈りに応えてくださった神様の愛を心から感謝したいと思います。

 今は日曜日にはバプテスマを一番喜んでくれた母と主人のお母さんと、今日は孫ともどもこの教会で礼拝の恵みにあずかることが出来、本当に感謝です。

 欠けだらけの私が教会の働きに用いられていることも感謝です。たとい小さな祈りでも見放すことのない神様の愛に祈りつつ応えていきたいと願っています。今日はありがとうございました。

忘れてませんか?父の日

2013-06-19 17:08:34 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年6月19日 忘れてませんか?父の日

 今日は父の日。とは言っても、母の日と違って、影の薄い父の日。それは日本だけの話ではなかったようだ。そもそも、父の日は、米国で母の日は比較的定着しているのに、父親に感謝する日が存在しないのは不十分だということから生まれた。

 妻を亡くしたW・J・スマートという南北戦争退役軍人が一人で6人の子どもを育てたが、1910年に娘の一人J・B・ドッド夫人が父親に感謝する日を作ってほしいとワシントン州スポーケンの牧師会に願い出た。そこで教会が感謝の記念礼拝を始めて、父の日が広まった。母の日はカーネーションだが、父の日はバラの花を贈る習慣だそうだ。

 日本で広がったのは60年代だという。さて、贈り物だが、ある調査によると、父の日に贈り物をすると答えた人は5割強。母の日の76%と比べて少ない。そういえば、私も母の日には大人になってからも花をプレゼントしたことはあったが、父の日には一度もプレゼントしなかった。

 また、あるアンケートによると、贈る側がプレゼントに予定しているものの1位は「酒やお取り寄せグルメ」だったのに対し、お父さんが欲しい物の1位は、「手紙や手作りの品」。2位がネクタイで、「旅行や外食」が3位。家族との時間や思い出が欲しいと感じているお父さんが多いようだ、と評論してあった。まだ何を贈るか迷っている人は参考にしてください。

 私が初めて父の日のプレゼントをもらったのは、長男が幼稚園で作った「ネクタイ掛け」だった。紙皿に似顔絵が描いてあり、その下にプラスチックの取っ手をぶら下げただけの手作り品だった。しかし、嬉しいのと使い勝手が良かったので、10数年使った。

 贈り物は人生の潤滑油。贈った方も贈られた方も共にうれしい。年賀状をはじめとする手紙やはがき。お礼や励ましの電話、挨拶の一言。お中元やお歳暮。クリスマスプレゼントに誕生プレゼント、そしてお年玉……。心のこもったプレゼントを贈りましょう。「与えるは受くるよりも幸いなり」(使徒20:35)。

イエスを第一とする生活

2013-06-19 17:05:46 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年6月9日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「イエスを第一とする生活」 ルカによる福音書9章57-62節
 
 この57~62節の話では、イエスに従う者の覚悟について、三つのケースが述べられている。一つ目は、イエスに従っていきたいと名乗りを上げた人の話。おそらくこの男は、イエスのなさった奇跡を見たり、語る教えに感動したり、共感を覚えたりしていたのだろう。イエスの将来の可能性を信じたのだ。例えば、他の弟子たちと同じようにイエスがユダヤの王になるかもしれないとの期待、そして、そうなれば自分もまた権威や権力を得られる、そのような夢を描いたのかもしれない。イエスはそんな彼に、毎日が放浪の旅であり、お前の求めているようなものではない。「人の子には枕する所もない」のだが、それでもいいか。そして、これはイエスがこれから歩もうとされている厳しい、苦しい状況にお前も耐えられるか、9章21節で語られた自分の十字架を負って従って来られるか、という問いが込められているだろう。
 
 二番目は、イエスの方から「わたしに従いなさい」と招かれ、それに対して「まず、父を葬りに行かせてください」と言った男の話。ユダヤ社会でも親の葬儀は、いろいろな事柄に優先して行わなければならない義務だった。それをしないことは社会からの逸脱行為である。しかし、イエスはこの男に「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言い、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われた。これは、肉体が滅びた者は、「生けるしかばね」とも言うべき、魂が死んでしまっている者たちに任せなさいと解釈される。イエスは、従おうとする者に極端な例を出されて、私たちの人生によく起こるぎりぎりの選択を迫っておられる。世のすべてのことは、神の支配の中にあるのだから、一切を主に委ねて、なすべき第一のこと「神の国を求めなさい」(ルカ12:3)、「そうすればこれらのものは加えて与えられる」と言われているのだ。
 
