平塚にあるキリスト教会 平塚バプテスト教会 

神奈川県平塚市にあるプロテスタントのキリスト教会です。牧師によるキリスト教や湘南地域情報、世相のつれづれ日記です。

聖書② 旧約聖書ってナ~ニ?

2010-02-28 17:24:22 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年2月28日 聖書② 旧約聖書ってナ~ニ?

 今週は旧約聖書についてです。旧約聖書、新約聖書の「約」とは、契約、約束の「約」のことです。では誰と誰との間の契約でしょうか?それは神と人間との間の契約です。古い契約、新しい契約とは、端的に言うと、旧約は神がユダヤ人を通して救いの約束を与え示したということ。新約は主イエス・キリストによって、すべての人々が直接救われるという約束を与え示したことです。

 旧約聖書の内容は何でしょうか。39巻の内訳は、モーセ五書といわれる津法(創世記から申命記5巻)、歴史書(ヨシュア記からエステル記12巻)、文学書(ヨブ記から雅歌5巻)、預言書(イザヤ書からマラキ書17巻)です。

 中心となる教え、真理は何でしょうか?①創造者なる神への信仰、②原罪の教え、③歴史を導く神への信仰。みんな重い、真理です。誰たちがそれらを伝えていったのでしょうか?三種類の指導者がいました。①預言者。神の言を預かり、上から警告を発し導く者。②知者、学者。隣に座り横から教え諭す者。③祭司。神への執り成しをなすべく下から民の重荷を担い支える者。

 旧約聖書はヘブル語で書かれています。その「へブル」という意味は流れ者、川向こうから来た者といった意味で一種の差別用語だったようです。確かにユダヤ民族の始祖といわれるアブラハムはメソポタミヤからパレスチナへ寄留した流れ者でした。そんな差別的呼称を自らの誇りへ変えていったのです。神にあって差別も偏見も破壊する力強い信仰が彼らに与えられたからです。ですから、旧約聖書はその神への讃美と神への信仰告白と神のみ業がユダヤ民族を通して歴史を貫いてあることが書かれているとも言えるでしょう。

 ぜひ、旧約聖書を下の聖書日課に従って読むことをお勧めます。壮大なドラマが現れます。

春の先取り

2010-02-27 07:01:48 | 
春の先取り・河津桜。湘南の地では、「早春賦」が歌う時節は過ぎました。
春一番も吹き、春はもう間もなくです。教会の花壇のチューリップも芽を出しました。

早春賦
吉丸一昌
一、
  春は名のみの 風の寒さや。
  谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず。
  時にあらずと 声も立てず。
二、
  氷解(と)け去り 葦(あし)は角(つの)ぐむ。
  さては時ぞと 思うあやにく
  今日もきのうも 雪の空 。
  今日もきのうも 雪の空 。
三、
  春と聞かねば 知らでありしを。
  聞けば急(せ)かるる 胸の思(おも)いを
  いかにせよとの この頃か。
  いかにせよとの この頃か。

恵みの重荷

2010-02-24 07:08:53 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年2月21日   杉野省治牧師

「恵みの重荷」 マタイによる福音書21章1-11節

 主イエスは大勢の群衆の注目を浴びながら都エルサレムに入られようとしている。そのような時は誰であっても、この<晴れがましい>場面での服装をどうするかを考えると思う。しかし、主イエスは、晴れ着を用意されなかった。ただゼカリヤ書9章9節に預言されている通りに、ご自身で準備されたロバに乗っておられた。これは柔和を示すしるし。柔和とは、ただニコニコしてやさしいだけではない。柔和とは他者を生かす力である。ルターは「そこには罪はまったくなく、義の装いがある」という。他者を生かす神の義である。戦いに勝利した王が凱旋するときは軍馬に乗る。馬は戦いのしるし。一方、ロバは柔和。ロバに乗っている主イエスはそれにふさわしい柔和な方であることを示している。他者を生かす方であることを示している。

