その街角には旧知のたばこ屋さんがあった。以前は街角のあちこちにあったたばこ店での一つで、たばこの販売だけで商売が成り立っていた時代には、たばこ店は街の風物詩であった。その一店が、平成に入っても生き延びていたのだが、もはや生業となってはいず、自動販売機のような機能を、その街角で果たしているに過ぎなかったようだ。店先には自動販売機もすえられ、三畳の店先に座っている店主の姿もなくなっていた。ただ、その店はあった。知人の暮らす住居でもあったのだ。大正期からつづいていた小売店であったとも聞いていた。
昨年、平成14年11月3日文化の日の連休日、たまたまいつものように自転車で、裏町の路地をあちこちとぶらぶらと辿っていたとき、そのたばこ店に気づいたのだ。長い間ここに来なかったなあ、それに店主のかれとも、2000年に山形屋前で立ち話して以来、音信普通になっていた。あのとき、ぼくはバイオ茶というお茶を、無理に買ってもらったことで、気の毒なことをしたと自責の思いがして、しばらく会わぬうちに連絡がとだえてしまっていたのだ。今日は店を覗いてみよう、そこに居るとは思えないが、会えるかもと、自転車を押して道路を横断し店先に近づいた。
店は完全な廃屋に変わっていた。木枠の正面ドアの硝子は一枚が割れて、敷居から外れたまま傾いて停止していた。陳列棚の硝子窓はさすがに割れてなかったが、汚れ果てて、顔をおしつけて、中を覗くと、床も奥の畳間もみえ その天井には半メートルほどの穴が開いていた。二階の畳敷きの破れが荒れた模様を強めていた。店は黒いビニールのゴミの山でびっしりと覆われ、土間にも流れ落ち、うずたかく積みあがっていた。奥の居間の天井から赤い傘のついた室内灯が、電線一本に引っかかって、首吊りのように下がっていた。猫がとつぜんごそごそと奥に逃げていった。店先の煙草自動販売機は、倒れて壁に支えられていた。中をみると、ハイライトやマイルドセブン、ラークなどがあり、みたこともない「さくら」というパッケージもあった。こんなのは何時販売されていたのだろうか。店の壁にマイルドセブンの広告が一枚だけ残っていた。奈良の大仏さんの大きな顔が描かれ、真っ黒な背景に青白く例のおだやか表情が描かれ、紫色の右手の指に一本の煙草が挟まれて、吸い口は赤く光っていた。大日如来とシガレットの取り合わせとは、奇抜でかつまだ喫煙が平和な時代であったのかなと思いつつ、マイルドセブンがひらがなで書かれているのもおもしろいと、もう一度読むと、それは「まいるぞせぶん」であった。ふだんなら吹き出すところなのだが、この笑いの空しさがたまらなかった。やはり彼はすでに他界していたのだと、廃屋に変わり果てたたばこ店をみたのだ。写真を撮っておこうと、板ガラスの引き戸から内部にカメラを構えようとしていたら背後から「なにをしていますか」と声をかけられたのだ。とがめるとうより、様子を聞こうとするおだやかな声であった。なんとか説明できそうと、ふりかえると、目の先に死んだと思った知人が、立っていたのだ。仰天して、生きていたのかという声を寸前で押さえこみ、「元気でしたか、おひさしぶり」と返答できたのだ。「あなたもお元気そうで」と一五年の年月が無かったようないつもの彼がたっていたんだ、
ネクタイ・背広姿で色白、小太りで、その姿が生活のゆとりを以前のまま匂わせていた。それからぼくらは、それぞれの近況を伝え始めたわけだが、ぼくは、この廃屋化したわけを問うことは出来なかった。かれもまた、この廃屋には、なんの関心もないかのようであった。そんなことより、お互い健康が一番大事だというようなことに話は落ち着いていくのだった。どうですか、お茶でもしませんかと提案すると、そうだ食事でもしましょう、ぼくが案内しますと、彼は即答してくれたのだ。もっと話をつづけるのに、依存はないばかりか、ひさしぶりに旧交を温めるという心情も感じ取れてうれしくなった。かれはもともと美食家だったし、書道家であり、短歌を詠み、薔薇の花を育てるのが趣味であった。そのどれもぼくは、関心がないことであるが、不思議とうまがあっていたのだ。かれのイメージがだんだんと、前のままにもどってきて、ぼくはデパートのほうへと、彼と一緒に歩いていったのだ。
