〈随筆「人間革命」光あれ〉池田大作 打ち鳴らせ希望の暁鐘 2021年1月19日
年頭より日本海側を中心に大雪が続いている。雪深き地域の皆様に心からお見舞いを申し上げるとともに、尊き友の無事安穏を祈り、真剣に題目を送る日々である。
日蓮大聖人は後半生、佐渡(現・新潟県)、さらに甲斐(現・山梨県)の山で、大雪の冬を堪え忍ばれ、広宣流布と令法久住の法戦を貫かれた。
ある冬は、近隣の年配者たちに尋ねても口々に「いにしへ・これほどさむき事候はず」(御書一〇九八ページ)と驚くほどの酷寒で、「一丈二丈五尺等」(同ページ)という何メートルにも及ぶ積雪であったと記されている。
また、深い雪を物ともせず御供養を届けた門下を、「雪の中ふみ分けて御訪い候事 御志定めて法華経十羅刹も知し食し候らん」(同一三八八ページ)とも讃えておられる。
「無冠の友」をはじめ、雪にも北風にも負けず、誠実に聡明に広布と社会に尽くす同志への御照覧と、拝されてならない。
御本仏・大聖人は、人生の苦難と悲嘆にも退かない女性門下に、「法華経を信ずる人は冬のごとし」(同一二五三ページ)と仰せになられた。
法華経の信心は、いわば“冬の信心”である。
「冬は必ず春となる」(同ページ)という生命の法則を確信し、忍耐強く試練の冬に挑み抜き、断じて「福徳と歓喜の春」を勝ち開く信仰なのだ。
一九五一年(昭和二十六年)一月、恩師・戸田城聖先生の事業が絶体絶命の苦境にあった厳冬、日記に私は書き留めた。
「冬来りなば、春遠からじ。極寒の冬なれど、春近しを思えば、胸はときめく。いかなる苦難に遇っても、希望を決して捨ててはならぬ」
ただ師匠をお守りするため、阿修羅の如く戦い抜く日々であった。
苦境を打開して、この年の五月三日、遂に、戸田先生の第二代会長就任という希望輝く「師弟凱歌の春」を迎えたのである。
その翌月の十日、先生が晴れ晴れと「白ゆりの香りも高き集い」と詠まれ、結成されたのが、わが婦人部である。
「ゆり」の花は、古代ローマでも、「希望」の象徴とされていたという。
今、不安の闇に覆われた世界にあって、何よりも明るく温かい「希望の陽光」を放っているのは、本年、結成七十周年を迎える「太陽の婦人部」であると、私たちは声を大にして宣揚したい。
全国津々浦々で、自他共に幸の価値創造の喜びを広げている「ヤング白ゆり世代」の友もまた、新時代の希望の花そのものではないか。
御聖訓に「月月・日日につよ(強)り給へ」(御書一一九〇ページ)と仰せなるがゆえに、若き日の私は、とりわけ毎年一月より果敢なスタートダッシュを心してきた。
雪の北海道・夕張を初訪問したのも、一九五七年(昭和三十二年)の一月十三日であった。健気な同志たちの信教の自由が侵害された“夕張炭労事件”に立ち向かい、勝利した年である。幾重にも共戦の歴史が蘇る。
今年の冬、夕張方面は例年に倍する豪雪と伺った。ご苦労が偲ばれる。
これまでも夕張はじめ北海道の同志は、炭鉱の事故や自然災害、また経済苦、自身や家族の病気などを、どれほど勇敢に乗り越えてきたことか。
あの炭労事件の歴史を学び、人権蹂躙の悔しさとともに正義の勝ち鬨を命に刻んだ広布の母は、何があっても「大丈夫!」と、微笑みを湛えた一言で友を励ましてきた。
自らも癌と闘い続けたこの母が語る「大丈夫!」とは、何とかなるという願望でもなければ、なぐさめでもない。
「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」(同一四四八ページ)との御聖訓通り、誓願の題目を唱え抜けば、解決できないことは何もないとの揺るがぬ確信なのだ。
夕張の偉大な母たちには、使命の大地に根を張り、地下千メートルの坑道の底までも妙法を染み込ませる一念で、広宣流布と立正安国に命を尽くしてきた誇りがある。
ゆえに、愛する郷土から、福運と人材の宝が無量に湧き出てこないわけがない。絶対に大丈夫!――そう言い切れる地涌のスクラムは、今、試練の時代に挑む地域社会へ、「勇気」即「希望」を限りなく広げているのだ。
また、同年(一九五七年)一月には、「永遠の平和の都」たる広島を、初めて訪れた。
関西青年部への激励と山口開拓指導を戦い切って広島入りし、当時、岡山支部に所属していた広島地区の決起大会に出席したのだ。その日は、一月二十六日であった。
帰京後、山口闘争、また広島、岡山はじめ意気軒昂な中国の同志の様子をご報告すると、戸田先生は会心の笑みを浮かべて喜んでくださった。
先生が歴史的な「原水爆禁止宣言」を発表されたのは、それから八カ月後のことだ。
