第20回 「葛飾総ブロック長」 日本一の幸せあふれるわが地域に2022年8月25日
- 〈君も立て――若き日の挑戦に学ぶ〉
![イラスト・間瀬健治](https://shimen.seikyoonline.com/image/S01/20220825/AF937D88B10B38F7082FE012DF29B457/4F0CFF855951941B09050B372E6833EEF3CFDB5CD7089692463E2B48B32BC9C2_L.jpg)
![葛飾文化会館の開館記念勤行会で、同志を激励する池田先生(1977年4月24日)](https://shimen.seikyoonline.com/image/S01/20220825/AF937D88B10B38F7082FE012DF29B457/74EFA4ADE4E8F4C97F7E4A97779C9B35F3CFDB5CD7089692463E2B48B32BC9C2_L.jpg)
「夜、葛飾ブロックの会合に出席」「体当たりで指導」(『若き日の日記』)――1957年(昭和32年)9月25日、29歳の池田先生は日記にとどめた。
この日、東京・葛飾区の亀有で、総ブロックの結成大会が開催された。葛飾の初代総ブロック長に就任した先生は、自らの誓いをこう語った。
「私が葛飾に来たのは、ただ任命を受けたからではありません。私はこの葛飾に、全国に先駆けて、模範的なブロックをつくるために来ました」
学会に、地域を基盤としたブロック制が敷かれたのは、55年(同30年)5月のことだった。新入会者が紹介者の組織に所属する「タテ線」に比べ、ブロックの連携は希薄で、毎週水曜日の「ブロックの日」は熱が入らない状況があった。ブロック組織の強化は課題となっていた。
57年8月、ブロック強化を目的とした「夏季ブロック指導」が行われた。池田先生は、荒川区の最高責任者として指揮を執り、8日から14日の間で、二百数十世帯の弘教を成し遂げた。
同月28日、本部幹部会が豊島公会堂(当時)で開催された。席上、従来のブロック制を改革し、東京23区に総ブロック制を設置することが発表される。新たな出発を開始する幹部会で、先生は「葛飾総ブロック長」の任命を受けた。
総ブロック長の先生が、葛飾で呼び掛けたのは、信仰の基本である“勤行の実践”だった。結成大会で訴えた。
「模範のブロックをつくるには、どうしたらよいか。まず、全会員が、しっかり勤行できるようにすることです」
「宿業の転換といっても、人間革命といっても、その一切の源泉は、勤行・唱題にほかなりません」
葛飾区の中には、先生が住んでいた大田区から2時間近くを要する地域もあった。青年部の室長として全国を東奔西走しながら、勇んで駆け付けた。
![池田総ブロック長が乗った自転車のレプリカ。先生は心で題目を唱えながら、葛飾中を激励に回った](https://shimen.seikyoonline.com/image/S01/20220825/AF937D88B10B38F7082FE012DF29B457/C5F97D047764850F91ED68A03A776148F3CFDB5CD7089692463E2B48B32BC9C2_L.jpg)
「自転車をかり、葛飾のブロックを回る」(『若き日の日記』、1957年10月30日)
亀有、立石、金町、細田――池田先生は、時には自転車で、また時には同志のトラックに同乗し、訪問・激励や一対一の対話を重ねていった。
先生は、「私は、皆さんにとっては、『水曜日の男』だね」と、ユーモアを込めて、葛飾の同志に語ったことがある。水曜日の「ブロックの日」を中心に、訪れることが多かったからである。
葛飾の友にとって、水曜日は恩師の心を体現した池田先生から、広布の要諦を学ぶことができる絶好の機会だった。ある時、先生は葛飾のリーダーと共に個人指導に歩き、訪問・激励の心構えについて次のように語った。
「もうこの人には二度と会えないかもしれません。ありったけの思いやりで、精いっぱい真心の指導・激励をしましょう。それが仏の使いです」
「指導とは思い切り聞いてあげることです」
先生は、“高みから教える”のではなく、“同じ目線”で同苦した。激励に当たって心肝に染めるべき御文として、「十法界明因果抄」の一節を拝した。
「もし、自分が彼より立派であるという思いに耐え、乗り越えることができなければ、人を下に軽く見て、トンビのように高い所から人を見下げる行動をとってしまう」(新464・全430、趣意)
自分が偉いと錯覚し、横柄な態度で会員に接することは、すでに仏法者ではないことを訴えたのである。
