ロード・マーシャル時事報告場

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抑止力からみるトランプ氏の主張の合理性

2016-03-05 08:10:50 | Weblog
ドナルド・トランプ氏が日米安全保障について、「アメリカにとって不公平だ」と主張していることは以前述べた。

「これだけ払ってまだ足りないというか」

という主張もあろうが、ここはひとつ、戦争の「抑止力」という観点からトランプ氏の主張の合理性を説いていきたい。

日本が平和でいられるのは、アメリカの抑止力の恩恵によるところがやはり大きい。

現代において戦争抑止の究極は、やはり核兵器による報復性である。

では、その報復性を維持するためには何が必要になるかというと、兵器の「残存性」である。

ただ「弾道ミサイルと核兵器を作りました」では、敵の核兵器による先制攻撃によってミサイルごと吹き飛ばされる可能性が大であり、報復性は失われ、敵は安心して先制核攻撃ができる。
核ミサイルの命中制度が50%の確率で数十メートル程度の誤差しかないこともある現在では、いかに頑丈に作ろうとも、地上発射型のミサイル施設は非常に脆弱であるといえる。

したがって、移動式のミサイル発射装置が必要であり、より残像性を高めるならば、究極のステルス兵器・かつ長時間(100日程度)潜航したまま任務を行う事が可能な原子力潜水艦が最適である。
すなわち、広大な海の中を、ほぼ無限の航続距離を誇りどこにいるか判らない上に、潜航し続けるという特性を持つ原子力潜水艦こそ最適なのである。
なお、通常動力型潜水艦では空気の入れ替え時海面に近づく必要があり潜水艦の特性の一つのステルス性を減じてしまうので、適切とは言い難い。

日本の原潜保有論も根本はそこにあり、まかり間違っても「攻撃型原子力潜水艦を導入しよう」という主張は、また別の話である。

また、搭載する核弾頭についても考慮しなければならない。
1発だけだと、出し惜しみが発生するし、「その程度の犠牲」を覚悟されれば抑止とはならない。

戦略原潜という「限られた搭載量」を鑑みるに、ミサイルは多弾頭型(一つのミサイルで最大10発程度の核弾頭を搭載する)が望ましく、ミサイル数も十数発程度、すなわち数十から数百の目標を即応的に狙えるレベルで初めて、「抑止力」は成立する。

もちろん、1隻の戦略原潜を調達すればそれで済むという話ではない。
恒久的に抑止力を維持するためには、撃沈のリスクのほかに、任務中、練習中、オーバーホール、移動中等、4隻程度は欲しい。

アメリカの戦略原潜オハイオ級が1隻2000億円超であるので、単純計算で1兆円に迫る規模である。
もちろん、そのような国家機密の塊をいかに同盟国と言えど各国が輸出する公算は低いので、まずは信頼性が高く、かつ小型の原子力機関を搭載した原子力潜水艦を一から設計しなければならないという技術的課題もある。

オハイオ級は設計時すでにそれ以前の戦略原潜技術の蓄積があったので、コンセプトを大きく異なるようにしたとはいえ一からの開発とではコストは雲泥の差である。

搭載するミサイルも問題である。
移動する潜水艦から発射されるため、航法装置の開発は不可欠である。
また、潜水艦から弾道弾を発射させること自体難しいが、さらにミサイル発射時に潜水艦が浮上してしまうようでは、潜水艦の持つステルス性の意味を失うので、水中発射型弾道ミサイルである必要がある。

日本にもロケット技術はあれど、このようの状況の開発は全く行っておらず、こちらも一から開発しなければならない。

ちなみに、すでに技術の蓄積があった段階でアメリカの現在の潜水艦発射型弾道ミサイル「トライデント」の開発費はおよそ4兆円なので、それを一から開発し、原潜4隻分、すなわち数十発をそろえるとなると天文学的予算と技術開発が必要となってくる。

さらにそれらをクリアしてやっと戦略原潜を配備しても、なお不完全である。

これらの戦略原潜が安全に活動できる、航空優性・制海権を恒常的に確保し続ける海域「聖域」を作り出す必要があり、それを実行するための各種艦艇、航空機の整備、恒常的に維持するための兵站システムの整備も必須である。

ちなみに冷戦たけなわの頃アメリカで開発された攻撃型原子力潜水艦「シーウルフ級」は、仮想敵国(ソ連)の「聖域」への積極的攻撃も視野に開発されたものである。
冷戦終結によりわずか3隻しか建造されなかった本級であるが、そのコンセプトを見ると、現在では「聖域のさらにもう一つ先の段階」の整備も必要になってくるだろう。

