市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

時代はどう変わりつつあるのか?

2011-07-01 | 社会
 NHK朝の連続テレビ小説「おひさま」は、3月11日以後、脚本を書き改めたと思うほど、毎回、毎回、みごとに泣かせる場面を繰り出してきて、現在もまだまだつづいている。終わるとアサイチのコメンテーター若い男女二人が、感極まった表情で、今朝のシーンを反芻して、よかったなあとうなづきあう。それから、やおらゲストを交えての朝一番の情報を紹介する番組に入っていく。

 どうして、こうも毎朝、毎朝、泣けるシーンを繰り返していけるのだろうか。泣けるということが、快感であるがゆえであろう。ぼくなんか見るたびに、白けてしまって、どうにも感情移入ができないのだが、これで素直に泣ける人は、ある意味で幸せであろう。涙を流せば、気分は爽快になれる。とくに、涙が自分の切実な身の上のことでなく、ドラマの世界の出来事であればなおさらである。

 「おひさま」は、泣くことによって、涙する自分が、自分を超える存在と一致して、弱い自分を超えていける力強い涙になるように設定されている。だから、泣いていることは落ち込んでいるどん底ではなく、泣くことにより不幸にめげない内面の強さを世界に示すことになるのだ。だから、それを見るものも、感情を解放されるのだ。こうして、毎朝、毎朝、視聴者は、涙を惜しみなく流す。それは、「国民の涙」といってもいいだろう。コメンテーターも安心して、今日も泣けましたといえるのだ。しかし、かく消費される連続テレビ小説「おひさま」は、NHKの商品であり、それを同じスタッフが、すばらしいすばらしいと誉めそやすのは、あまりに厚顔すぎるのではなかろうか。しかし、国民のすべてが涙するドラマであれば、自分もまたという思いからのコメントなのだろう。

 涙のアートして、すぐに連想できるのが、戦時中の軍歌である。その中でもとくに「愛国歌」といわれた流行歌、映画主題歌などである。勝ってくるぞと勇ましくで有名な「露営の歌」出征兵士を送る歌、戦友、暁に祈るなどなど、感動の涙がトーンとなる軍歌は、なんとおおいことだろうか。軍歌でありながら涙がゆるされるのは、涙が自己を超越させ、国家と骨肉化できるからである。

 こんな軍歌のなかで、なぜか「空の神兵」だけは、軍歌を域を超えているのだ。陸軍落下傘部隊の歌であるが、その歌詞の美しさは、時代を超えて現在でも空を降るパラシュートの美そのものを歌っている。しかもとりようによっては、世界の不正と勇敢に戦う若き戦士の精神をも象徴している。それは戦争でなく、純粋な正義の世界を暗示しているのだ。ぜひ、ユーチューブで視聴して欲しいものだ。ここに涙を超えた表現の力もまた感じられよう。

 涙の心地よさに陶酔して、本質がぼけてしまう危険は考えていたほうがいい。もともと日本の近代芸術には、涙の価値がおおきな比重を占めている。たとえばゴッホ、その絵画に多くの日本人は、涙を嗅ぎ取るのだ。ベートーベンも涙、エディット・ピアフの「愛の賛歌」も涙、私小説の世界をささえるのも涙、しかし、これらのアートの本質は涙ではないのだ。もっと社会と個人が、自分を賭けて対決してこそ、生まれてくる真実なのであるが、そこまではなぜか探らずに涙の域で満足してしまいがちなのである。

 そういうことを考えると、今また時代は、涙の価値を再確認させようとする時代に入っていきそうである。時代は変わりつつあるのか。
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