また、励ましの“スピード”を重視した。ある時、悩みを抱えているメンバーの報告を聞くと、「よし、すぐ行こう」と、自転車に飛び乗った。後日、葛飾の同志が、そのメンバーの家を訪ねると、先生からの手紙が届いていた。皆、先生のこまやかな心配りに胸を熱くした。
「思い切り聞く」「スピード」「心配り」――先生の慈愛の激励を通し、葛飾の同志は、“創価の励ましの魂”を身をもって学んだ。
さらに、葛飾の友が、先生の姿から心に刻んだのは、誠実な振る舞いの大切さである。
個人会場の近隣にある寿司屋から苦情が出たことがあった。会場に多くの同志が集い、騒がしく感じたのである。その報告を聞いた先生は、即座に店主のもとを訪ね、丁寧に事情を説明した。
1958年(昭和33年)9月26日から27日にかけて、狩野川台風が日本を襲った。この台風によって、都内では30万戸以上が浸水の被害に遭った。葛飾でも多数の浸水家屋が出た。
台風が近づいていた25日、先生は大阪事件の第8回公判に出廷。26日の帰路、台風で足止めに遭い、列車内で1泊する。27日、帰京すると、疲労の体を押して、葛飾へと向かったのである。
![1972年2月13日、池田先生は「葛飾文化祭」に出席し、友と記念のカメラに納まった(都立水元公園内で)](https://shimen.seikyoonline.com/image/S01/20220825/AF937D88B10B38F7082FE012DF29B457/F0AAC57BE3B42EF4B67AC3A0406AEADAF3CFDB5CD7089692463E2B48B32BC9C2_L.jpg)
葛飾に到着した池田先生は、長靴に履き替えると、同志と共に中川の土手に足を運んだ。豪雨で足元が緩くなった土手沿いを見回り、土のうを積む人を見掛けると、ねぎらいの言葉を掛けた。
先生には、学会員も会員でない人も、分け隔てはなかった。地域のために行動する人をたたえた。この行動こそ地域友好を開く要諦――葛飾の友は、先生の実践を模範とした。
先生が葛飾で総ブロック長として指揮を執ったのは、1957年から59年(同34年)7月の約2年である。
この間、戸田先生の生涯の願業である75万世帯の達成に向けて死力を尽くした。「3・16」の“広宣流布の記念式典”など、恩師の戦いの総仕上げの時にあって、先生が葛飾で強調したのは「師弟直結」である。
「皆さんと戸田先生との間には、なんの隔たりもありません。皆さん方一人ひとりが、その精神においては、本来、先生と直結しているんです」
池田先生の激励によって、葛飾の同志は、師匠・戸田先生に心を合わせ、自発能動の挑戦に奮い立っていった。
58年(同33年)4月2日に恩師が逝去し、先生は同年6月から、総務として学会の舵取りを担った。
激闘に次ぐ激闘の中、先生は葛飾に模範のブロック組織を築いていった。
「葛飾のブロックに出席」「『佐渡御書』を講義」(同、58年5月28日)
「夜、葛飾のブロックに出席」「『星落秋風五丈原』を歌いながら帰宅」(同、同年7月23日)
59年7月に葛飾総ブロック長の役職を離れた後も、先生は葛飾の友を見守り続けた。その深い慈愛に包まれた葛飾は、地域広布の水かさを増し、60年(同35年)12月、3総ブロックへと発展した。
先生は葛飾の青年たちに、大切な指針を残している。
一つは、「無疑曰信」(疑い無きを信と曰う)。
ある時、先生は男子部員に、「信心とは何ですか?」と質問した。「勝つことです」と答えるメンバーに、「間違いではないが」と前置きし、「信心とは無疑曰信です」と語った。
もう一つは、扇子に揮毫した「断は確信に通ず」との言葉である。
どんな困難が競い起こっても、広布の戦いをやり抜くとの決断。それこそが、自らの境涯を開き、人間革命を成し遂げる原動力である。
今月、先生の葛飾総ブロック長就任から65周年の佳節を刻む。葛飾総ブロック結成大会で、先生は「この葛飾を、皆で力を合わせ、東京一、いな、日本一の、幸せあふれる地域に」と望んだ。その呼び掛けをわが誓願として、葛飾の同志は使命の天地を駆ける。
葛飾は、先生が手作りで育んだ広布の天地――との誇りに燃えて。
![中川に架かる「平和橋」を池田先生が撮影(2002年5月5日、葛飾区内で)。この日、先生は、平和橋のほど近くに立つ葛飾平和講堂を視察。全国模範の広布前進をたたえ、和歌を贈った――「葛飾も 東京一なり 堂々と 横綱 勝利の 歴史を飾れや」。本年は、総ブロック長就任65周年とともに、同講堂訪問20周年の佳節を刻む](https://shimen.seikyoonline.com/image/S01/20220825/AF937D88B10B38F7082FE012DF29B457/2891CFFA324E88EA23866FD6583B6499F3CFDB5CD7089692463E2B48B32BC9C2_L.jpg)