今年のGWは、3.11の東日本大震災と福島原発災禍を背後に感じての毎日であったが、そのためか、今年のGDは異常な天候であったという意識をほとんど自覚できなかったのではないか。小雨か曇りの連日というゴールデン・ウィークは、まさに異例であった。童話によくあるように豊作が7年つづいたあとに飢饉が7年つづきましたと、あれは言葉のあやではなくて、恐るべき自然の現実をあらわしているのだと思う。何年も異変はつづくようである。
29日「昭和の日」には、霧島の旧林田温泉ホテルに泊まった。あの人気の絶えた露店風呂で、過ぎ去った70年代のわが一家を、つまり昭和に生きた活気あふれたファミリーライフを回想したのだが、3日、4日とふたたび、鹿児島県出水市(鶴の飛来地として有名)の義妹夫婦の家を訪れた。自動車で訪れるのも12,3年ぶりであった。あっという間に時間が流れ去っていたのだ。興味があったので、近道と聞いたルートを選び、有料道路を栗野でなくて、一つ先の横川で降りて、近道と聞いたルートを辿りだした。しかし、途中でルートから逸れてしまって、山中に紛れ込んでしまった。ただ、この道は何十年も前に峠を越して行く出水への道であったことを、切れ切れに思い出すことはできた。しかし、それにしてもあまりにもお粗末な舗装、そして道路はついに2車線から自動車一台がやっと走れる山道に変わってしまった。迫る山肌、切り立つ崖ぶちを曲がりくねって連なる自動車道などが、現在、存在していること事態がおかしなことに感じられるのであった。以前はこんな道路は、どこにも当たり前として存在していたのを、すっかり忘却してしまったいるのを自覚できるのであった。感覚は、いつまのまにか、このような不便な道路の存在を受け付けなくなってしまっていたのだ。つまり変えられてしまっていたのだ。
今回、義妹夫婦には、人生のリセットをいうことを話題にしようと思っていた矢先の山道を走ったことは、生きるというライフスタイルが、自分で意識しないまま、いかに激しく変容させられるかを、まざまざと自覚させられたのであった。だったら知らぬ間に、変えられるよりも自分で変えることこそ、生きるに値するのではないかと思うのであった。
3.11以後、被災者とともにぼくらの生活も変わっていくはずだ。いや変わらなければ、この災禍は真に解決できない。それ以前の生活を以前のまま復活させることも不可能であるが、その再現は豊かな人生の意味を保障しない。またふたたび、同じ惨禍を招くしかないからである。だから、それぞれに復活の人生目標は、リセットして、新たなライフスタイルを確立していくしかない。
さて、ぼくは日本国家とか国民がということを、一応、視野に入れない。ただ、僕自身のためにそれを考える。だから、それは妄想というこになるかもしれないが、ぼくにとっては、なによりも確実な現実であることは確かだ。ここからスタートしてみようとしている。その目標は、一つは「貧乏への道」である。さらにもう一つは「環境料理」である。これから、この内容を具体的に書きつづけることにしていきたい。今は、環境料理という造語について、ここで触れておきたい。
環境とは、自分が生活している場所のことであるが、それを料理するとは、環境を言語で表現することを意味している。料理しなければこの「場所」は食えないのだということを、ようやく理解できるようになったわけである。つまり、これまで、環境を批判することやギャグして野次ることで、なんらかの提言したつもりでいたが、この5年間、これでなにか環境が変わったとか、そんな兆候も反応もなく、提言の無意味さを今頃になってようやく自覚できるような始末である。
しかし、環境を言葉で表現することはぼくにとって絶対に必要である。いやそういうおもしろさがなければこの環境を生きる意味がないではないかと感じるようになってきていた。そこまで思いいたったときに、自覚できることは、環境を変えようと提言するということでなくて、食えるように料理してみることではないかと、料理して食ってみることであったと言えるのだ。まさに自分本位であり、自分で食えるか食えないかが、美味しいか不味いか、そもそも食材として有効だったかどうか、そんなことではないかと思うようなった。
これが環境料理の意味であり、これからやろうとしていることである。つまり料理は人にも提供してみたい。そんな欲望があるがゆえに、環境料理をこのブログに発表していくことになる。ばかかあほかと言われても今はそれしかないのも現実である。
