市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ときには劇的であることを

2010-10-02 | 日常
 2010年の9月が今週、過ぎ去った。昼間に雨が降ったのは宮崎市では3週間ぶりで、冷え冷えとした秋が来ている。雨の日も、晴の日も一日も休み無く、朝、夕のチップの散歩をしてきた今年も、はや残りも三ヶ月となった。そのチップであるが、いつのまにか、12歳を越える高齢犬となってきた。この犬はほんとに変わっていて、散歩をよろこんでしていたのは3歳くらいまでで、後は、仕方がないというふうにだらだらとついてくるようになった。たいがいの散歩する犬は飼い主を引きずるようにして前をあるいているが、チップは後ろを歩く。そればかりか、決まったコースを取らせるには、叱咤激励をしなければ、進まない。もう何十回、何百回とすれ違う近隣の人から「かわいいね、かわいいですね」と声をかけられても、反応をしないまま。ときに気が向くと声の主に近づくこともあり、その人がかわいい、かわいいとなぜようとした瞬間、ぱっと、顔を背けてしまうのだ。「この犬は、ほんとに愛想がないんですよ」と、ぼくはいつも言い訳をしなければならなかった。ぼくに積極的に抱かれたことも無く、食事、風呂、寝る以外によんでも来たことはない。しつけがまちがったというわけでもなく、マイペースの犬のまま高齢犬になった。

 この犬の風変わりのところを、まだまだ書きたいが、一見して、そう見えない典型的なシーズの愛くるしさをいまだに漂わせているのが、まったく買い損なったという気分にさせられることもある。しかし、こういう犬だから、いつ死んでくれても気が楽であろうかと、ぼくとの配剤をおもうこともある。ところで、高齢になったので便秘しがちになってもいる。チップをうまく排便させるには、かれとの長年の付き合いがなければ難いだろう。

 散歩のコースでだいたい決まったところで、立ち止まり、くんくんと鼻を地面につけながら、右、左と数歩移動を何十回と繰り返しながら、やがて便意を催して、排便するのだ。今朝は曇り空だったので、いつものコースは行きたがらず、反対方向に歩き出した。家の前のどうろを100メートルほど東に行くと十字路があり、その南の空き地の角のブロック塀の下がお気に入りのトイレでもあった。そこまでくると、いつものように左右の移動をし始めだした。しばらくして、ふと人の気配で目をあげると、小さな小学生の少女と、その兄らしい男の子が、チップをこわごわと見ていた。その近くが登校班の集合場所なのかもしれない。ほとんどの幼児、小学生は、犬に親しみを示すが、ときには怖がる子供たちもいる。そんな兄妹であった。チップはやがて排便をしだした。女の子は、まじまじとそれを見ていて、終わると兄に向かって、気持ちわるそうなそぶりを示していた。それを横目でみながらぼくは、トイレットペーバーで、「うんこ」をつつみこんで手にすると、少女は声もうしなうほど気持ち悪そうで立ちすくんでいた。兄もショックでみているようだった。その瞬間、ぼくは、このトイレットペーパーにつつまれたうんこを、女の子に「はい、プレゼント!」とぐっとさしだしたのである。彼女は声もあげられず、兄のほうにとびすざった。「プレゼント要らないかい」ともう一度、声をかけ、「要らんのかい、それじゃ持って帰ろう」と、白玉模様のあるビニール袋に収めて立ち去った。二人とも呆然として、ぼくをみつめて立ちすくんだままであった。

 さて、あの小学一年生くらいの女の子は、この朝の出来事をどう感じたのであろうか。これが冗談であることは十分に認識できたことは間違いない。しかし、彼女のおどろきは、すでにチップに遭遇したときから始まっていたのだ。犬の排便のおそろしさ、その便を手でひろう大人の男の不愉快な行動、そしていきなりプレゼントとさしだされたショックとなったわけである。それは、彼女が思いがけなく出会った朝のドラマであったのだ。おそらく彼女は、チップと飼い主の異常な行動をこれからも長く記憶にとどめざるをえないのではないのだろうか・・。テント劇団「どくんご」の役者の一人「暗闇健太(クラーク健太)」が自分の芝居出演について語ったことで、観客にドラマのどんなシーンでもいいから、記憶の残してもらえるような芝居をやりたい、それだけでいいと言ったことがあった。芝居が、何を言いたいとか、意味は何なのかと、そんなことはそれぞれが想像してもらえばいいけど、いつかどこかで、ぼくの出たなにかのシーンを思い出してもらえればと思いますよねと話してくれたことがあった。ぼくはこのとことに、なによりも納得できるのであったが、ぼくが今朝、やったことも、こういう意味では役者につながるかもなと思うのである。(笑い)

 ところで、このぼくの行為に、なんの意味があるのかと言われても、説明のしようもない。なぜ、少女をおどろかしたかったのか、意味もなく、衝動的にそのような行為をしたのかと、詰問されると、ただおどろかしたかったとしかいいようがない。意味もなく人それも無垢ないたいけない少女をおどろかすとは、何の意味があるのかと、といつめられると、それに答えることは不可能である。ただ、これが許されうるアソビのある世界、これだけがあれば、生きるに値する社会になるのではないのだろうか。単調な機械的な、テレビでコントロールされた自分から、ちょっとだけのがれられる空隙がだれでもやれる世界、これが理由だったかもね。






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