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小説「新・人間革命」学習のために 第24巻

2021年01月09日 | 妙法

マイ・ヒューマン・レボリューション――小説「新・人間革命」学習のために 第24巻 2021年1月9日

 小説『新・人間革命』の山本伸一の激励・指導などを紹介する「My Human Revolution(マイ・ヒューマン・レボリューション)」。今回は第24巻を掲載する。次回は「婦人部」編を21日付2面に掲載の予定。挿絵は内田健一郎。

 

子どもはだいな使命になう人

 子育ては、確かに労作業ではあるが、人間の生命を育む、最も尊貴な聖業である。そのなかに、最高の喜びがあり、生きがいもある。また、子どもを育てるなかで、親も、学び、磨かれていくのである。
 
 核家族化が進むなかでの子育てには、夫婦の協力が不可欠であることは言うまでもない。特に、共働きの場合は、妻の側にばかり過重な負担がかからないように、役割分担を明確にしていくことも必要であろう。
 
 しかし、シングルマザーであれば、一身に育児を担わなければならないケースが多い。その負担は、並大抵のものではあるまい。
 
 育児という労作業に勝ち抜く、強い心をつくるには、まず、「子どもをいかなる存在ととらえるか」、いわば、「どういう哲学をもつか」が極めて重要になる。
 
 御書には「法華経流布あるべきたね(種)をつぐ所の玉の子出で生れん目出度覚え候ぞ」(1109ページ)と仰せである。
 
 日蓮仏法では、すべての人間は、「仏」の生命を具え、偉大な使命をもって、この世に出現したととらえる。つまり、子どもは、未来を担い立つ、崇高な人格をもった、使命深き鳳雛と見る。ゆえに、仏法からは、決して、親の所有物などというとらえ方は生まれない。(中略)
 
 わが子を、「仏」の生命を具えた、使命の人と見て、立派な人材に育ってほしいと願うからこそ、ただ、甘やかすのではなく、しっかりとした“しつけ”も、していけるのだ。
 
 (「母の詩」の章、77~78ページ)

 
社会でのとうそうが真のさつどう

 <1977年(昭和52年)1月、山本伸一は、関西で開催された教学部大会に出席。席上、法華経神力品の一節「世間に行じて」について述べた>
 
 「世間とは、社会であり、社会の泥沼のなかで戦うのでなければ、衆生の苦悩の闇を晴らすことは、不可能なのであります。日蓮大聖人が、当時、日本の政治などの中心地であった鎌倉で、弘教活動を展開されたのも、『世間に行じて』との、経文通りの御振る舞いであります。ゆえに、世間へ、社会のなかへ、仏法を展開していかなければ、大聖人の実践、そして、目的観とは、逆になってしまうことを恐れるのであります。
 
 今、私は、恩師・戸田先生が、昭和二十八年(一九五三年)の年頭、わが同志に、『身には功徳の雨を被り、手には折伏の利剣を握って、師子王の勇みをなしていることと固く信ずる』と述べられたことを思い出します。
 
 私どもも、燦々たる元初の功徳の陽光を浴びながら、慈悲の利剣を固く手にし、師子王のごとく、この一年もまた、悠然と、創価桜の道を切り開いてまいりたいと思います」
 
 共感と誓いの大拍手が轟いた。伸一は、社会を離れて仏法はないことを、伝え抜いておきたかったのだ。
 
 荒れ狂う現実社会のなかで、非難、中傷の嵐にさらされ、もがき、格闘しながら、粘り強く対話を重ね、実証を示し、正法を弘めていく。そこに、末法の仏道修行があり、真の菩薩道があるのだ。
 
 原点を見失い、草創の心と実践を忘れた宗教は、形式化、形骸化し、儀式主義に陥り、官僚化、権威化する。そして、民衆を睥睨し、宗教のための宗教となる。それは、宗教の堕落であり、精神の死である。
 
 日蓮仏法を、断じてそうさせてはならない。大聖人の大精神に還れ――仏法厳護のために伸一は、大教学運動の旗を掲げ、決然と、新時代開拓の扉を開こうとしていたのである。
 
 (「厳護」の章、191~192ページ)

 
はいしていさんで行動を

 <1月、伸一は東京の江東・墨田・荒川・中央の四区合同の婦人部大ブロック担当員(現在の地区婦人部長)勤行会で、「愚痴」について語った>
 
 「せっかく頑張っても、愚痴ばかり言っていると、その福運を消してしまうし、功徳もありません。卑近な例で言えば、風邪を治そうと薬を飲みながら、薄着をして、雨に打たれて歩いているようなものです」
 
 もともと、愚痴とは、愚かで、ものの道理がわからないことであり、「無明」を意味する言葉でもある。
 
 「ついつい愚痴を言ってしまう人もいるでしょうが、愚痴の怖さは、言うたびに、胸中に暗雲を広げていくことです。心を照らす太陽が闇に覆われ、希望も、感謝も、歓喜も、次第に薄らいでいってしまう。御聖訓にも、『わざわいは口より出でて身をやぶる』(御書1492ページ)と仰せです。
 
