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関ヶ原の戦い

2016年10月22日 | 歴史

関ヶ原の戦いは「裏切り者を見抜く」教科書だ 「友人、部下、同僚」こんな人物は要注意!

数多くの「裏切り者」が現れた関ヶ原の戦いを知ると、裏切りを「見抜く」目が養われます(写真:akg-images/アフロ)© 東洋経済オンライン 数多くの「裏切り者」が現れた関ヶ原の戦いを知ると、裏切りを「見抜く」目が養われます(写真…  

 関ヶ原の戦いは「裏切り」によって勝負が決着したのは有名だ。

 よく知られているのは「小早川秀秋」の裏切りで、彼の決断が戦いの行方を左右したと広くいわれている。

 しかし、実際の関ヶ原の戦いで、石田三成率いる西軍を裏切ったのは小早川秀秋ひとりではなく、ほかの多くの大名も追随して裏切っている。

 彼らはなぜ「裏切った」のか? この「裏切り者」への道を選んだ彼らの動機を探っていくと、そこには現代にも通じる日本社会特有の「しがらみ」が見えてくる。

 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、
全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計15万部のベストセラーになっている。

 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、関ヶ原の戦いに見る「人が裏切る動機」を解説する。

西軍が負けたのはすべて三成のせい?

 「1600年の関ヶ原の戦いで、徳川家康率いる東軍が勝利した要因は何ですか?」

 そう質問されると、歴史ファンに限らず、多くのみなさんが「小早川秀秋の裏切り!」と即答するでしょう。

 もちろん、その答えは正解です。彼の裏切りによって、互角で推移していた戦いの形勢はいっきに東軍の優勢へと転じます。

 しかし、このとき西軍を裏切ったのは小早川秀秋だけではありません。ほかにも多くの西軍所属の大名が、大将である石田三成の指示に従いませんでした。
なかには「本当の裏切り者」とも呼べる戦国武将もおり、これらが原因で西軍の劣勢は決定的となりました。

 小早川秀秋をはじめとする彼らが西軍を裏切った理由として、「石田三成が味方からも嫌われていた」ことが一般的によくいわれています。しかし、はたして本当に理由は「それだけ」だったのでしょうか。

 あらためて「裏切り者」となった人たちの動機を細かく見てみると、興味深いことに、そこには現代に生きる私たちの社会にも見られる、もっと「多様な理由」が存在します。

 そもそも「人が裏切る」動機は何なのか。どういう人間が裏切る可能性が高いのか。今回は「裏切り者」を見抜くコツを、裏切りが続出した関ヶ原の戦いを題材に解説したいと思います。

 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

勝敗を左右した「裏切り」とは?

 Q1.「関ヶ原の戦い」はいつどこで行われたのですか?

 戦いが行われたのは、1600(慶長5)年9月15日です。ただし、この日付は「旧暦」で、いまの「西暦」に直すと秋本番の10月21日です。

 現在も東海道新幹線や名神高速道路などが走る「関ヶ原」は、岐阜県と滋賀県の県境に近く、北国街道、中山道、伊勢街道など主要街道が交わり「関所」が置かれるなど、古くから交通の要衝でした。

 「関ヶ原」の地名は、この「関所」に由来します。

 Q2.誰と誰が戦ったのですか?

 それぞれの主導者は、東軍「徳川家康」、西軍「石田三成」です。

 「東軍」は、主に東国の大名を中心に、豊臣秀吉の子飼い福島正則や黒田長政なども含む総勢7万4000。

 一方の「西軍」は、西国の大名が中心で、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋など総勢8万2000。ちなみに西軍の「名目上」の総大将は、石田三成ではなく毛利輝元(てるもと)です。

 Q3.「戦いの原因」を教えてください

 原因は、「豊臣秀吉亡き後の政治の主導権争い」です。

 彼の息子、豊臣秀頼(ひでより)はまだ幼く、本来であれば徳川家康ら有力大名と石田三成ら優秀な文官との「合議」により政権運営が行われるはずでした。しかし、徳川家康はこれらのルールを無視し、次第に台頭していきます。

 その結果、「徳川家康に追随する大名」と「反感を募らせる石田三成のような大名」との間で亀裂が深まり、これがやがて「関ヶ原の戦い」へと発展します。

 Q4.どのように決着がついたのですか?

