市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

コンセプトがない

2008-09-12 | 宮崎市の文化
 街・アート・メディアを貫くコンセプトが無い。なぜ、無いのか、無いとはどういうことなのか。いろいろ考えられるだろうが、前回の「街 アート コンセプト」にいただいたコメントで「やることなすこと全てが、行き当たりばったり。」と言われていたが、これも大きな理由の一つであろう。

 ところで、ここで思い出したのは、村上隆のキューレーションで、2001年ロスの現代美術館を皮切りに、アメリカ諸都市を巡回、センセーションを巻き起こした「スーパーフラット展」の村上の強力な「コンセプト」である。

 同展は、日本の現代アートに並んで、日本画家の若冲、北斎、狩野山雪、俵屋宗達の古典、マンガの町野変丸、アニメの森本晃司、アーティスト奈良美智、ほかにもデザイナー、写真家と並べ、活躍フィールドを横断、時空を超えて、すべて同一平面に展示し、これをスーパー平面とした。

 この平面は、これまで西洋美術の3次元空間による遠近法に基づく絵ではなく、日本美術独自の平面による作品の美であることを、コンセプトで説いた。マンガ、アニメは、このコンセプトにより、それまでジャパン、ポップと欧米でくくられていたジャンルから、日本文化の根底を流れる美意識を底流とするものだと、新しい
見方を同展とコンセプトで提示した。さらに村上はこれを日本人の英語ではなく、バイリンガルの英語として翻訳した。

 これは多くの欧米の批評家の関心を引き、その後、これまで相手にもされなかった日本の現代アートが収集家の対象となり始めた。村上の作品が先日12億円のおどろくべき価格で競り市で落とされたニュースを知った人も多いだろう。これほどにコンセプトは、力を発揮するのである。

 村上隆のコンセプトを引き合いにして、宮崎市の街づくりや、アート、イベントのコンセプト不在を批判するのは、こっけいかもしれない。しかし、コンセプトは自分の意志で生み出すものであり、それは創造と同じ行為だということは理解できるだろう。そこで問題が、より見えてくる。

 宮崎市でコンセプト不在というのは、よくチェックすると、既成のコンセプトを借り衣装としてまとっているということがわかる。街づくりでは、都市公園化、景観都市、アートでは猫も杓子もフェスティバル、新聞は無批判という中立主義である。とくにアートにおいてのフェスティバルは、多数で固まれば、偉大なアートでも生じるという錯覚であり、どうじに行政へのへつらい、大衆への集を恃んでの示威行為となっている。これらは、コンセプトでもなんでもなく、流行遅れの借り衣装をまとって、街を練り歩くような無様なものであると、言える。

 自分が不在であるということ、これがもう一つのおそらく根底的なコンセプト不在の理由である。

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