そんなわけで「抑止力」を自前で調達するのは大変なことなので、それならばそれをすでに保有している同盟国におんぶに抱っこで乗っかれば手っ取り早いし安上がりである。
それこそが戦後の日本であり、ここにトランプ氏の不満を見て取ることができる。

湾岸戦争時1兆円程度支払って「たかが1兆」と言われても、アメリカが開発・運用している抑止力の恩恵を受け続けることを鑑みると、安すぎるという見方も出来るかもしれない。


となると、戦争反対派が主張している「おとなしく降伏してさっさと“平和的状態”を確保しよう」という選択についても検証してみたい。

これは相手が「講和に応じ」、かつ「略奪などの行為をしない」という紳士的状態であることが大前提である。

後者の方は歴史が示す通り望むべくもないが、では前者はどうだろうかというと、こちらも残念ながら芳しくない。

降伏しようにもそもそも相手が「応じてくれない」場合が多々あるのである。

一例を挙げれば、冬戦争においてフィンランドと戦争をしたソ連は、自国内に「フィンランド民主共和国」を勝手に設立した挙句、この傀儡国家以外「フィンランドとのいかなる外交交渉もしない」とした。
中国と日本でいえば、北京に「日本人民共和国」が発足されて、中華人民共和国は一切の外交交渉を日本本土にある政府ではなく「日本人民共和国」としかやらない、というようなものである。

いやこれは第二次大戦中の「昔の話」という反論もあるかもしれないが、そういう輩には是非「プラハの春」や「制限主権論」等の意見を聞いてみたいものである。

そういうわけでやはり国際社会における主権の維持は不可欠であり、それを維持するためには誰かに乗っかっててもいいから「抑止力」が非常に必要となる。
それらを含めた日米安全保障にトランプ氏が言及しているということは、まさしく「国際社会レベルで日本民主党大躍進」ものの脅威というわけである。


追記
Twitterで話題となった、アニメを好きになれなくなった自分語りについて

Twitterでこんなものが話題となっている。
http://spotlight-media.jp/article/253900809171896979

人それぞれと予防線を張ったうえで、当ブログとしていえることは、この作者は「作品」が好きなのではなく、「作品への評価」が好きだったのではないかと推測する。

作者の友人(彼女には彼女なりのしっかりした価値観がある)の意見関係なく、「好きなものは好き」と周囲に流されず主張できてこ本当のファンではなかろうか。

もちろん、好き嫌いの理由は主観で良いし、友人のように「評論的」でもかまわない。本質はそこではなく、周囲に流されず純粋に好きといえるかどうか、であろう。

当ブログも微妙好きを自称してはいるが、やはり好き嫌いというレベルでは主観は入ってしかるべき、というか入らざるを得ないものが好き嫌いである。

そういったわけで、友人の一人が「ヒトラー ~最期の12日間~」を「つまらない」と評し、「立候補」を「感涙した」と言っても、
私はそれに関係なく「ヒトラー ~最期の12日間~」に意義があると思うし、「立候補」を「ありふれたもの」と言っていいのである。

類似の理由で「太陽」から「コンタクト」等といった当ブログ定番映画はやっぱり好きであるし、「ハリー・ポッター」は嫌いである。

もちろん、自分の「好き嫌い」の概念が他者評価依存でも別にかまわない。

ただ、問題はそれによって好きだったものを嫌いになったときに、それについて当り散らす姿勢である。

したがって何らかのアニメが好きだったという上記マンガを描いた作者には、スター・ウォーズのドゥーク―伯爵のセリフ、

「まだその程度ということよ」

を送りたい。


なお、好き嫌いの概念はともすれば中二病・黒歴史へと行き着く。

よくSFやファンタジーの超大作と言われている「スター・ウォーズ」だったり「指輪物語」だったり「クトゥルフ神話」であるが、案外“こだわりすぎた”黒歴史の「俺物語」なのかもしれない。

もちろん「才能」もあっただろうが、その黒歴史をきちんと整合性を取れて文章力高く表現できれば「超大作」になるのかもしれない。

そういうわけで諸君らが封印している黒歴史だったり俺物語も、個々人に宿っている超大作かもしれぬ。

なお、当ブログも黒歴史と自称しながら、極めて主観的かつ調査能力に欠けた記事を、消し去ろうとせず、むしろだらだらと書き続けているので、当ブログの黒歴史の認識も段階も「その程度」なのである。
コメント
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