 戦いは、わずか半日で勝負がつきました。

 開戦時、東西両軍の兵力差はさほどなく、東軍を包囲するように布陣した西軍が有利な状況でした。

 しかし、戦闘に加わらない西軍大名が多く、戦況はしばらく拮抗します。やがて、家康の鼓舞に東軍がやや勢いを増すと、これを見た小早川秀秋はじめ西軍の一角が東軍に寝返り、この結果、石田三成ら西軍はなすすべなく敗走しました。

 Q5.裏切り者の「動機」は何だったのですか?

 そこには、大きく分けて「5つの動機」が存在します。

 西軍を裏切った大名を例にとりながら、「人が裏切る動機」を分析してみましょう。

「怨恨」「血縁」裏切りの動機は十人十色

 1.「冷遇」されたことへ恨み(小早川秀秋)

 裏切る動機のひとつめは、「小早川秀秋」(筑前名島〔福岡県〕30万石)に代表される、「冷遇」されたことに対する個人的な恨みです。

 小早川秀秋はもともと豊臣秀吉の妻、北政所(きたのまんどころ、おね)の甥で、子どもに恵まれなかった秀吉の養子となり「後継者候補」といわれていました。

 しかし、秀吉に実子「秀頼」が誕生すると、一大名の小早川家に養子に出されてしまいます。その後も戦場での失態から領地を没収されて左遷されるなど、石田三成ら豊臣政権から「さんざん、冷遇」されました。

 やがて小早川秀秋は旧領を取り戻しますが、このとき手を貸してくれたのが徳川家康です。石田三成らに対する「冷遇されたことへの恨み」が、小早川秀秋が裏切ることになった要因のひとつです。

 2.もともと「寝返る先」と仲がよかった(吉川広家)

 吉川広家(きっかわ ひろいえ、出雲・隠岐〔島根県〕14万石)は関ヶ原の戦い以前から、黒田長政をはじめ多くの東軍の大名と非常に親しく、しかも東軍の勝利を確信していました。

 しかし、彼は「諸事情から自らの望む陣営に加われなかった」のです。

 吉川広家は西軍の「名目上」の大将、毛利輝元のいとこで、吉川家は代々毛利「本家」を支える重要な「支族」の地位にありました。そのため、毛利輝元の西軍に参加するという意向に従い、広家も「表面上」これに追随します。

 ただ、水面下では「開戦前」から家康に内通しており、最後まで戦闘に加わらずに味方の進撃を妨害し続けるなど、「利敵行為」に徹しました。

 3.本人の意志ではなく「身内」に反対されて(鍋島勝茂)

 「本人の意志」ではなく「身内からの強い反対」にあって寝返った大名もいました。「鍋島勝茂」(なべしま かつしげ、肥前佐賀〔佐賀県〕35万石)です。

 勝茂の父、鍋島直茂(なおしげ)は、かつて島津家らと九州の覇権を争った龍造寺家の家臣でありながら、実質的には「当主」として君臨していた実力者でした。

 子の勝茂は、はじめは「独断」で西軍に属し、東軍の拠点を次々と攻略していたところ、本国の父、直茂から「いますぐ東軍に所属せよ」との命令が届き、関ヶ原の決戦を前に急きょ、戦線を離脱します。

 この父親の「卓見」が、鍋島家を救ったのです。

 4.わが身の「生き残り」を最優先して(小川祐忠)

 戦国時代によく見られる、典型的な「なりふり構わぬ」生き残り戦略。その代表例は、小川祐忠(おがわ すけただ、伊予今治〔愛媛県〕7万石)でしょう。

 小川祐忠は、当初は六角家に仕えていましたが、織田・浅井連合軍により六角家が滅ぼされると、浅井家に仕えます。

 やがてその浅井が織田に滅ぼされると今度は織田に、織田が明智光秀の手に倒れると明智に、明智がやられると柴田勝家に、柴田が滅ぶと豊臣秀吉にと、自らは「恥も外聞もなく」生き残る道を選びます。

 彼にとってみれば、関ヶ原の戦いもそうした「生き残り戦略」の延長にすぎなかったのでしょう。

最も多かったのは「勝ち馬に乗る」ため?

