雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

Radioactive Monitor in October 2015

2015-10-06 08:40:09 | 震災
27日: 事故発覚後数週間と比べたらどうかわからりませんが、それ以外の時期と比較すると、ひどい汚染があると言わざるを得ません。歯は痛いし、舌はしびれるし、まじめに気を付けて下さい(17:23)

5日: もう24日かと思ったら、日付が変わって25日になっていた。今かなり強い。しかし4日前は、歯がもげそうだった。ここのところかなり自由に飛んでいやがる(0:05)。

6日; 昨夜から信じられないほどの「強」で、現在もその名残がある。もちろん数日前の雨天のときもそうだった。雨が降ると、水があふれてもれるのだろうか。原子力発電所の放射線漏れの影響は、みなののど元をすぎた、今ぐらいから現れるだろう。経済、安全保障、子供のこと、確かにいろいろ考えなければならない問題はあるけど、それらと同様私たちが今していることの報いはもたらされることになるだろう(8:44)。

時代遅れ4

2015-09-13 21:48:17 | 歴史
今夏は、喫緊というわけではなかったが、いろいろなものを買い換えた。

いずれも娘が生まれる前に買った商品が寿命を迎えつつあったのだ。

電気屋に行ってみると、自分たちがいかに時代に取り残されていたか痛感した。

まずプリンター。コピー機がついてるだけでびっくりした。

近所のことや子供たちの配布物はコピーして家族のそれぞれが持っていた方が便利だ。

以前のものは、子供が出来たらいろいろな場所にすぐ移動できる方がいいと小型のものを買ったため、本当に最低限の機能しかついてなかった。

しかもプリンターにメールアドレスを持たせて、どこからでも送れば印刷してくれるし、印刷サイズもプリンター任せにすれば、適宜見やすい大きさにしてくれる。

それから体重計。

ずっとただ体重を測るものを使ってきたが、まさかこんなに多機能になってるとは知らなかった。



BMI、筋肉の付き方、体脂肪率、代謝、年齢が一瞬にして出る。

妻が、「私いくつにみえる?」という問いに、「測れば?」で済むわけである。

しかもちょっと運動するだけで、数値に反映されるからトレーニングもし甲斐がある。

以前も書いたが、娘の運動会で頑張りすぎて腕が上がらなくなり、それ以来2年はトレーニングらしいトレーニングはしていなかった。

運動不足がたたり、長距離歩くだけで、睡眠中に足がつるようになっても、何もしなかった。

ただ仕事に追われ、忙殺される日々を送っていた。

しかし妻も僕もやればやるだけ数値に出るのが楽しくて、身体を動かした。

二人ともやっと20代の身体を取り戻しつつある。

更に文房具。

もともとPCですべての仕事をすませ、仕方なく手書きにする場合(ほとんどがサインだが)は万年筆にしていた。

しかし何かの折手書きでA42枚分の文章を書かされ、手が動かないことに愕然とし、また漢字が書けないことに驚き、一年ちょい前から日記を書き始めた。

日記自体何年振りかと思ったが、日記にしか吐露できない出来事や気持ちを見出して、1日に数枚書くようになった。

更に娘の書写の手引きをするようになった。

昨今字は小学校に上がる前にできるのが当たり前で、入試問題もひらがな、かたかな、数字は書けるのが前提で出てくる。

しかし実際の子供たちの手や腕は、字を書くのに十分な筋力がついていないため、踏ん張りがきかない字を書くようになる。

特にひらがなは、傾いて今にも倒れそうななのに肩肘ついてよろめきをとめるみたいな字が多いから、こらえどころがたくさんあるが、それが無視される。

よくないと思った僕は、なんとかしようと思っ立ったが、字を書きなれていない以前に字が癖字で、これをそのまま教えることがはばかられた。

で、書写の練習から始めた。

子供に参考書や練習帳を買い与えればいいと仰るかもしれないが、ただの楷書でも先生や書き手によってかなり違う。

美意識で許せないものもあれば、時間が経って美しいと思えるひともいた。

そこで7名セレクトして、字ごとに自分なりの決定型を採用し、パステル系の薄い色で手本を書き、なぞらせるようにした。

自慢じゃないが、一見その辺の教則本とみまがうものが書けるようになった。

そうすると万年筆だけというわけにもいかなくなる。

はじめは失敗したときに備えてフリクション系にしたが(フリクション系の存在を知った時の驚きも大きかった)、やはり書き心地が一番だから模索していくと、キリがない。

