市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

宮崎映画祭(第20回)  時代の風 国定忠治上演

2014-07-14 | Weblog
 


台風8号が去った金曜日、ポルトガル映画を見て、土、日は、参加しなかった。妻が、映画祭は今日は行かないのと、言うので、おもしろそうでないので行く気がしないなと言った。「宮崎映画祭は日本でいちばんまじめな映画祭と新聞にでてるよ。真面目な人たちががんばっているんだねえ、えらいねえ」とやたら褒めるのであった。おもしろくないから、行かないという態度への批判がこめられているのは、まちがいなさそうであった。「日本一まじめな宮崎映画祭」とは具体的にどういうことなのだろうか。宮崎国際音楽祭という億単位の金のかかる音楽祭があり、日本一まじめな音楽祭というほめことばは、どうもなじめない。宮崎演劇祭というのはまだつづいているのだろうか。演劇祭には少しは当てはまる。そういうふうに並べてみると、この真面目さというのは、実行委員会が映画祭という行事を、ボランティアでやる活動の真面目さの評価と思われる。チラシ、パンフレット、チケット、ポスター、監督や俳優、映画関係者の登場企画など一連の事務処理に向けられての評価だと思える。つまり会場の設備、管理、来場者への親切なもてなしのこころなどなどの行き届いた活動ぶりが、日本一の真面目さで行われているということだろうと思う。しかし、これはほめことばとして十分だろうか、映画祭の内容には、このほめことばは、その身体の半身にしかあたらない。卵なら、白身の部分だけを褒めているだけだ。白身が日本一といわれているようなものだ。卵はどうなんだ。つまり上演された映画の内容は、その上演作品の全体は、映画祭の理念は、その特色は、現代性は、そして、純粋性とでもいった哲学は、俗悪からの距離は、とくにカンヌ映画祭と太刀打ちできる視点は、などなどの褒め言葉はどうなんだろうかということだ。

 金曜日にはすっかり天候は落ち着き、午前10時過ぎ、仕事を都合つけて、会場に入った。すでに「忠治旅日記」は定刻10時にはじまり、1927年昭和2年作の映画の白黒の灰色がかったシーンが流れていた。まだ目がなれぬ暗闇のなかで、スクリーンに投射されている忠治旅日記は、まさに別世界の映画に思えた。忠治を演じているのが大河内伝次郎というのも、しばらくは気づけなかったほどだった。まさか無声映画とは思わなかったとは、うかつであった。カラーで立体音響、コンピュータ処理された3次元画像を、映画でもテレビでもパソコンのモニターでも日常何十年も見続けていたのだから、映画がサイレントなのであるという発想もいつのまにか忘れてしまっていたのだ。調べてみると、日本映画のトーキーは1930年ごろに始まったとある。それ以前は無声映画時代であったのだ。

 ここまで古い邦画を、映画館で見たのは、初めてではなかったか。テレビではときたま放映されたのを見ることもあったが、おおくは断片もので、まとまって映画作品とみたのは、最初だったと思う。他に記憶は無い。だからこそ映画のなかに、忠治を見るよりも、ほかのものに目をうばられだした。なんといっても、映画のなかの風景である。あとでかんがえてみると、この映画から江戸時代までは、59年過去でしかないのだ。現時点から昭和2年までは、87年である。昭和2年のころは、江戸時代といっても、すぐ近い過去にすぎない。69年前の終戦の年をしのぶよりも近過去である。環境が激変することもなかったころ当時では、、江戸時代そもままという風景であったと思える「忠治旅日記」のスクリーンに目を奪われたのは、生きている江戸時代を見ていると思えるからであったろう。

 ところで、映画としての伊藤大輔の「忠治旅日記」は、ぼくにとっては明快な映画であった。忠治の人間性を描いていると、評されているが、伊藤大輔が描こうとしたのは、忠治の人間性というより、忠治の物語である。それは、時代劇として、これからも繰り返されるアウトローの物語という型である。しかし、ここには華々しい英雄譚はない。強気をくじき、弱きをたすくのアウトローの美学はない。この映画の忠治はじみである。いや地味すぎる。番頭となって身をかくし、笑って人を斬るより、義理と人情に縛られ、持病の中風に苦しみ、やむなく、愛人の待つ国定村に帰ってくる。だが、ここも安全ではなく、密告によって、幕府の役人どもに、最後の砦を襲われ、愛人の介護でささえられながら、捕縛の縄をうけるということで終わる。かくして反逆は、破滅する。これが内容である。昭和2年といえばかってない不景気のどん底、時代は景気回復を狙って戦争に向けられていく。天皇制国家主義を掲げる軍国主義がすべてで、国民の行動は国家権力のまえにすべての批判や反抗は、息の根をとめていった。この時代のまっただなかの映画である。幕府や捕り手とたたかう忠治反逆の姿は、この時代風潮のなかで、どのように受け取られたのだろうか。国家への反逆は無駄だという内容でしかなかったのか。たぶん物語りはそうなっている。しかし、忠治旅日記は、権力に敗北していく反逆する人間の美しさを、あますことなく訴えているわけである。中風とい病が、実は忠治の反逆の情熱と不滅を支えているのだ。つまり、敗北を語りながら忠治の英雄譚は、敗北を超えて生きる構造になっているわけである。


 ただ、今見るせいなのかもしれないが、少数者の国家権力への反逆が直面せざるをえなかった運動面が、忠治旅日記には、公式のように見て取れる。身を地下に潜らせる、忠治の番頭務め、内部分裂という一部子分の犯罪、国定村という自治コミューン、総括討論、東大時計台の封鎖解除を連想させる忠治の砦の崩壊と、60年代、70年代の抵抗運動に共通してみられた闘争の予言のようなシーンがあるのは興味をひかれる。これは伊藤大輔監督のどういう思いから投入されたのであったかどうか、問うべきことなのかもしれないが、ぼくは、それは話の展開でそうなったとしか思えない。それに予言性があったというのが見逃せないということである。

 1957年だったか、キネマ旬報の日本映画代表作の第一位ということだったというが、そのことは、時代の要請にあったわけであろう。50年代は、戦争から平和へ、軍国主義から民主主義へ、その実現へ向けて、権力悪を批判し戦う、まさに考え、行動し、理想の社会への夢を持てる時代であった。忠治の反逆は滅びへの美でなく、建設への希望として受け取れるようになった新しい時代であった。その時代の風潮のなかでは、まさに志を一にする最高の内容を誇れる映画であったわけである。また、くわえれば、このころまでは、まだこの映画にまさるような映画もなかったというまずしい邦画のレベルでもあったわけであろう。その後、邦画は、90年代以降、豊かになったものだ、ぼくには、今、この忠治映画がどこからみても映画として傑作などとは思えぬのだが。時代の風を映す映画としては、見るべき価値があることは、確かである。
 
 

 
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