 主イエスのエルサレム入城は、戦いに勝利して帰ってきた時のパレードではない。まるで反対の十字架の死に向かってのエルサレム入城である。しかし、大勢の群衆が期待するメシアは、日常を襲う生活の苦しさ、病や災いを幸福と健康に変えてくださるお方であった。そのようなメシアは力を持ち、人々を圧倒するような姿を持っていてよいはずである。でもここには、メシアは意気揚々と凱旋するかのような王として入城されない。それにふさわしい馬に乗っていないし、服装もしていない。

 主イエスは、受難と死によって人の罪に勝利される王であることをとぼとぼと歩くロバに乗るという行為に表わされた。人々が常識で期待する勝利の王の姿とはまったく対極に位置するものであった。主は低く低くいますお方であることによって人間の最も根っこにある罪に勝利する王であることを示された。もし私たちが、背中に負う罪の重荷にあえぐロバのようであるなら、そのロバに乗っておられるのは実はその重荷に勝利されるキリストご自身に他ならないのであって、恵みの重荷であることを思うべきである。

 すでに主イエスご自身も「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)と言われている。私たちは、うっかりすると救い主のところへ行けば、辛いことや悲しいことはすっかりなくなってしまうと単純に受け止めがちである。しかし、救い主イエスは、信仰さえあれば、幸福と健康を手にすることができると単純に考えておいでにならない。救い主イエスは言われる。あなたのくびきは、実は私のくびきなのだと言われる。背中のくびきが主イエスのくびきと成り変っているので、背負い得る者となっているのである。そこになおもって生きる勇気の源泉を発見するのである。ルターは、キリストを信じるとき、「喜ばしい交換が起こる」と言った。キリストのものが私のものとなり、私のものをキリストが引き受けてくださる、そこにこそ信仰による慰めがあるというのである。その結果、私たちは疲労こんぱいの最中にあろうと、重荷で押しつぶされそうになっていようと、なおしたたかに生きている自分の姿を見るのである。

 喜ばしい交換が起こるので、自分の背中に負っている罪の重荷にあえぐロバである私たちの罪の重荷はキリストに変わっている。恵みの重荷となっている。だから、私たちがどんなときにあっても、喜べない時にも、感謝できない時にも、そのことを喜び、感謝できる希望の人生を生きることができる。これが十字架のあがないである。十字架の救いである。そのことに気づき、主イエスを心の中に受け入れよう。主に信頼し、主にゆだねて歩もう。

充実したレントを過ごそう

2010-02-22 09:41:34 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年2月21日 充実したレントを過ごそう

 先週の水曜日(2月17日)は「灰の水曜日」(中世のカトリック教会で、この日に主の受難を覚えて、頭に灰をかぶったことから)と呼ばれ、この日から主の十字架の苦しみを覚える受難節に入ります。

 受難節はレント(四旬節)とも呼ばれ、イースター前の6回の日曜日を除いた40日間です。40日間とは、主イエスが荒野で40日間断食されたことに基づきます。この期間は悔い改めのための特別な期間で、一日一度の食事しか取らず、肉や酒の飲食を禁じた時代もあったそうです。日曜を除くのは、日曜が主の復活の喜びの日であって、断食すべき日ではないからです。

 レントとは、神の御声を聴く時でもあります。それには、詩篇46:11「力を捨てよ、知れ!わたしは神」(新共同訳)「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳)との姿勢が大切です。「あなたが神であることは知っている。今更、静かにしなくても」と思うかもしれません。しかし、目まぐるしく変動する現代社会において、何者かに追われるように忙しくしている私たち。私たちは神の前に静まることなく、自分の思いで、いたずらに動き回り、心騒がせてはいないでしょうか。

 忙しい時、人は心を失い、静かに聴く忍耐力がなくなります。すぐに人を非難し、裁きたくなります。忙しいと神の言葉の中に、神の恵みを汲み取れなくなります。信仰から遠くなり、神の臨在に気が付かない危険な状態に陥ってしまいます。

 レントは、霊的危機の忙しい生活パターンから、自己を解放する時であります。自らの力を捨て、静かに神と親しく交わることによって、神から新たな力を頂きましょう。時間を献げて祈祷会に努めて出席しましょう。充実したレントの期間となるように、悔い改めと感謝の祈りを献げましょう。

