市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

朝ドラ・カーネーション馬脚

2012-03-21 | Weblog
 国民のドラマとなって視聴率を挙げてきているNHK朝の連続小説を、「げげげの女房」から昨年度の「おひさま」「てっぱん」から、「カーネーション」と見てきている。カーネーションは、それまでの夫婦愛、家族愛、絆のテーマよりも、まずは、なによりも自己に忠実な人間ドラマとして描いていくことに興味を引かれてきた。戦後を世界的デザイナーとして自己実現をしていく人間ドラマとして描いていくこと、ただ家族愛だけに生きるヒロインの幻想的な生活とは、おおいに違っていたのは、戦後日本の消費社会を生き抜いていた実在の世界的デザイナーの実人生があったからであろう。もちろん、ここにも「希望」という今の国民に必要なテーマが、大衆啓蒙として込められているのは、NHKの朝ドラではある。それはあるとしても、ヒロインの葛藤に人間らしさを感じられるのであった。

 3月4日、ヒロインが老後となり、それまでの尾野真千子から夏木マリに代わってから、見るに耐えないものになってきた。まずは共感と面白みが無くなった。もはや成功し名をあげ、人生を大口開いて、ガハハと笑って乗り越える豪快な老女となったヒロインを見ても、面白いとも、共感や勇気を与えられることもない。ここには、もはやなんの、重ねあえる人生模様もないのである。さらにこの老女が虚ろに感じられるのは、夏木マリは、ヒロイン小原糸子の人間性を表現するのでなく、尾野真千子との整合性を繕うのに演技を集中しているのである。どこからどうみても夏木に尾野の重なりが実現するのは不可能なのである。ただ、あるのは、糸子のガハハの豪傑ぶりと巻き舌の口調だけである。

 つまりこのことは、夏木マリの責任ではない、ここが問題なのである。まずはなんといっても、世界的デザイナーとなった小原糸子の人生を描くことができなくなった原作や脚本の不成功がある。とくに80年代の豊かな消費社会である日本という舞台が描けない。戦後のノスタルジーの延長があるばかりである。そんな時代を生き抜いていくヒロインの葛藤がない、というより、脚本それ自体が、もはや消費時代を描けず、戦後のノスタルジーを憧憬するに留まっている。だから当然、ヒロインの晩年は作り物でしかなくなった。夏木マリがどう逆立ちしても人間像を表現できるものでもなかった。その断絶を若き日のヒロインとの辻褄合わせでごまかそうとしている。それ故、国民視聴者は、尾野の小原糸子の物真似を演じるしかなくなったのだ。いや、そのような演出にしたがわされたのだ。したがって、3月4日以降のドラマの失敗は、本当は、老女役の夏木マリでもなく、まずは脚本の崩壊である。さらに、それよりもなによりも最大の失策は、この構造を、見抜けなかったチーフ・プロデューサーの城谷厚司の責任であろう。もし演出家としての目があったなら、こんな脚本などは、引き受けなかったはずである。それは、夏木マリにも言える。目があるなら、こんな役を引き受けるべきでなかった。なにより城島は、辻褄会わせの演出をする前に、担当として、引き受けなければならぬなら、脚本の書き直しを要請すべきであった。

 だが、この期におよんで、実は朝ドラの隠された真実が、現われたというのが明らかになってくる。これは脚本家もまた流さされてしまったのだが、個人という人間像を描いていたドラマは終回になって、人間よりも教育効果、大衆啓蒙主義を前面に打ち出してきたのだ。城島は、いう。

 「教育は子供への投資ではない、子供を叱る前に、まず親の生き方が問題...頭ではわかっていてもなかなか実行できるものではありません。しかし逆に言えば、自信を持って堂々と生きてさえいれば、子供は必ず見ていてくれる。そんなメッセージにも聞こえます。
 
 この演出の言葉のなんと無意味。かつ現実ばなれしたことばであろうか。90年代以降の日本の社会をまったく無視した、言葉の行列でしかない。NHK空間からこの時代を眺めている姿勢でしかない。「自身を持って堂々と生きていさへすれば」というこの行為を、説く前にもっともっと人間の直面している社会状況を認識する必要があるはずだ。そして、やはりこの「カーネーション」も、これまでの朝ドラとおなじく、貧困を覆い隠して、豊かさの幻想にまみれたインドのミュージカル映画と同じ構造にとどまることになったのだ。まさに蛇足としかいいようのない、この結末編を付け足す必要などなかったのだ。演出としての事情に沿って、脚本家渡辺あやは、NHK朝ドラとしては、新機軸の人間ドラマを、最後で放擲した。これがまた朝ドラの制約である。同時に現代社会を表現できないというドラマの限界を示している。現代を描ける朝ドラは、今後も可能であろうかと、ふたたび思うのである。

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