まだ午後5時前でかれのいう店はしまっており、近くのカフェに入り、やや込んでいたが、席も確保できた。かれはここにはよく来るから、ぼくが注文していいかというので、よろしくと頼むと、しばらくして、コーヒーと上等のスイーツを盆にそろえてもどってきた。そしてかれの話をききはじめたのだ。コーヒーは熱く、気分はくつろぎ、静かな時間が流れていった。一時間半ほどその店にいが、今、思い出してみると、かれの話は、以下のようなものだった。あの家には住んでいる、裏のほうに住んでいるということだ。住んでいるといわれて、それ以上、よごれているとか、危険だとか、どうのこうのと詮索もできず、そうと、頷くしかなかった。住居の話はべつとして、かれのライフスタイルについては、聞き出せるので、話を聞いていくと、それなりの変化は起きていた。短歌は、もうやらないという。本気で熱心もやるものがいなくなった。情熱もないし話も合わない、短歌の内容もつまらなくなり、将来性もあるとは思えないのでグループは辞めた。毎年鹿児島の短歌の集まりも意味がなくなったので、それも止めたとうのであった。温泉は好き、青井岳温泉にも、月になんどかは行く。一番行くのは青島の温泉だ。あの温泉で時間をゆったりと過ごす、また海岸で、暮れを見るのは至福のひとときであると、その耽美を語ってくれた。青島には週に3回ほどは温泉に行っている。それはいいことだねえと、ぼくも温泉通いを話した。この住居の庭にあった樹木は大部分引き抜いて、薔薇園にした。その薔薇が宮崎市の展覧会にだしたとき、宮崎交通の岩切社長さんが、これはいいとほめて貰えたと話すのだ。薔薇はとても金がかかり英国の宮廷の庭園に育つ薔薇について具体的に話しだした昔のようにうまいビフテキを出す店も少なくなったなという。そんな話であるが、婦人雑誌の口絵をみるような、贅沢の香りがかれをつつむのが、どこかで安心させられるのであった。すべてが、ゴミで覆われた廃屋と化したたばこ店となんの関係も関連もなかったのだ。そのまま店の件について、まだ彼が住んでいるということ以外は、知ることもできず、住所と電話番号を交換して、そのカフェで別れてしまった。彼はもうしばらくここでコーヒーを飲んでいるというので、別れた。あれから、電話もなく、ぼくもまた電話してない。
平成15年となり、1月13日成人の日の連休、ふたたびたばこ店に行った。板壁は一部が剥げ、割れ竹を格子にして、わらを刻んで入れた粘土を塗りこんだ壁の土台が、剥き出しになり、その漆喰の滑らかな仕上げが黄色く変色していた。棟も真ん中ころで折れまがって落ちこんでいた。ガラス戸の硝子は割れてしまい、木の枠だけになっていた。荒廃が一段とすすんでいた、ここには彼は住んでいない、住めるわけがない、いったいなぜ裏に暮していると、彼は言ったのだろうか。裏とは、この家の裏でなくて、店の面した表通りの裏の区画ということだったのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。かれがまだ生きているということでいい。その優雅さを、以前として寸分違えず保持していること、そのモノにとらわれない、まけないスタイル、これがぼくを感銘させてくれたのだ。家は廃屋と化したが、かれの品格は健在であったのだ。これでよしである。電話などかけても意味はないとおもうのである。