市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

弱者の灯台

2012-02-04 | 社会
 先日、新聞を資源ごみに出そうとしていた家内が、台所の隅から「松田さんがでてるよ」と声をあげた。映画をつくるんだってと、一枚の新聞を手渡すので、見てみると、1月1日の元旦号で封も切らずにほっといた70ページあまりの一枚で、社会面、その左上段の大きな囲み記事に写真入りであった。宮崎日日新聞1月1日付けの社会面であった。

 松田俊彦君が、近く障害者のドキュメント映画に取り組むことが語られていた。かれは高校生のころクラブ活動で8ミリ映画を製作していた。その後、20歳のときに統合失調症を発症して大学を中退し、向精神薬を服用しながら、社会生活を過ごしてきている。ただし、統合失調症という病気のために、社会的不利という弱者の長い人生を骨身に染みて体験している現実が、かれを映画にふたたび駆り立てることになったのだろうと、ぼくは思う。かれとは95年から98年まで共に宮崎映画祭で実行委員の活動もやったし、喫茶ウイングの常連となったりしてきたが、ここ3年ほどは疎遠になっていたので、この記事には心温まるものがあった。

 ただし、この記事のもっと深い衝撃は、松田君とぼくとの交遊の思い出ではなかったのだ。あのゴミ処理をしようとした元旦新聞の社会面トップに、この記事が掲載されたということである。新聞が新年のスタートに、この弱者の存在を前面に押し出したという事実が、ぼくをおどろかしたのだ。捨てようとした新聞に目を射るようにして、それがあったということである。日常生活を繰り返しているかぎり、松田君の存在はゴミにしかわれわれの感性には訴えない。どうでもいい人が、隣にいるばかりなのだ。働き口も無い、朝もおきられない。禁煙もできない。仕事をしてもながつづきしない。言うこともくるくる変化する。交際の間合いがわからない。そして、そばにいれば気にはなるが、話をするのはちょっとというゴミ化へと捨ててしまうのである。かれは、見た目では、健常者とはほとんど変わらない。だが、仕事がつづかないのも、意志が弱いのも、好きなことしか関心が集中できないのも、内面に巣くっている病気のためなのである。肉体的障害なら、すぐに他人からみとめられるけれども、内心の誤差は、なかなか他人から認識出来ないし、また認識もできないのだ。そして、松田君はこの消費生活謳歌の時代では、役に立たぬゴミとなる。そのゴミを宮崎日日新聞は、今年のスタート地点で大衆の目を引く位置に開催しているのだ。

しかし、こういう人生は、たいがいの人が背負っているものである。いわゆる普通の人は、こんな寒い朝、早起きして会社にいそいそと行ける気分はないのだ。ただ、義務として歯車として、我慢の仕事についているだけであろう。その限り、安い給料と、使い捨て自由の明日無き生活をも強いられる。これが普通なのである。松田君は自身の病気で、それを象徴しているのにすぎない。弱者の存在の灯台でもあるのだと、いえよう。われわれは、その明りでわれわれ自身を知りうるのだ。



 だから、この記事は単なる思い付きとは思えない。その囲み記事には、読者を共感させる現実感があるとしたためである。つまり、ゴミとしか思えなかった存在に、普遍性があることを示したのだ。つまり1パーセントでない99パーセントのわれわれという立場、弱者としての共通点の主張である。他の新聞社の当日の社会面はどうだったのだろうか。毎日新聞も捨てたので今ではわからなくなったが、おそらく、宮日紙は、特出していたのではなかろうか。

 夕べだったか、NHKのニュースで、ユニクロの社員採用で、衣服を変え、常識を変え世界を変える人を、今後は世界中から採用していくと社長がしゃべりまくった。こんな人間は日本人では希薄であろうから、世界中から採用せざるをえないであろう。また、こいいう人間でなくては、世界を相手の企業戦略の立案も営業も可能性はないというのだ。まさにその通りであろうかと思いながらも、どこか可笑しい。これは日本人は要らないということでもある。ますます、企業正社員の枠が狭まるときに、拍車をかけて先頭を切るという企業に、他社はどう対処していくのだろうか。ユニクロの成功は、他社も追随させざるをえなくなるだろう。弱い日本人は、捨てられる。これは日本人の否定であり、国家の否定ではなかろうか。批判であるべきを、否定にもっていくところに、企業の私利追求の危機感を思わせる話であった。この流れは一般に理解しやすいし、やがて「常識を変える」常識として定着していくだろう。

 視点を変えてみれば、思考停止のような発想でしかないものが、大メディアを席捲していくような気配を感じてならない昨年度であったが、今年もその潮流は変わらないように思う。強者こそ、海の灯台の明りとなる時代の闇に、片隅の平凡な弱者に光を当てた新聞社会面が、気持ちをゆすってくれた。これは、意味深い。
コメント
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