市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

未知座小劇場公演 宮崎市

2014-05-07 | 演劇
  大阪の未知座小劇場の宮崎公演が、5月12日(月曜)午後7時開場7時半開演されます。会場は「阿弥陀堂」(宮崎市駅前自治公民館)入場料は1000円、客席は50席です。予約は、072-996-5078 090-3722-6950 です。予約できないとき、もしくは当日来場できない人は、5月11日(日曜)の午後6時からのとおし稽古、本番前12日、午後2時からのとおし稽古を自由にみていただきたいとうことです。このほうは、もちろん無料です。

 上演演目は「井筒」 このタイトルは世阿見の謡曲からと作者で演出をする未知座小劇場代表の河野明さんは述べています。出演は打上花火、たかはしみちこ、曼珠沙華の女優3名です。宮崎公演にいたった経緯をかんたんに述べます。この発端はたかはしみちこさんのここ数年の宮崎で演劇をやりたいという切望が実現できたということになります。彼女は仙台市で小劇場「もしもしがしゃーん」の女優として、名をなしていて、2005年テント劇団「どくんご」の「ベビーフードの日々」に客演してから宮崎市とも縁ができたわけです。この劇で演じた熊本の港町の女、蟹をばりばり食いちぎりながら、朝帰りした夫を責める妻の悲愁とグロテスクな愛情、悲嘆と滑稽さのわけられない情念の修羅場を演じて、観客を魅了しました。この年のどくんご全国旅公演で、公演先でたかはしみちこファンが出来たことを、後で知ることができましたが、さもありなんと了解できたのでした。その後、ときどき彼女は宮崎市にどくんごの手伝いでみえてはいたが舞台に端役で出たのは、一昨年と昨年の2回でけでした。もっと主役をと思っていたころ、彼女自身は、宮崎公演をもしもしがしゃーんでやりたいという希望をいだくようになっていたのです。なぜ宮崎なのか、理由は聞いては居ませんが、彼女の再演を希望している仲間も数人いたので、こころよく今回の公演を引き受けたわけです。

 さらにここで、宮崎市公演の実現について、予想もしなかった情熱に出会えたのです。それが、未知座小劇場です。たかはしさんは、この劇場に入ることになったのですが、代表の河野明さんは、宮崎市公演をたかはしさんの話を聴いて賛同することになったと思われます。しかし、それは、劇団自身の公演として、宮崎市だけで公演するとう企画となったのです。ぼくは彼女からその計画をきいたとき、宮崎市公演だけなら、100枚2000円のチケットを売ったとしても赤字だよと言ったのですが、経費のことはかまわないと、座長のことばを伝えました。さらに観客動員するにしても、100枚でも無理と重ねると、観客も何人でもいい、観客はイメージの中にあるのだからと、即答されたのでありました。大阪からのカーフェリー代、2泊3日のホテル代、食事代、会場費、舞台装置、チラシ、チケット、その他の通信連絡などなど、脚本代はただとしても、数ヶ月に及ぶ練習にかかわる費用と、コストは積みあがっていくわけです。そして、ぼくが引き受けた阿弥陀堂のホールをの入場者数は50人内外なので、チケット収入は、多くて5万円である。ホール代を支払えば、実質収入は3万7千円となる。これで宮崎市未知座小劇場「井筒」公演の収支です。このことは、宮崎市の受け入れ側に負担はかけたくないという配慮からであろうかと思うのだが、それにもまして、未知座小劇場の宮崎市公演の情熱を感じざるを得ないのです。

 ここまでして、上演したいという「井筒」はどんな劇なのかということを
説明しなければならなくなります。上演の意義はとか、そんなむつかしいことを置いても、いつものようにチケットを売るときに、観るに値する、つまりチケット購入の価値があると、「この劇の価値」を説明しなければならないわけです。ただ、今回はぼくの知人がほとんどで、かつ小劇場についての関心をもっている人たちを選んで勧誘したので、どこで受賞したとか、内容の物語性などについて語る必要はなかったのです。ぼくが、はっきり言えることは、内容はようわからんけれど、おもしろいですよということです。これはテント劇の観劇アンケートにもっとも現れる観劇感です。これはさらにおどろいた、はじめてみた、すばらしい役者たち、その情熱、非日常感、元気をもらえた、自由、飛翔、次回もみたいなどと敷衍しだす感想に及んでいくわけです。ぼくは脚本は読んでみたけれども、舞台はみたこともありません。謡曲といえば、井戸の枠、ススキのある荒れ寺、などお能の舞台と似ているらしいけれども、大阪弁の台詞が、3人の女優のかけあいて、飛び交うさまをまのあたりにするとき、それもほんの目の前の女優の迫力に圧倒されるはずと思います。たかはしみちこはそういう女優だし、打上花火さんも曼珠沙華さんも関西の小劇場界をしるものはだれでもしっているカリスマ的存在だということです。それにたかはしみちこが、もっとも尊敬する二人の女優といいます。宮崎市の小劇場ファンの知人が、大阪の友人に二人の名前をつげたところ、即座に見にくるという返事であったといいます。その実力のほどがしのばれます。

 チラシには坂本明さんの5200字余のエッセイ「井筒と水月見」というエッセイが書かれていますが、これは、かれの上演する演劇への思いです。しかしきわめて難解で、ぼくが辛うじて判読できたことは、演劇は「井筒」の底の水面に亡き夫(業平)を観る井筒の女のように現世と他界をつなぐ水面のように演劇も過去と現在、現実と超現実を媒介できるものとしてあると、河野さんは言っているように思えます。また、このエッセイのまえに書かれた公演企画書の中では、西行の「撰集」に触れて、この西行の著作というものがじつは西行の名前を語る作者たちが、中世から江戸、現代まで書き加えたものであるということが、今では分かってきていることを踏まえ、捏造であるが真実であると言うのです。つまり、嘘でありながら真実である、それが演じるということだとも言っています。さらに本居宣長の思想や西行、空海、親鸞などの、現世と来世、現実と超現実、おそらく近代合理主義の超克として、もっと、合理的な理論を越えたところの思想があるのではいかとかたられているとも思えました。構造主義の言語、無化、差異などの概念もあり、残念ながら、哲学や日本古典に弱いぼくには、このエッセイは理解することはできませんでした。しかし、脚本は、もちろん、哲学を語るのではなくて、続大阪物語と副題があるとおり、現代の物語です。そこは、謡曲井筒にしばられず、自由に、その内容をどうとらえるのかは、観たものの受け取り次第ということでしょう。それにぼくは、感動は、ステージで演じる役者たちの存在感から受け取れると思うのです。すでに内容は、かれらの存在に移っていると思います。かっこいい役者は、一言のせりふをはっしなくても、見るものを引きつけてしまうものです。そうとすれば、この三人の女優の演じる「井筒」は観客を堪能させうる濃密な時間を、つまり井戸の底(河野さんによる現実と他界の鏡面)を覗く意識を、観客に感じさせてくれるのではないかと思うわけです。こうなったことが、内容でしょう。それはそれぞれの皆さんの織物となって広がるのでしょう。後はどうそれを着るかです。
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