皆に仕える者

2010-02-17 17:46:14 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年2月14日   杉野省治牧師

「皆に仕える者」 マルコによる福音書10章32-45節

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、主イエスに、やがて力あるメシアとして王座につくときは、一人を王に次ぐ第二位の地位に、もう一人を第三位の地位につけてくださいと願った。それに対して、主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と言われた。「杯」は旧約において苦しみの運命を表す(詩篇11:6、16:5など)。「洗礼」も、本来「(水の中に)沈める」を意味し、苦難の運命を表す(ルカ12:50参照)。しかし、弟子たちは、主イエスの栄光が苦難と分離できず、栄光は苦難を通し、また苦難の中でのみ現われることを理解できなかった。

 だから、彼らが「できます」と答えると、主イエスは続けて「確かにあなたがたはわたしのために苦難を味わうことになるだろう。しかし、だからといって、そのことが功績として認められて私の右と左に座れるということではないのだ」と言われた。このやりとりを聞いていた他の10人の弟子たちは、「あの二人は自分たちだけ抜け駆けしようとしてけしからん。自分だって、イエスさまの弟子として負けず劣らずがんばってきたんだ。右と左に座る資格は自分にだって十分あるはずだ」と内心思って、憤慨した。弟子たちは、完全にこの世の価値観に立って議論をしている。すべてが人との力関係の比較によって優劣がつけられる世界では、人よりも上、人よりも先に行かなければ負けということになってしまう。だから、人は他の人を蹴落としてでも優位に立とうとする。そして、強い者が力をふるう。弟子たちは皆、負けたくない。
 
 そして、このような価値観は知らないうちに私たちキリスト者の中にも忍び込んでくる可能性がある。教会内での奉仕や献金を熱心にするからといって、神の前で大きくされるわけではない。奉仕や献金はあくまでも、神の愛に対する感謝と献身の応答である。それなのに、もし私たちが自分の業を誇るとしたら、もはや感謝と献身の応答ではなくなり、神との愛の関係が壊れてしまうだろう。

 主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「この世では、力のある者が権力を持って人々を支配しているが、神の国では価値が逆転する。すなわち、仕えられることが偉いのではなく、仕える生き方こそが尊いのだ」と。主イエスの共同体、神の国でのあり方が、支配する、支配されるという関係ではなく、またみんな同じで仲良しの関係だよ、と言っているわけでもなく、それをさらに超えたものとして提示されている。それは主体的な応答を促すもので、「仕える者」「奴隷」の立場に徹して、意志的に「仕えきる」ことが求められているのである。

 人の上に立って、人を支配したいという誘惑に勝つために忘れてならないのが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」という45節の言葉である。主イエスは仕えることの極みとして、十字架で文字通り命を捧げて下さった。十字架の意味がそこにある。だから、自分が主イエスの十字架によって仕えていただいたということを本当に知った者が、高慢や打算から自由にされ、喜びと感謝と献身の思いをもって、他の人に仕えることができるのである。

ペシャワール会

2010-02-16 17:38:34 | 牧師室だより

牧師室だより 2010年2月14日 ペシャワール会

 ペシャワール会と言えば、2008年8月、同会スタッフの伊藤和也さん=当時(31)=がテロ組織に拉致、殺害された悲しい事件を思い出す。ペシャワール会はパキスタンやアフガンで医療支援や農業支援をする中村哲医師(63歳)を代表とする活動を支援するボランティア団体(NGO)である。

 中村哲医師は西南学院高校の卒業生で、福岡市の香住ヶ丘バプテスト教会の教会員です。ちなみに中村医師は『麦と兵隊』『花と竜』などの小説で有名な作家火野葦平の甥である。

 1984年から単身でパキスタンの北西部のペシャワルで医療支援を始めた。その後、干ばつによる水不足に対し、住民たちと井戸掘りを始める。さらに水路建設を始め、ついに6年5ヶ月かけて、24㌔に及ぶ農業用水路が昨年8月に開通。2月8日にジャララバード(アフガン東部)で完工式が開かれた。今、朝日新聞夕刊に「アフガンと生きる」のルポが連載されている(切抜きを掲示板に掲示)。