 三つ目も一人目と同じように、自ら従っていくことを申し出た形になっている。「しかし、まず家族に暇乞いに行かせてください」というのである。これから長い旅になるやもしれない。もう帰って来られない可能性もある。それを思うと、家族との別れの挨拶ぐらいはしておきたいと思うのが人情。ところが、これもダメなのだ。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。牛馬などにつないだ鋤を引かせて畑を耕す時に、作業に入ってから後ろでも見ようものなら、牛馬を御しきれないで、大事故になったりすることがある。同じように、イエスに従っていくという一大決心をして、家族に分かれのあいさつをしに行ったら、愚かなまねはよせと説得されて引きとめられた、そして、それで済まずに、神すら信じられないことになってしまった、というようなことになりかねない。そもそも、従っていこうなどという思いは神から与えられるものだから、その招きの時は、人生において最も大切な時なのだ。家族や他の人々に相談して決めることではない。ただ神に祈り、神の招きに応答して行動を起こすだけである。だから、パウロも、救いに与かり異邦人伝道の使命が与えられた時に、「血肉に相談するようなことはせず」(ガラテヤ1:16)に、決断をし、行動を起こした。これから進む道が神によって示されたのに、その道に一歩踏み入れる前に、「まず」これこれをした後で、それから神の道を進みますでは、時を失う。神に従う道は、いつも神第一である。それが祝福の基である。

あなたにとって代われない

2013-06-11 12:00:47 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年6月9日 あなたにとって代われない

 私は教師時代も牧師になってからも、人に教え、手助けし、相談に乗ったりしているが、時々「私はあなたにとって代われない。あなたはあなたの人生だ。どう生きるか、生きたいか、最後は自分で考え、判断し行動するしかないのだ」と相手に言うことがある。突き放すような冷たい印象を与えるかもしれないが、それが真実だ。

 逆に言うと、その人の人生をもしとって代わるようなことをするならば、それは相手をいいようにおもちゃにするか、私物化するか、隷属させて、その人のかけがえのない人権、命、人生を奪うことになる。過干渉、過保護がそれにあたる。間違った愛情、お世話、親切、気をつけたい。

 お世話をしたり、相談に乗ったりする人の中に、ときどき投げやりになって「生きていたって、何のいいこともない」とあきらめたり、自分の運命を呪ったりする人がいる。また、「社会のせいだ、学校のせいだ、親のせいだ」と他者のせいにして、不平、不満ばかり言う人もいる。気持ちは分かるが、それでは一歩も前には進めない。展望がない、希望がない。そういう人に言う。「今の与えられた状況、現実を受け入れよ。そしてそこから、どうしたいのか、どうなりたいのか。そのために何をなすべきか考えよう」。

 いずれにしても、その決断の仕方次第で、これからの人生の生き方が決まる。一回限りの後戻りできない人生を悔いのないように生きるか、不完全燃焼のまま終わらせるのか、決断次第である。折角与えられた人生、前向きに意味のある人生を送りたいもの。そのためには、自分の存在を肯定的にとらえることである。

 ある有名な神学者の言葉。「自殺しようと思っている人に、あなたは生きなければならないと言っても意味はない。あなたは生きることが許されていると言わねばならない」。命が与えられ、今日も生かされている、許されている。これは偶然ではない。そこに意味があり、価値があることに目を向けよう。与えられた命だからこそ、かけがいのない、大切なものなのだ。

イエス・キリストは主である

2013-06-11 11:57:15 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2013年6月2日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師

 「イエス・キリストは主である」 フィリピの信徒への手紙2章1-11節

 神の愛は、神が私たちにくださった最高のプレゼントである主イエスの生涯によって明らかにされる。

 牧会者であるパウロは、教会員が一つ思いになることが何よりもうれしいということから語り始めている。一つになるということは、キリストの愛によってみんなが結ばれ、とけ合っていくという交わりである。教会は性格や財産や知能に関係なく、誰でも行けるところ。だから様々な人がおり、そこには一つのことに対する考え方にも違ったものがある。だから教会はバラバラであって当たり前である。そこに一つの思いが生まれてくるのは、キリストによって私たちの罪が赦されるという一点である。教会へ来る人々を結び合わせているものがキリストであることがはっきりすれば、統一が生まれてくる。その結果、教会はこの地上に遣わされたものとしての務めを果たしていくことができる。キリストが教会において私たちの共通の基盤であることを忘れてはならない。

