「ただちに犬 バイタル・サイン」は、かくして開幕した。そのバイタル・サインとは、そもそもなんの意味か、それに引っかかっていた。バイタルはバイタリティというが、命溢れる活力として一般的である。しかしバイタルは致命的という意味もある。バイタルワンドは致命傷、バイタルクエスチョンは死活問題となり、命ぎりぎりの限界状態をも表す。この陽気な活気と、危機の命の不安の両義とがある。正と負、光と影、昼と夜、まさに命のもつ複雑な両サイドを捉えている言葉なのである。このような両義性は、また「どくんごテント劇」の本質を伝える言葉にもなっている。たんに笑っているだけなら、脳天気であり、重々しいだけなら、中身は空っぽである。そんな演劇から、身を一歩引く、そん思いを託したのかと感じ取れる。それはまた、かれらのぎりぎりの演劇活動の本音を晒しているのかもしれない。
今回のテント芝居も、ぼくは台詞を明確に意味として辿れなかったが、台詞はテント内で、小道具、照明、はためき、風、観客のひとりひとり、音、音楽とすべて融合したメロディ、リズムであるという受け取りしかできなかった。それはもうぼくの言葉に対するおどろきが擦り切れていってるせいであろう。それに比して、子どもたちは、ステージの台詞に鋭く反応できるし、その台詞で気に入った節を暗記して、後で日常的に再現して遊んでいけるのだ。これはすばらしい能力である。ただ、それはぼくには消えてしまっている。たいがいの大人たちはそうなのかもしれない。だから本文は、ただちに犬 バイタル・サインの批評でもレビューでもない。その演劇がぼくに生起させた感情の起伏と捕らえてもらいたい。
今回、生のエネルギーに溢れていたのは、ワタナベ・ヨウコであったようだ。彼女は昨年から客演して、そのまま今年も旅公演に加わったのだが水を得た魚のように陽気に変幻自在に、ステージを泳ぎ、跳ね、観客をどよめかせていた。まさにバイタリティが溢れるばかりの艶姿であった。それを受けて立ったのが、10年ぶりに帰ってきた空葉景朗のプロレスラー並の肉体と、際立つ明瞭な台詞回しにあらためてその演技力を再発見した。そして、もう1人ワタナベと同じく客演の2B 昨年はまだ丸太棒のような動きであったが、それは見違えるような身体表現になり、鋭い動きが楽しめた。動きといえば、女優みほが、陰影の深さをようやく表しだした。これは伊能の演出も功があるのだろうか、これまで一本調子に叫ぶばかりの表現をしていたのが、静かな口調のどこか放心したようなつぶやきを添えるのだった。これほど、正確の内面的な台詞を語れるのか、やはりプロだったのだと再認識させられるほどだったのである。これからの彼女の変貌が楽しみなった。
かれら三人のバイタル・サインの明るい生命力の標しと比べて、暗悪健太と五月うかは、対照的である。3人が奔放に舞台で新しい試みを演じているのと比べると、二人は、なにものも加算してなかった。脇役として背後に引き、影に徹しているのであった。かれらは、表現を発展させるかわりに絞ってきている。ぼくにはそう見えた。それはまた、なぜここまで自粛しなければならぬのかという思いにもつながった。かれらが内面が蔵しているバイタリティを、爆発させる時期ではまだないのだろうか。客演人に安定したステージを提供するための戦略であったのだろうか。今回まさに主役は客演参加の空葉景朗、ワタナベヨウコであり、2Bであり、若いどくんご女優のまほであったように思う。
また、笑いのギャグは、今回も堪能できたのであった。去年は「国民の妹」のシーンがあったが、今回は、リビヤやエジプトの革命兵士の将校が、破壊された市街の瓦礫の広場の隅で、お茶のお手前をしながら、市民の虐殺された悲惨さを報告するシーンが笑えた。軍服と茶、戦場と瓦礫の茶室、幻想と現実の乖離、そのアンバランスの意外性はまさに現代アートのシーンとして、楽しめた。そして、中ごろに挿入された集団のダンスは、テントを沸かせるのであった。