ネットのレビューをみて買って何度か失敗し、やっぱり自分で試さなければだめだと、文房具店内の筆記用具の前でなんどためし書きをしただろう。

タッチがあまりに軽くて書きやすいのも好きじゃないし、もちろんひっかかりすぎても困るからだ。

字は、新美南吉の「泣いた赤おに」に出てくる一節がいつも思い出される。

赤おにが村人に誘いの文を立札に書くのだが、村人はその字の力の入り具合で、赤鬼がまじめにいっているとジャッジする。

そういう字が可能なペンが必要だ。

しかもカラーにバリエーションがないとつまらないし、娘の勉強をみるときも必要だから、選ぶのがとても楽しいのだ。

更にタッチや芯の太さを考えると、同じペンも種類は複数必要になる。

そんなわけで僕のカバンの中は、文房具鞄がかなりの位置を占めるようになった(昨年は大きなカバンの内ポケットに万年筆とボールペンをいれておくだけだった)。

とにかく筆記用具も日進月歩なのだ。

一本100円のボールペンでも商品ごとにいろいろな良さが追加されている。

体重計もプリンターも、今日はもう書く時間がないから書かないが、体温計もBlue-Ray Playerもジョーロも液肥も、最新のものをみるにつけ、浦島太郎にでもなった気分だった。

世の中はどんどん進んでいく。悪い意味でも進んでいくが、いい意味でも進歩する。しっかり対処しなければ、と思った。

Radiological Monitor in September 2015

2015-09-11 22:50:48 | 震災
14日:23:45頃急激に上昇(23:50)。今朝は息子が鼻血を出しました。先日郡山言ったからかな。

13日: 夜になると上がる確率は高いように思います。もう完全に毎時0.1μシーベルトは超えているでしょう。一体何をしているんでしょう(21:45)。

11日:今月は遅くなりました。もちろん今日まで何も感知しなかったわけではなく、雨天日は総じて、水位が上がるように、基準となる値が底上げされる感じです。今日妻にいわれてはっとしましたが、要は、雨で溢れるんでしょうか。ここ数日ひどいものです。そのため食料が全体に汚染された感じです。変な咳出ていませんか(22:53)。

シンドラーのリスト、じゃなかった。。。

2015-09-02 00:21:50 | 歴史
毎年のことだが、夏になると、戦争ものの映画が多くなる。今年はなぜか『シンドラーのリスト』によく出くわした。



相変わらず見るに堪えないシーンが目白押しで、なんでこんなにみたくないのかと思ったら「いじめ」に似てるからじゃないかとふと思いついた。

と同時に英元首相のBlairのコメントも思い出す。ヒトラーによるヨーロッパ危機は、誰が一番悪かったかという問いに、「隣人」と答えた。

悪は必ず存在する。それが栄えるかどうかは、周りの対応如何だというのである。

確かに「いじめ」についても同じことがいえる。

いじめ経験のある大学生に、「誰が一番悪いのか」訊いたところ、「先生」という答えで一致していた。

はじめこの回答に驚いた。悪いのはいじめるやつだと思っていたからである。

しかし子供が学校に行って、娘に弟が出来てわかったことは、彼らは「悪いことをせずにはいられないときがある」ということだった。

もちろん高校生や大学生、国がやることを仕方ないとするつもりはないが、自分も個人レベルならいつ憂さ晴らしをするかわからない。

そういうときどうやって「悪」を抑え込むのか。ブレアは「まわりのひと」で、いじめ経験者は、まわりのひとのなかで唯一の大人である「先生」を挙げたわけだ。

親も大人だが、検察官にはなっても裁判官にはなれない。我が子が関わるだけでなく、当事者である人間たちの普段を知らないため、被害者サイドの参考人にしかなれない。

当事者と普段から付き合い、状況がよくわかっているはずの先生に、きちんとした裁断を下してほしいから、してくれなかった「先生」が一番悪いことになるのだろう。「先生」は唯一の希望なのだ。

しかし先生からしたら重荷であり、買いかぶりらしい。彼らもただの人間で一職務をこなしているに過ぎない。

実際幼児といえど、心の中まで100%見抜けるわけではない。

娘も幼稚園時代先生の曲解に嫌な思いをしたらしい。

体育の跳び箱の授業で、ほかの子がやっているときは応援することになっていたが、あまり派手にやりすぎるとふざけているみたいで怒られると考えて控えめにしたら、「まじめにやっていない」といってかえって怒られて、すごく悔しかった、とこの夏に話してくれた。