今日、土曜日も曇りである。ゴールデン・ウィーク、連日、曇りもしくは小雨に日々であったが、宮崎県の猛烈な水不足が満たされることなかった。綾の照葉樹林の一部の樹木は立ち枯れを始めた。全体の生態系の破壊が危惧されてきている。なんのための曇天、小雨か。この嫌がらせの天候の意味が深まる。
29日「昭和の日」には、霧島の旧林田温泉ホテルに泊まった。あの人気の絶えた露店風呂で、過ぎ去った70年代のわが一家を、つまり昭和に生きた活気あふれたファミリーライフを回想したのだが、3日、4日とふたたび、鹿児島県出水市(鶴の飛来地として有名)の義妹夫婦の家を訪れた。自動車で訪れるのも12,3年ぶりであった。あっという間に時間が流れ去っていたのだ。興味があったので、近道と聞いたルートを選び、有料道路を栗野でなくて、一つ先の横川で降りて、近道と聞いたルートを辿りだした。しかし、途中でルートから逸れてしまって、山中に紛れ込んでしまった。ただ、この道は何十年も前に峠を越して行く出水への道であったことを、切れ切れに思い出すことはできた。しかし、それにしてもあまりにもお粗末な舗装、そして道路はついに2車線から自動車一台がやっと走れる山道に変わってしまった。迫る山肌、切り立つ崖ぶちを曲がりくねって連なる自動車道などが、現在、存在していること事態がおかしなことに感じられるのであった。以前はこんな道路は、どこにも当たり前として存在していたのを、すっかり忘却してしまったいるのを自覚できるのであった。感覚は、いつまのまにか、このような不便な道路の存在を受け付けなくなってしまっていたのだ。つまり変えられてしまっていたのだ。
今回、義妹夫婦には、人生のリセットをいうことを話題にしようと思っていた矢先の山道を走ったことは、生きるというライフスタイルが、自分で意識しないまま、いかに激しく変容させられるかを、まざまざと自覚させられたのであった。だったら知らぬ間に、変えられるよりも自分で変えることこそ、生きるに値するのではないかと思うのであった。
3.11以後、被災者とともにぼくらの生活も変わっていくはずだ。いや変わらなければ、この災禍は真に解決できない。それ以前の生活を以前のまま復活させることも不可能であるが、その再現は豊かな人生の意味を保障しない。またふたたび、同じ惨禍を招くしかないからである。だから、それぞれに復活の人生目標は、リセットして、新たなライフスタイルを確立していくしかない。
さて、ぼくは日本国家とか国民がということを、一応、視野に入れない。ただ、僕自身のためにそれを考える。だから、それは妄想というこになるかもしれないが、ぼくにとっては、なによりも確実な現実であることは確かだ。ここからスタートしてみようとしている。その目標は、一つは「貧乏への道」である。さらにもう一つは「環境料理」である。これから、この内容を具体的に書きつづけることにしていきたい。今は、環境料理という造語について、ここで触れておきたい。
環境とは、自分が生活している場所のことであるが、それを料理するとは、環境を言語で表現することを意味している。料理しなければこの「場所」は食えないのだということを、ようやく理解できるようになったわけである。つまり、これまで、環境を批判することやギャグして野次ることで、なんらかの提言したつもりでいたが、この5年間、これでなにか環境が変わったとか、そんな兆候も反応もなく、提言の無意味さを今頃になってようやく自覚できるような始末である。
しかし、環境を言葉で表現することはぼくにとって絶対に必要である。いやそういうおもしろさがなければこの環境を生きる意味がないではないかと感じるようになってきていた。そこまで思いいたったときに、自覚できることは、環境を変えようと提言するということでなくて、食えるように料理してみることではないかと、料理して食ってみることであったと言えるのだ。まさに自分本位であり、自分で食えるか食えないかが、美味しいか不味いか、そもそも食材として有効だったかどうか、そんなことではないかと思うようなった。
これが環境料理の意味であり、これからやろうとしていることである。つまり料理は人にも提供してみたい。そんな欲望があるがゆえに、環境料理をこのブログに発表していくことになる。ばかかあほかと言われても今はそれしかないのも現実である。
今日、土曜日も曇りである。ゴールデン・ウィーク、連日、曇りもしくは小雨に日々であったが、宮崎県の猛烈な水不足が満たされることなかった。綾の照葉樹林の一部の樹木は立ち枯れを始めた。全体の生態系の破壊が危惧されてきている。なんのための曇天、小雨か。この嫌がらせの天候の意味が深まる。