この一夜はまさにヴァルプルギスの夜である。北欧の春の到来を祝う5月1日の夜である。そしてまたゲーテの戯曲「ファスト」の魔女たちがブロッケン山に集まり酒宴を張るという祭りでもある。変わったものたちのサバトであり、それはデンマークやフィランドやドイツの田舎でわかものたちがやる青春の馬鹿騒ぎでもある。唄え飲め、この夜は、そして春の到来を祈り、生気をとりもどすフリークたちの集合であり、そして一夜明ければ、もとの日常の平凡な人生にとじこめらていく。これが人生であり、バイタル・サインである。これで良い、ぼくはそう思った。11月中旬、ふたたび宮崎市で上演される。全国ツアーのあと、ただちに犬はどう変化するのか、それも楽しみ、さて、今日、宮崎は、いきなり夏になったしまったけれど、かれらの全国旅ツアーの安全と成功を祈って筆を擱く。
今回のテント芝居も、ぼくは台詞を明確に意味として辿れなかったが、台詞はテント内で、小道具、照明、はためき、風、観客のひとりひとり、音、音楽とすべて融合したメロディ、リズムであるという受け取りしかできなかった。それはもうぼくの言葉に対するおどろきが擦り切れていってるせいであろう。それに比して、子どもたちは、ステージの台詞に鋭く反応できるし、その台詞で気に入った節を暗記して、後で日常的に再現して遊んでいけるのだ。これはすばらしい能力である。ただ、それはぼくには消えてしまっている。たいがいの大人たちはそうなのかもしれない。だから本文は、ただちに犬 バイタル・サインの批評でもレビューでもない。その演劇がぼくに生起させた感情の起伏と捕らえてもらいたい。
今回、生のエネルギーに溢れていたのは、ワタナベ・ヨウコであったようだ。彼女は昨年から客演して、そのまま今年も旅公演に加わったのだが水を得た魚のように陽気に変幻自在に、ステージを泳ぎ、跳ね、観客をどよめかせていた。まさにバイタリティが溢れるばかりの艶姿であった。それを受けて立ったのが、10年ぶりに帰ってきた空葉景朗のプロレスラー並の肉体と、際立つ明瞭な台詞回しにあらためてその演技力を再発見した。そして、もう1人ワタナベと同じく客演の2B 昨年はまだ丸太棒のような動きであったが、それは見違えるような身体表現になり、鋭い動きが楽しめた。動きといえば、女優みほが、陰影の深さをようやく表しだした。これは伊能の演出も功があるのだろうか、これまで一本調子に叫ぶばかりの表現をしていたのが、静かな口調のどこか放心したようなつぶやきを添えるのだった。これほど、正確の内面的な台詞を語れるのか、やはりプロだったのだと再認識させられるほどだったのである。これからの彼女の変貌が楽しみなった。
かれら三人のバイタル・サインの明るい生命力の標しと比べて、暗悪健太と五月うかは、対照的である。3人が奔放に舞台で新しい試みを演じているのと比べると、二人は、なにものも加算してなかった。脇役として背後に引き、影に徹しているのであった。かれらは、表現を発展させるかわりに絞ってきている。ぼくにはそう見えた。それはまた、なぜここまで自粛しなければならぬのかという思いにもつながった。かれらが内面が蔵しているバイタリティを、爆発させる時期ではまだないのだろうか。客演人に安定したステージを提供するための戦略であったのだろうか。今回まさに主役は客演参加の空葉景朗、ワタナベヨウコであり、2Bであり、若いどくんご女優のまほであったように思う。
また、笑いのギャグは、今回も堪能できたのであった。去年は「国民の妹」のシーンがあったが、今回は、リビヤやエジプトの革命兵士の将校が、破壊された市街の瓦礫の広場の隅で、お茶のお手前をしながら、市民の虐殺された悲惨さを報告するシーンが笑えた。軍服と茶、戦場と瓦礫の茶室、幻想と現実の乖離、そのアンバランスの意外性はまさに現代アートのシーンとして、楽しめた。そして、中ごろに挿入された集団のダンスは、テントを沸かせるのであった。
この一夜はまさにヴァルプルギスの夜である。北欧の春の到来を祝う5月1日の夜である。そしてまたゲーテの戯曲「ファスト」の魔女たちがブロッケン山に集まり酒宴を張るという祭りでもある。変わったものたちのサバトであり、それはデンマークやフィランドやドイツの田舎でわかものたちがやる青春の馬鹿騒ぎでもある。唄え飲め、この夜は、そして春の到来を祈り、生気をとりもどすフリークたちの集合であり、そして一夜明ければ、もとの日常の平凡な人生にとじこめらていく。これが人生であり、バイタル・サインである。これで良い、ぼくはそう思った。11月中旬、ふたたび宮崎市で上演される。全国ツアーのあと、ただちに犬はどう変化するのか、それも楽しみ、さて、今日、宮崎は、いきなり夏になったしまったけれど、かれらの全国旅ツアーの安全と成功を祈って筆を擱く。