さらに、世界の平和を願い、「創価学会インタナショナル(SGI)」が発足したのは、奇しくも広島の同志との新出発から満十八年後の、一月二十六日であった。
本年、このSGIの記念日を前にして、来る二十二日には、「核兵器禁止条約」が、いよいよ発効の時を迎える。
“核兵器による悲劇を二度と繰り返させてはならない”との広島、長崎の被爆者の方々の声が、大いなる推進力となった画期的な条約である。
平和原点の天地・広島、長崎をはじめ、不戦を願う市民社会の連帯を一段と強め、「核兵器のない世界」へ人類の希望の一歩前進を誓い合いたい。
「この世で最も偉大な力」とは何か。
奇跡と謳われる戦後の広島の復興に心を砕き、尽力された“アメリカの良心”カズンズ博士は、私との対談で語られた。
「生命の再生能力です。人間は肉体、精神両面において、苦痛や試練を克服し、病を治癒する本然の能力を持っている」と。
しかし博士は、「それ以上に素晴らしいもの」があると言われた。
すなわち、「『希望』の力」である。
「希望こそ私の秘密兵器」――これが、博士の強さの源泉だったのだ。
御聖訓には「妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん事疑い無きなり」(御書七二〇ページ)と仰せである。
社会が希望を失い、苦悩の闇の中に沈んでいる時こそ、仏法の智慧は輝き光る。あきらめという無明の大病を打ち払い、万人に未来への光明を赫々と示していけるのだ。
そして、現実の病気と闘う友に、「病ある人仏になるべき」「病によりて道心は をこり候なり」(同一四八〇ページ)と、永遠の次元から究極の希望を贈り、蘇生させていくのも、日蓮仏法なのである。
私がアジア歴訪に出発したのは、六十年前の一九六一年(昭和三十六年)一月であった。
希望の大光を放つ「太陽の仏法」を、アジア、そして全世界の苦悩の民衆に伝えたい――そう願ってやまなかった恩師の「仏法西還」「東洋広布」の夢の実現を誓い、不二の弟子として、勇んで先駆けたのである。
この旅を前に、私は福岡県の小倉(現・北九州市)で行われた九州の三総支部結成大会に出席した(一月八日)。開会前から会場に響き渡っていたのは、九州で生まれた「東洋広布の歌」である。
我らの手で新たな広布の道を開かん!――あの日以来、九州の友がどれほど「先駆」の歴史を開いてくれたことか。
本年「希望・勝利の年」も、“創立百周年の主役は青年!”と、いずこにも先駆けて対話の拡大に走り抜いてくれている。
その勇気と団結の行動こそ、まさしく「世紀乱舞の人」ともいうべき地涌の躍動といってよい。
来月十六日は、大聖人が安房国(現・千葉県)に御聖誕されて八百年(数え年)の大佳節である。
相模国(現・神奈川県)で竜の口の法難を勝ち越え、発迹顕本されて満七百五十年でもある。
法難当時(文永八年<一二七一年>九月十二日)、大聖人は御年五十歳であられた。今の壮年部の世代と重なる。
大聖人は頸の座に臨まれて、「今が最期です」と嘆く弟子・四条金吾に対し、「これほどの悦びをば・わらへかし」(同九一四ページ)と雄々しく悠然と励まされた。
最も大変な時に、最大最上の境涯を開く。これが仏法の真髄である。
信心に行き詰まりは断じてない。困難を前に、あきらめて、うなだれる必要などない。堂々と笑い飛ばしていけ。創価の負けじ魂を、烈々と燃え上がらせていくのだ。大信力、大行力を奮い起こして祈り戦うのだ。この人間革命にこそ、「わが発迹顕本」もある。
人類全体の転換期の中で、創価学会は今、新たな発迹顕本の時を迎えているといってよい。
それは決して遠くにあるのではない。一人ひとりが「私が創価学会だ」「今に見よ!」と頭を上げて不撓不屈の挑戦を続けゆく中に、その実相があることを忘れまい。
戸田先生は、未来を切り開く若き地涌の力を信じておられた。
ゆえに「創価の青年のたくましさを吹き込んでこそ、世界の青年層を力強く蘇らせることができる」と断言されたのだ。
「阪神・淡路大震災」から二十六年。
そして「東日本大震災」から十年――。
創価の青年たちは、艱難の冬将軍に幾たびも打ち勝ち、いやまして、たくましく鍛錬されてきた。今、コロナ禍にあっても、この不屈の心を全世界の「従藍而青」の若人が社会に広げてくれている。
未来部の若木たちも、何と力強く、また頼もしく伸びていることか。
地球社会の人道の大城の建設へ、希望の暁鐘を打ち鳴らす「青年部幹部会」の開催も目前だ。
わが国土、わが街の青年の成長と勝利を皆で祈り、共々に青年の心で邁進しようではないか!
(随時、掲載いたします)