【9月6日付の続きです。写真は本文と関係ありません】
「こうして、眼鏡を外して(机に伏して)描くことが多くなり........加齢には勝てません」
と宮崎駿監督(72)は引退会見で言っていたが、
すでに僕は眼鏡を外して、目を凝らしてゲラ読みですよ(←引退だよっ)
──ということは、さておき。
つい最近まで、新聞は鉛活字と活版でつくっていたのだよ──後世に書き遺しておこうかな、の第20回番外編。
▼ 共同通信チャイムがとても怖かった数カ月があった────
前回書いた「共同通信ピーポ」(速報)が、とても怖かった時期があった。
「ピーポ~ピーポ~、共同通信から編集参考です........」
とスピーカーが鳴るたび、新聞社の編集局全員の胃が病んだ「数カ月」(→あとで聞いたら、そうでもなかったよ、と言う人もいたけど)。
昭和63(1988)年9月19日、昭和天皇が吹上御所で吐血され、重体となった以降の数カ月、出社するのがキツかったぁ、ほんと。
「ピンッポーン!」
「共同通信から編集番外です! 20時25分、藤森宮内庁長官(当時)が急ぎ皇居に向かいました。なんらかの異変があったもようです。
繰り返します、藤森宮内庁長官が急ぎ........」
早版編集中だった編集局内がピタッと静まった。モニターを吐き出すプリンターしか動いていなかった。
当時、1面担当だった僕は隣のメーンデスクと見合わせ唸った。
(ヤバイ。来るよ来るよ来るよ........Xデー。今夜かもよ)
▼ 休みを取れなかった1988年後半────
同年9月以降「共同ピーポ」は連日、重体・吐血・下血・異変・皇居・藤森宮内庁長官・官邸・竹下首相(当時).......ばかりだった。
チャイムが鳴るたび、ヒエッと狼狽えた僕。
いつの間にか囁かれだした「Xデー」に備えるため、整理部も通常紙面をつくる表チーム、特別紙面をつくる裏チームの2態勢になり、休み返上&連日サービス出社になった(←でも、給料に特別手当はついていたから、サービスではないですね)。
共同ピーポも、いつもの女性アナウンスだけでなく、
暗ーい中年男性のアナウンスもたまにあったから、共同通信も大変だったろう、と思う。(番外編続く)
(・ω・)ノ