 5.最後に「勝ち馬」に乗ろうとして(赤座直保、朽木元綱)

 どっちつかずの日和見でしたが、「東軍が勝つ!」と見るや、体よく勝ち馬に乗ろうとした者もいます。数からいえば、これがいちばん多かったでしょう。

 赤座直保(あかざ なおやす、越前今庄〔福井県〕2万石)や朽木元綱(くつき もとつな、近江高島〔滋賀県〕9500石余)らは西軍に属し、関ヶ原の戦い当日を迎えます。このとき、
東軍への寝返りを画策していましたが、その「事前通告」は家康にしておらず、最後まで態度は「流動的」でした。

 戦いがはじまり、やがて「小早川秀秋の裏切り」を見るや、小早川軍の前面に布陣していた赤座や朽木は、小早川軍の先陣をつかさどる形で「勝ち馬」に乗ろうとして西軍を裏切ります。
その結果、東軍を勝利に導きましたが、当然その「功績」はまったく家康には認められませんでした。

 【番外編】「私は裏切っていません!」(島津義弘)

 島津義弘(しまづ よしひろ、薩摩・大隅〔鹿児島県〕56万石)は裏切り者のひとりとして扱われることもありますが、終始戦闘には参加しておらず、これは「誤解」です。

 西軍の事前の作戦会議で、当日の島津隊はもともと兵力も少なかったことから「二番備(にばんぞなえ)」、つまり敗北寸前の敵に「とどめの一撃」を加える役割を命じられていました。
戦闘への不参加はこのための「兵力温存」であり、小早川秀秋、吉川広家らの動向とはまったく異なります。

 ただし、「じつは石田三成の采配に不満をもち、兵を動かさなかった」とも言われます。

 結局、島津隊の出る幕がないうちに西軍が崩壊したため、島津義弘は敵陣を「中央突破」し、家康本陣をかすめて戦線を離脱しました。

 西軍を裏切った大名の動機をあらためて詳しく見ていくと、意外にも「石田三成本人への怨恨」を挙げる大名は少ないようです。

 もちろん、石田三成を嫌っていた大名ははじめから家康の側につくでしょうから、それはある意味、当然ともいえます。「関ヶ原の決戦当日をむかえるまでの石田三成は、それなりに西軍をよくまとめていた」とも思います。

 とはいえ、石田三成が西軍の大名から好かれていた様子もなく、そうでなければ、これほどの「裏切り」が続出するわけがありません。やはり、「石田三成に人望がなかった」というのも本当のようです。

 もし、徳川家康に匹敵する人望を石田三成がそなえていたら、戦いの結果は違っていたかもしれません。

「裏切りは当たり前」だった戦国時代

 現代に生きる私たちの価値観では、「裏切り」と聞くと非常にマイナスイメージがあります。しかし、当時はむしろ「裏切りが当たり前」の時代でした。

 自分たちが「生き残る」ために烏合(うごう)離散は日常茶飯事。このころはまだ「武士道」などという言葉すら存在していません。下克上の戦国時代を生き抜いてきた大名たちにとって、裏切りは特別なことではなかったのです。

 もうひとつ、多くの裏切りが起きた背景には「徳川家康の画策」がありました。家康は情報網を駆使して事前に周到な策をめぐらせ、裏切りを誘発していたのです。

 この時期、家康は西軍に味方しそうな各地の大名たちに膨大な数の手紙を書き送り、決戦の前から懐柔していました。その結果、西軍には家康に内通した大名たちも多かったのです。

 石田三成は、そうしたことに警戒はしていなかったのか。怪しい動きを察知することはできなかったのか。裏切る人の動機はさまざまありますが、結果からすれば、内通を見抜けなかった石田三成は脇が甘かったと言わざるを得ません。

 このように関ヶ原の戦いを見てみると、現代にも通じるさまざまな教訓を得ることができます。「勝利する者」は事前に周到な準備をし、逆に「敗者」の側から見れば、裏切る者には何かしらの「動機」があり、
それを冷静に見抜けなかったことが敗北につながりました。

 日本史には、このように人間関係を考えるヒントが詰まっています。ぜひ歴史を学び直すことで、ビジネスや実生活で生き抜くための「人間関係の武器」を手に入れてください。

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