市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

台風8号接近の宮崎市映画祭となる

2014-07-09 | 社会
さか、まさかで、台風8号、それも7月にはあり得ない大型台風の襲来と予報が始まった。超大型台風といえば、昭和29年宮崎市全市民に避難命令が発せられた2重眼台風を思い出す。大型台風の隣接して発生した2台風が融合して眼が二つある超大型となったのだ。テレビもなければ、携帯ラジオもなく、あったとしても停電で、台風情報などは、街路を走る消防車のスピーカーが出している避難指示があるだけであった。昼前であり、雨足もまだ弱かったので、歩いて1キロ先の県庁に両親とともに逃げ込んだ。自家用車もほとんどなく、避難といっても静かなものであった。県庁舎のコンクリート床にじかに座り込んだ避難者たちは2重眼台風の襲来を不安をかかえて待ち続けていた。2時間ほどたったとき、宮崎市街は、その2重眼に覆われだしたように思えた。風雨が静まった。やがて吹き替えしかとおもったが、そのまま風は止み、勢力も急速に衰えて、うそのように台風は消えてしまったのであった。まさにあっけにとられた台風であった。

 今度はどうなるんだろう。月、火、水、木と会場の宮崎キネマ館にはいけなくなった。後は金曜日の夜、なにごともなかったなら「生きるべきか死ぬべきか」を見られるだろう。土曜日は、当日の「CURE」は興味があるが、午前10じからの入場整理券をもらいにいけるほど暇もない。日曜日の「神奈川芸術大学映像学科研究室」というのも、内容はどんなものか、紹介はなく、ぼくの関心を引いてない。日曜日午後の「未知との遭遇特別編」も、古すぎて、興味がない。誤解ないようにいっておくが、忠次旅日記の「国定忠次」は古くはないのだ。忠次の意味が現代を照らすからである。これは後でもっと詳しく述べたい。UFO は、今では
意味をもってないのだ。映画祭クロージングの黒沢清の映画塾も、関心がない。かくして、第20回宮崎映画祭は、物足りなく寂しいものとして終わるようである。

 では、アメリカ映画「ビフォア・ミッドナイト」から語ろう。異性と喧嘩をしたことがないという人は、おそらくいないから、この映画はおおいにわかりやすいし、楽しめるだろう。だが、この凄まじい恋人の喧嘩を見終わって、やっぱり男は女の理屈には太刀打ちできないというようなことを、いかにも女性をほめ殺しふうに言って終わる男が居るならば、そいつは近頃の自民党代議士の一部の女性蔑視者にすぎない。この映画は、男と女の大口論を描いているけれども、男が勝つか、女が勝つかということを描いている内容ではない。人間存在の問題である。自分の存在を、会話によって実現するしかない人間の問題である。会話が問題なのである。

 この映画はギリシャの大金持ちの老夫婦に招待された作家、学者、演劇人、デザイナーなどのなごやかな食事風景からスタートする。このペアたちの肉体関係をうまく心理分析などという知的衣を着せて、こじゃれた会話を楽しむ芸術家、知識人の会話を、まずは観客はいやになるくらい聞かされる。ギリシャは経済破綻した国であり、シリアは内戦、イラクも人種間対立、パキスタン、イスラエルの戦争、ウクライナの内戦と、とんでもない情勢で囲まれながら、食と性だけを語るしかないのはまた人間の性なのか、この現実が、優雅なギリシャの自然風景のなかで
みせられる。

 そして、その会話は、予想もしなった激情となって、後半の二人の恋人たちの大口論となって受け継がれる。いや爆発する。これは喧嘩であるが、だれもこういう喧嘩はできない。なぜなら、それは文学であり評論であり、論理であり哲学であるからである。そして、みごとにそうなっている。感情のほとばしる喧嘩で、こういう完璧ないわゆる芸術性をおびた喧嘩口論が生じることはないからである。ではこれはなんなのかである。 

 台風が近づいてきた。続きは金曜日に伸ばすしかなくなった。そとまわりを片付け、家内と孫を安全な場所に避難させることが急務になってきた。もちろん、このことは、すでに日曜日から計画していたことであるから、今は段取りをすすめるだけであるが、家屋の弱い部分の補強だけでも手に余りそうである。台風はこのわずらわしさがいやである。


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