実はとうすれば、フェイスブックから快楽を引き出せるかと、かんがえながらはきているが、一歩の踏み出しができないでいる。つまり、そこまで手がまわらないというか、そんなことを考えている暇がまだないのだ。この間すでに半年余もながれてしまった。年末には、なにかをやれそうとフェイスブックのノートの書き込んだところ、数人が「いいね」」というチェックがあった。その後何も投稿していない。おどろくべきことには事務局は、ほとんど一週間おきには、誰さんと誰さんが、誰のコメントにいいねとしたとか、知人の今日は誕生日とか、この人はあなたのお友達じゃないとか、こんなイベントのお誘いが誰さんからありますとか、知らせてもらえるのだ。この勤勉さ、粘り強さ、持続力を見せられ、ほとほと感心させられている。このメールが、とどかなかったら、すでにフェイスブックを降りていただろうと思う。
実は、あれから、これまで、上演にともに関わったり、企画をしたりした、知人以上ともだち・恋人以下のだれさんかれさんが、友達承認の要請をしてきたが、承認する気にはなれなかった。理由は簡単、なんで、わざわざフェイスブックでやりとりをするような手間をしたいのかという理由不明のことだからだ。電話一本で連絡できるわけだから。
考えてみると、ぼくは、人の誕生日とかにはなんの興味もわかない。自分が企画するイベントのほかにどんな優れたイベントがあるというのか、わらわせるなという傲慢さをもっている。同窓会は、金をいただいても出ない。ぼくは、そんなことよりも、喧嘩をするとか、まわりの奴の悪口を言いまくるとか、あんな奴の顔もみたくないとか、こんな話が、極上のうまみと清新な活性をもたらしてくれるのだ。それが批評の根底であると、信じている。だから、あ奴の不幸が味わえる話とかに、この宮崎市でのなによりの快楽を感じるのである。ぺらぺらとお上品なことを会話して、なんの役に立つというのか、そんな話は聞きたくもないし、もちろん、だれかれと見境もなく、この悪口・不幸話をするほど、アホにもなれないので、毎日の日常は、耐え難い時間なのである。しかし、今、フェイスブックはぼくにっとって、まさに日常なのである。悪口やあやつの不幸話を投稿したいと思いをもつぼくには、およそ常識はずれの場違いの場であるようにも思う。しかし、フェイスブックの可能性は、快楽という世界への可能性は、必ずあるというのが、またぼくの立場である。今すこし、とんでもない悪い仲間と快楽を共有できるかどうかを、探ってみたいという意欲は残っている。ただ、後、一年くらいはかかると思う。もう少し、ぼくの投稿が開始できる日を気長に待ってほしいと、ひとえにお願い申し上げたい。
実を言えば、フェイスブックは、世界を変えられるという思いがすてられないのである。
実は、あれから、これまで、上演にともに関わったり、企画をしたりした、知人以上ともだち・恋人以下のだれさんかれさんが、友達承認の要請をしてきたが、承認する気にはなれなかった。理由は簡単、なんで、わざわざフェイスブックでやりとりをするような手間をしたいのかという理由不明のことだからだ。電話一本で連絡できるわけだから。
考えてみると、ぼくは、人の誕生日とかにはなんの興味もわかない。自分が企画するイベントのほかにどんな優れたイベントがあるというのか、わらわせるなという傲慢さをもっている。同窓会は、金をいただいても出ない。ぼくは、そんなことよりも、喧嘩をするとか、まわりの奴の悪口を言いまくるとか、あんな奴の顔もみたくないとか、こんな話が、極上のうまみと清新な活性をもたらしてくれるのだ。それが批評の根底であると、信じている。だから、あ奴の不幸が味わえる話とかに、この宮崎市でのなによりの快楽を感じるのである。ぺらぺらとお上品なことを会話して、なんの役に立つというのか、そんな話は聞きたくもないし、もちろん、だれかれと見境もなく、この悪口・不幸話をするほど、アホにもなれないので、毎日の日常は、耐え難い時間なのである。しかし、今、フェイスブックはぼくにっとって、まさに日常なのである。悪口やあやつの不幸話を投稿したいと思いをもつぼくには、およそ常識はずれの場違いの場であるようにも思う。しかし、フェイスブックの可能性は、快楽という世界への可能性は、必ずあるというのが、またぼくの立場である。今すこし、とんでもない悪い仲間と快楽を共有できるかどうかを、探ってみたいという意欲は残っている。ただ、後、一年くらいはかかると思う。もう少し、ぼくの投稿が開始できる日を気長に待ってほしいと、ひとえにお願い申し上げたい。
実を言えば、フェイスブックは、世界を変えられるという思いがすてられないのである。