市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

孫、孫、まごついた運動会

2010-10-23 | 日常
  今週日曜日(10月17日)の快晴がしんじらないような、その後の曇りまた雨の毎日、それよりもき奄美大島の底なしの豪雨と洪水、山崩れ被害がニュースに連日報じられている。まだ、避難所との連絡がつかない場所もあるという。孫にとっては幸運の運動会であったわけである。

 ぼくは、嫁の方の両親ともひさしぶりに会え、孫を囲んで、かれの成長や出来のよさの自慢話をおたがいにいい気分で、これまた自慢しあうのもよろこびかと、そんな楽しみをまた思い出した。。それで、日曜日、青島への自転車ぶらりを止めし小学校へと自転車でやって来た。妻は後で自動車でやってくる。そして校門の前で降りて、ぼくはその自動車を妻のあと運転して、次男宅の駐車場に停め、すぐに一キロほどの通学路をたどって引返す手はずをしていた。

 校門前の自転車置き場に「エスケイプ」を柵に鎖錠で固定して、校内に入ると、運動場のまわりから、そこへいたる校舎のまえや、玄関の前庭、講堂前とどこもかしこ人でごったかえしているのであった。すぐ次男の携帯にかけたが、通じず、嫁のも「今電話に出られません・・」と自動反応するしで、では講堂の入り口の日陰で待とうと、通路になっている縄に沿って講堂に来た。ふと中をのぞいてみると、床一面にビニールの敷物が敷き詰められ、パッチワークのようになっている。その敷物のあちこちに家族らしき大人や幼児がいた。まるで避難所か難民収容所のような印象を受けて、おどろかされた。おそらく、運動場とおなじく場所取りの終わった空間になっているのだろう。そのテリトリー感情のせいか、(これが避難場と本質的にことなる空間になってる)散らばった人たちの険しい視線が気になって、ぼくは、やはり運動場へ引返した。

 運動場の正面いっぱいにテントの観覧席が、設けられていた。椅子が並べられ来賓席と大きく張り出されている。すでに来賓は着席をしていた。数十人分はあった。役員席は、校長やPTA会長などの席と、事務局、記録、放送などの席がならび、運動場の競技を真正面にしている。テントはここから左右に張り出して、競技グラウンドの南正面を占有していた。そのテントに入るには、縄の通路に沿って、受付に至り、ここで受付を終わって指定の場所に着座することになるようである。ぼくには無縁のテントでしかないので、早々とここと通り抜ける。

 また縄の通路である。角のブロック塀のところで、縄通路は終わって、その先から西側の塀際が一般席に当てられていた。ブロック塀のところにカキ氷を販売しているところがあり、つぎつぎに紙コップの氷が売れていた。携帯がなりだして、次男と連絡がとれたので、引返して運動場入り口で待つことにした。

 引返してみると門を正面するところにも、テーブルを3つほど連ねた受付があり、役員も3人ほど座っていた。競技のプログラムと場内案内図を貰おうと思ったが、そんなものはどこにも見当たらなかった。それぞれのこどもの家族だけが手に握っていた。ちらしを2000枚印刷しようが、3000枚印刷しようが、金額的にたいした差額にはならないのに、じいちゃんばあちゃんにもどうぞどうぞと、会場で手渡しするだけで、華やぐのなと思うのであった。急にトイレに行きたくなった、校舎と校舎をつなぐ敷地のなかも縄通路となっており、これをまたいだり、こえたりしながら、トイレらしい場所を探すが、見当たらない。トイレは別棟でなくて校舎の中に設けられていた。年寄りが朝の9時から午後3時までトイレなしに過ごせるわけはないのに。年寄りよ、今日くらいはトイレには行くなかと思えた。几帳面な嫁方のご両親は、最後までトイレを使用されなかった。真面目すぎる方たちである、いつもそう思うのだが、今日もまたそうであった。、

 ようやく次男とも連絡がとれ、それぞれの両親と6人で、向きだしの地面にビニールを敷き、簡易の椅子を2脚置いた場所で一同揃った。日頃のご無沙汰を交わし健康状態の情報交換を終わり、競技の様子をみることになった。ここからは、白団という孫に居場所などは遠くて、孫の姿など目につかない。すでに集団での演技は終わり、後は午後2時過ぎの130メートル競争まで出番はないのだ。あまり興味はわかないが、それでもひとつひとつを見ていくしかなかった。それにしてもやけに陽射しは強く、ビニールの上は大きな蟻がはいまわって手や足に執拗に登ってくるのであった。土の香り、蟻のうごめきが意外に懐かしいのでもあったが。

 学年リレーとか、球戯、また集団ダンスなどの競技が終わると、優勝団に優勝旗が手渡される。しかし、テントの中でよく見えない。ただ放送で、「白団に宮崎市教育員会次長○○△△様により優勝旗授与が行われます」とアナウンスが流れる。競技ごとになんなに課長様とか、PTA会長さま、町内会長さまとか、優勝旗授与者が登場するのであった。なんになるんだろう、こんなこと。昔は、いや数年前や長男の小学校ではこんなことはなかったがと、思うのであった。

 やっと昼休み直前のリレーが終わって、午前の部が終わることになった。そこで今度は、この運動会の意義についてのえらい人の祝辞があり、それにつづいて宮崎県とか、宮崎市とかの長やら次長やらの祝電の電報文がよみあげられだした。その後は、なんなに幼稚園さまが、10数箇所幼稚園名だけで助かったがつづいてようやく終わった。すると、こんどは先生が児童たちにこまかい昼休みの注意をこまごまと述べだした。もう時間超過、休み時間は短くなる。昼ごはんが終わっても運動場で遊ばぬようにという注意が終わると、やっとこどもたちはそれそれの家族のもとにぞろぞろとちり始めたのである。

 食事の細さは相変わらずだが、とにかく運動場で遊ぶのが大好きで連絡簿にもそのことが書かれてきた。食事を終わると、すぐ出て行こうとすのを次男も嫁も「ここでじっとしとらんね。運動場で遊んだらイカンといわれたでしょうが」と叱った。まわりにこどもたちのざわざわした気配がたちこめだしたが運動場で遊ぶこともたちの姿は一人も見なかった。

 かくして食時も終わり、孫に元気な様子も見られて、後は午後2時過ぎの競技を見るだけでとなった。その走りでは、孫は,5人走者のなかの2位であった。保育所から走りはどんじりか下から2番か3番であったのに、粘りに粘ってゴール10メートルくらいのところで、一人を抜いて2位になったのだ。後で電話すると、うん、うんと言っていたが、走りに自信がついたろうというと、ついたと答えてくれたが、本気かどうか、どこか無関心な返事ではあった。

 この競争で、先方のじいちゃん、ばあちゃんもぼくらも終わりをまたずに帰ることにした。自動車は、校門の近くのファミーレストランに停車してあった。ぼくは自転車で、青島の帰途に予定していた清武町、池田台団地、天満橋を廻って、帰宅に向かった。走りながら思うのであった。これまでは、こんな運動会ではなかったのにと思いつづけるのであった。運動会と遠足はどこが違うのだろうか。遠足に祝電を打電する「様」「様」はいないだろうに。運動会とはなんなのだろうか。まごついたのは会場ではなく、運動会をどう理解できるかであった。



 

 

コメント
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