先生も間違いをそれなりの頻度でおかす人間なら慎重に裁判を念頭に置かないわけにはいかなくなる。

そして目の前の敵は被害者の親になる。

先生の責任を直接追及してくるのは、いじめられる子の親だからだ。

僕も何度か子供たちがいじめられて嫌な思いをした。

先生が結果としていじめの加害者を守ろうとするからだ。

先生の常套手段のひとつめは、「お宅のお子さんが人気者なんですよ」といってくる。みんながよってたかって独占しようとすればそれなりにいざこざに巻き込まれる。これはおそらく教員のマニュアルだろう。

次に、加害者に傷つける意図がなかったことを訴える。小学校高学年にでもなれば加害者自身が周到にグレーゾーンを隠れ蓑に訴えるから、加害者自身の有罪を証明することが難しくなる。

加害者の有罪を立証できないために、加害者を守ろうとするのである。

これで二度傷つく。

更に親として悲しいのは、先生が被害者の親しかみないことだ。

子どもをみていない。

子供たちは、自分の気持ちを社会的に正当付けて表すことができない。

だから無視される。

そして大人になって言葉にできるようになって僕に語る。

「先生が見て見ぬふりをしていた」と。

私は小学校から中学まで学校に行けませんでした、と。

5年後、あるいは10年後、子供たちが言葉を得てそう語っていることを先生たちには知ってほしい。

・・・

やっぱりいじめと『シンドラーのリスト』は違うようだ。

耳鳴りの聞こえる部屋

2015-09-01 17:03:00 | 音楽
年をとったのか、歌詞をきちんと覚えようとしない。

うろおぼえで、♪耳鳴りの、聞こえる、部屋で~♪と鼻歌をうたったが、本物は違った。♪海鳴りの聞こえる丘で♪だった。

「耳鳴り」が聞こえる「部屋」じゃ、「もうろく」したか、「体調が悪い」かして自室に閉じこもっているみたいじゃないか。

この曲は、浜田省吾の the best of Shogo Hamada vol. 1の13曲目「日はまた昇る」で、妻と僕、両方ともすごく気に入っている。たぶん僕らの現在の心境に近いのだろう。



歌われているのは、♪今まで何度も厄介なことに見舞われたきたけれど今もこうしてくらしている♪という感慨。

自分を取り囲む世界が、自分がいてもいなくてもだが、どんどんすすんでいく(日は昇りしずんでいく)わけだが、各自はそれぞれ真剣に♪自分の人生と戦っている♪。

僕は、「自分の人生と戦う」という表現が気に入った。

以前から戦っている気はしていたが何と戦っているんだろうと思っていた。

他人じゃないし、自身でもない。

肉体が朽ちるまでの一定の時間をどのように処するのか、それに「人生」という名詞はぴったりくる。

ここのところ車の中でよく聞いていたので、子供たちもところどころハマショーの「ウォー」という掛け声だけハモったりするようになった。

それから最近聴きすぎて飽きて、あまり聞かなくなったが、同アルバムの最初の曲、「君と歩いた道」もよかった。

約半年前、久しぶりにハマショー聞いてみようかと購入して、最初のこの曲にはっとさせられた。

まず問いかけがある。

もし15歳からやりなおせるとしたらどういう人生を歩む?

そして答える。

現在の知識をもとによりよい選択を繰り返し、自分の夢にまっしぐらになるだろう、と。

しかし疑念をさしはさむ。

では、「妻」と会えなくなるかもしれない。歴史が代わるんだから。

それなら妻との人生を歩もう、というラブソングにまとめられているが、僕はその問いを自分に課した。

15からもう一度やりなおせるとして何をどう変えるだろう。

僕も、反省をもとに、もっと効率的で利己的な選択をするだろう、と思った。

しかし具体的にあの場面では、とやりはじめたら、考えが変わった。

たぶん変えられないだろうと思ったからだ。その時々で僕は真剣だったし、現在の知識があっても、いろいろな節目で僕が下した決断は覆らないだろう、と。

そうすると僕の人生はこれしかないことになる(パラレルワールドなんてない)。

昔サルトル原作の映画にもあったが、僕は変えられない人種の人間であることをやめられないだろう。

ということは、今の妻や子供たちとも絶対に出会う。

その歌を聞く前、漠然と、妻も子供も今は一緒にいてかけがえがないが、たまたまの出会いだと思っていた。

極端な話、通勤途中にみかけた小鳥の出会いと同じ程度のものだった。

世の中に子供はたくさんいるし、女性もたくさんいる。

「配偶者」という言葉通り、25億人女性がいるうちのひとりが偶然僕に配られたとも考えられる。

しかし運命のひとなのだと思えるようになった。

ハマショー有難う、オレ頑張る。

ハマショーのベストはあとふたつあります。