 この水路は干ばつで荒れた農地を復活させ、元々生産されていた小麦だけでなく、ジャガイモやスイカなども収穫できるようになった。計画では農地1万4千㌶を潤し、60万人の食料をまかなうという。

 数年前の会報での中村医師の報告が忘れられない。以下『ペシャワール会報№84』より一部引用して紹介する。

 「対テロ戦争」とは、実体のない亡霊との戦いである。こんなものに先人たちの死を無駄にし、私たちの子どもたちを供えてはならない。平和は軍事力で達成できないことを私たちは見てきた。砂漠からよみがえった緑の大地に立つとき、文字通り地についた平和な感情に支配される。そして、この実感は座して得られたものではなく、命の尊さを共有しようとする努力の結実であることを知る。日本から遠いアフガニスタンの農村地帯にあって、本当の平和が実感できる幸せを感謝したい。敵は吾々の内にある。

 引用は以上である。中村医師の活動を支える何万という無名の人々が現地にも日本にもいる。共に生きる愛の事業である。

信仰のない私をお助けください

2010-02-10 18:00:55 | 説教要旨

(先週の説教要旨) 2010年2月7日   杉野省治牧師

「信仰のない私をお助けください」 マルコによる福音書9章14-29節

 14節からは、汚れた霊に取りつかれた子どもを癒す主イエスのわざが書かれている。群衆はイエスの弟子たちに悪霊を追い出してくれるようにお願いをした。しかし、弟子たちや律法学者は子どもの病気の原因を「論じ合う」だけで、力がなくて何もすることができなかった。一方、「お弟子たちに…願いましたが、できませんでした」(18節)と、主イエスに訴える群衆にしても、その弟子たちがどのようにして子どもを癒すかを見物しているだけで、癒せないとなると弟子たちを批判するだけであった。そのような律法学者や弟子たち、群衆に対して、主イエスは「なんと信仰のない時代なのか」と言って、非常になげかわしく思われた。

 新約という言葉、すなわち新しい約束、契約とは、双方が誠実にこれを履行することによって成り立つ。神は真実な方であり、それに対して私たちが誠実に応えていかなければ、契約は成立しない。そういう意味で、私たちが神に対して誠実に生きることが信仰生活である。誠実とは、完全に生きることではない。むしろ、自分は神なしでは、あるいは十字架のあがないなしには生きていけないことを知り、神に信頼し、憐みを求めていくことである。
そのことの実例が次の20節から書かれている。22節から24節で「わたしどもを憐れんでお助けください」「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」「信じます。信仰のないわたしをお助けください」とあるが、父親は子どもの病気を治してほしいと願っていたが、その前に、自分の不信仰が直されねばならなかったのである。問題の根源は人にあるのではなくて、自分にあることに気づいたのである。まずこの不信仰な私を助けて、信仰を持って生きていくことができるようにしてください、ということが、神に対して誠実に生きるということである。誠実に苦難の現場に向き合い、そこに身をおいて、主イエスの御業に信頼すべきなのである。

 主イエスは悪霊を追い出すことを弟子たちの訓練の一つにしておられた。議論というものは、人間が考えたり、本を読んだり、研究すればできる。しかし、霊の問題は、神から、主イエスから受けなければ解決する力を持つことはできない。聖霊を受けなくても議論はできる。キリスト教信者になることもできるだろう。しかし、人の中に巣くっている悪霊、それは人間の力や知恵の及ばないものである。霊の問題は霊によって解決されねばならない。それを追い出す力は、神から受けなければならない。聖霊を受けなければできない。

 主イエスは「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われたが、「祈りによらなければ」というのは神から受けることなしにはということである。霊の世界は、肉の世界によってはどうすることもできない。しかし、私たちには、祈るということ、祈ることのできる恵みをさえ、神によって与えられている。だから、その祈りをもっともっと熱くし、祈りを重ねていきたい。