市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

ベクトル再考

2008-07-18 | Weblog
 昨日の投稿「教職ベクトル」のベクトルがわかりにくいという指摘があったので
説明をしたい。この概念は、今年の4月にこの市街・野「ベクトルの方向 2008-04-18 22:45:08 」で、以下のように述べた。

  力の向かう方向と、その量を示す矢印、それはベクトルと習ったことを思い出していただきたい。・・・ 方向は360°に向いているのだが、実生活では、矢印は一方方向しかない。正規社員になりたいというベクトルだけあり、正規社員になりたくないとうベクトルは無視される。

 ・・宮崎市には校長会館、教頭会館というのがある。・・・・教頭にも、ましてや校長になるなど、「とんでもない」とうベクトルは無いと信じられている。
 
 この逆方向のベクトルは、確実にあるのだ。ただ希少で目に付かないだけだーー

 
 あれから3ヶ月後、大分県教育委員会、ぼくには、蛙の棲む池の比ゆでしか考えようが無い魅力のない機構なのだが、その池の中で、校長、参議、課長、審議官などと、うごめいていた蛙たち。権力を求めて、顫動し、ナキワメく。いや、蛙に申し訳ない、蛙の美しさなどなにもないのだ。テレビに放映されるあの悪相、品格もなく、知性もなく、感性もない、いやしい顔、顔、顔の行列だ。顔をみたとたんに、逃げ出したくならなかったのだろうか。そんな連中が、顔をつきあわせ、毎日、犯罪的仕事を友情と勘違いしてやりつづけるとは、こんなベクトルが、現実に存在していたのだ。
 
 これと逆方向のベクトルを自分に課して、そのためのエネルギーを自分に集中していく、そして、人生の何十年の蓄積を想像すべきであろう。

 後期高齢期は想像以上に早く、自分の人生に到来する。死神も戸口に迎えにやってくる。そのとき、権力、地位、金を死神に差し出して泣き喚いてもね、駄目だ。

 西洋の諺で、人は生まれてくるとき、周りはみんな笑って祝福し、自分は泣きながらこの人生に生まれる。そして死ぬときに、周りからはみんな泣いて惜しまれ、自分は笑って死にたい、そんな人生が最高というのだそうな。

 死ぬとき、みんなが、笑い、本人だけが、泣きながら死ぬのではたまらない。これは死でなく、地獄への誕生ではないか。

 ベクトルの方向は、それぞれ考えに考えて、後期高齢期に焦点をあわせなければならないと思う。つまり人間の価値とはなにかを思考続ける他にベクトルは存在しえないのではなかろうか、とさへ思えるほど重要な命題であろう。





  

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