 6-11節はキリスト讃歌と呼ばれている。前半の6-8節では、主語はキリストで、キリストは本質的に神であったが、強制や運命でなく、まったくの自由な意志によって、神と等しくあることに固執せず、人間になられたということが、繰り返し強調されている。このようにキリストは人間になられたが、聖人君子とか、特別な人間として生きたというのではなく、むしろ「僕の身分」になられたのである。「神の身分」から「僕の身分」への下降である。僕そのものとなられたのである。それは「十字架の死」において極まったのである。神に呪われた罪人としての悲惨な死を遂げるまでに、神に従われたのである(マルコ14:36参照)。
 
 ところが9-11節では、主語は神で「キリストを高く上げ、……」とあり、8節「へりくだって」と鋭い対照をなしている。自分を低くしたキリストを、神は最も高いものとされた。そして「あらゆる名にまさる名」を与えられ、十字架のキリストこそが、世界と宇宙、万物の主であることを示された。
 
 このような神の行為に対する万物の反応は、礼拝と賛美のほかない。主イエス・キリストの告白と神の栄光の賛美こそが、人間と万物と歴史が存在する意味なのである。それはなおこの世には隠されているが、やがて完全に明らかになる時が来る。
 
 私たちの人生は、辻褄の合わないこと、納得のいかないことばかり。しかし絶望することはない。なぜなら私たちが見ている現実は、人生模様の裏側だからである。真実は隠されていて、今はおぼろげにしか見えない。しかし、神はキリストの十字架と復活において、辻褄を合せてくださる。万物によって神の栄光が賛美され、美しい人生模様の表側が明らかになる時が来る。この世にある私たちの礼拝は、そのような栄光の時への、希望の前祝いなのである。

教会形成と伝道          

2013-06-06 14:31:47 | 牧師室だより

牧師室だより 2013年6月2日 教会形成と伝道

 「教会形成と伝道」は神よりキリスト者に与えられた使命(ミッション)です。その「伝道」をめぐる定義の一つにこうあります。「伝道とは、教会がキリストの福音を持って人々に接触し、その福音によって人々が悔い改めキリストを救い主として受け入れるように導くわざである」。

 伝道の主体は「教会」です。そして、その教会の働きの最も重要なものは伝道です。教えない学校、治療しない病院などありえないように、伝道しない教会はありえないのです。

 教会はそのようにして伝道のために存在している、と同時に伝道は何のためになされるかと言えば、教会を形成するためにこそ、とも言えるのです。教会なくして伝道なし、伝道なくして教会なしであって、この二つは表裏一体です。

 私たちは教会形成のために、宣教ビジョン(幻)、それに基づくミッション・ステートメント(使命の言葉による明確化)の共有、信仰告白の検討、バプテスト主義の学びなど、研修を続けています。なぜ、このような研修を続けるのか。言うまでもない、伝道するためです。

 み言葉の種を播く業としての伝道は、ただやみくもになされ、種を播きっ放しということはないはずです。祈りつつ水をやり(奉仕)、手入れし(牧会)、成長させてくださる神に期待し、収穫を待つのです。そして収穫された実は神の宮に納められるのです。つまりキリストの体なる教会につなげられてこそ結実を見るのです。

 主の愛による共同体の形成こそ私たちの願いです。また、「100人礼拝の実現」は平塚教会に与えられた恵み、使命に対する応答の「めやす」です。そのために一人ひとりの魂を導く救霊の業が、教会の中でこそ完成し、救われた者がまた救うために用いられていく、こうした循環こそが大切です。常に水は流れていなければなりません。

 教会は伝道するために立てられ、伝道は教会形成のためになされるのです。個が生かされることによって全体も生きてくる。この不即不離の大原則にあって伝道をとらえ、実践していきましょう。