 さらに、愚痴っぽい人というのは、自分では気づかぬうちに、全体の空気を重くし、人のやる気をも奪っていく。
 
 つまり、広宣流布への勢いを削ぎ、戦いの力がみなぎるのを止めてしまっているんです。(中略)だから、皆で、互いに戒め合っていくことが大事なんです。
 
 それに対して、勇んで行動する人は、見るからに、すがすがしいものです。人びとに触発をもたらし、やる気を引き出し、周囲の停滞した雰囲気を打ち破っていきます。
 
 大聖人が『ただ心こそ大切』(御書1192ページ)と仰せのように、大事なことは、どういう一念で信心に励んでいくかです。どうせ信心をするなら、愚痴を言いながらではなく、自ら勇んで、実践していかなければ損です。さっそうと、さわやかに、行動していこうではありませんか!」
 
 (「人間教育」の章、199~200ページ)

 

唱題・しゃくぶくこそれんこくふくちから

 <2月17日、伸一は第1回「農村・団地部勤行集会」に臨み、日蓮大聖人の仏法は「直達正観」(直ちに正観に達する)、つまり即身成仏の教えであると指導。そして、大聖人門下としての信仰の在り方を訴えた>
 
 「人生は、順調な時ばかりではない。事故に遭うこともあれば、病にかかることもある。また、仕事や人間関係の行き詰まりなど、さまざまな苦難や試練があるものです。その時こそ、“必ず信心で乗り越えてみせる!”と、心を定めて唱題するんです。そして、地涌の菩薩の使命に生き抜こうと、仏法を語り抜いていくんです。
 
 強盛に、自行化他の信心という根本姿勢を貫いていくならば、絶対に事態を打開できるという、大確信と勇気と智慧が涌現します。その智慧をもって最高の方法を見いだし、聡明に、満々たる生命力をもって挑戦していくんです。これが、『直達正観』の信仰の直道であることを知っていただきたい。
 
 それと正反対なのが、いざという時に、信心を忘れ、題目を唱えようとせず、右往左往して策に走る姿です。そこからは、所詮、小手先の浅知恵しか出てきません。それでは、問題の本当の解決もなければ、宿命の転換もありません。かえって、つまずきの要因をつくることにもなりかねない」
 
 悲しみにも、苦しみにも、喜びにも、常に題目とともに! 常に折伏とともに! その実践ある限り、道は必ず開かれる。(中略)試練の暗夜にあっても、胸には、希望の火が、勇気の火が、歓喜の火が、赤々と燃え上がる。強盛なる信心を奮い起こして題目を唱え抜くこと自体が、「直達正観」なのである。
 
 (「灯台」の章、367~368ページ)

 

母は最初の教師

 <「母は、子どもにとって最初の教師であり、生涯の教師でもある」――山本伸一の人間主義、平和主義の哲学も、その源流には、若き日の母の姿があった>
 
 空襲を受けた時のことだ。夜が明け始めた空に、一つの落下傘が見えた。高射砲で撃墜された、「B29」から脱出した米軍の兵士であろう。
 
 落下傘は、見る見る地上に近づき、伸一の頭上を通り過ぎていった。
 
 彼は、その米兵の顔を、しっかりと見た。二十歳を過ぎたばかりだろうか。十七歳の自分と、それほど年齢も違わない、若い米兵の姿に、伸一は、少なからず衝撃を覚えた。
 
 「鬼畜米英」と教えられ続けてきたが、目の当たりにしたのは、決して「鬼畜」などではなかった。色の白い、まだ、少年の面影の残る若者であった。
 
 伸一は、この米兵がどうなったか、気がかりでならず、大人たちに聞いた。
 
 ──米兵の青年は、集まって来た人びとに、棒でさんざん殴られたあと、やって来た憲兵に目隠しをされて、連行されたとのことであった。
 
 伸一は、敵兵とはいえ、胸が痛んだ。
 
 家に帰り、その話を、母に伝えた。母は、顔を曇らせ、悲しい目をして言った。
 
 「かわいそうに! 怪我をしていなければいいけど。その人のお母さんは、どんなに心配していることだろう……」
 
 母の口から、真っ先に出たのは、若い米兵の身を案ずる言葉であった。
 
 米英への憎悪を煽り立てられ、婦人たちも竹槍訓練に明け暮れていた時代である。しかし、四人の息子の生還を願い、心を痛めていた母は、米兵の母親に、自分を重ね合わせていたのであろう。
 
 わが子を愛し、慈しむ母の心には、敵も味方もない。それは、人間愛と平和の原点である。その母の心に立ち返る時、どんなに複雑な背景をもち、もつれた国家間の戦争の糸も、必ず解きほぐす手がかりが生まれよう。
 
 伸一は、母から、気づかぬうちに、人間そのものに眼を向けて、平和を考える視点を教えられていたのかもしれない。
 
 (中略)
 
 明るく、忍耐強かった母。どんな時も、笑顔を失わなかった母──。
 
 伸一は、その母が、声を押し殺し、背中を震わせて、すすり泣く後ろ姿を目にしたことがあった。一九四七年(昭和二十二年)五月、長兄・喜久夫が、ビルマ(ミャンマー)で戦死したとの公報が届いた時である。
 
 悲嘆に暮れる母の姿に、伸一は、残酷な戦争への激しい憤怒が込み上げてきた。とともに、子を思う母の愛の深さを、まざまざと感じ、兄の分まで自分が母孝行しなくてはと、固く心に誓った。
 
 (「母の詩」の章、46~49ページ)

 

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 聖教電子版の「世界広布の大道 小説『新・人間革命』に学ぶ」第24巻「解説編」の池田博正主任副会長の紙上講座と動画を閲覧できます。

 第24巻「解説編」はこちら

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