市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

映画クヒオ大佐 を見る 詐欺師と世界

2010-05-08 | Weblog
映画クヒオ大佐は、詐欺師の物語である。詐欺師の話というのは、昔からお馴染みのテーマで何度繰り返されても、いつでも面白い。まさに古くて新しいテーマともいえるものだ。しかし、吉田大八監督のこのクヒオ大佐は、きわめて今様であり、今見るのがベストタイム、時期をはずすな、旬を味わえる現代の作品なのだと言いたい。その理由が、ここに述べる主題である。あなたが、まだ映画を観てないなら,観てから本論考を読まれることを願いたい。この映画のおもしろさには理屈など不要であるばかりか、へたな理屈は邪魔になるからである。

 映画はまず冒頭、第1部・タイトル血と砂漠と金の文字が毒々しいまでの筆致でスクリーンいっぱいに描かれ、1990年の第一次湾岸戦争のニュース映画が流される。日本は米国の湾岸戦争に120億の巨額な戦費をさしだしたが、世界中だれも感謝されなかったと、いう締めくくりで終わり、第2部クヒオ大佐となる。こんどは、真っ暗なスクリーンに小さなゴジック活字の白抜きに過ぎず、本編なはずなのにと、頭を傾げさせられる。だが、それゆえに湾岸戦争導入部の唐突感がいっそう深まり、理由がつまめず、混迷のまま物語に入っていくわけであった。第1部の時間は、後でビデオで測ると4分12秒であった。はたして、導入部と本編の接合をスムーズにつながったと受け取れた観客はいるのだろうか、もしいるとしたら、それはすでに先入観、前もっての情報で支配された結果ではなかったろうかと、ぼくには思えるのである。この唐突さが解消できるのは、見終わった後からでる。それも解消する意思があればの話ではあると思えるほど、この導入部は理解を拒むほど突飛とさへ感じられる。素直に見れば、要は、詐欺師としえ登場するクヒオ大佐は、米国海軍特殊部隊パイロットという役割の説明背景となるにはなるが、それを言うには、あまりに大げさである。冒頭の湾岸戦争シーンは、そこで、唐突さを意図した確信犯的な演出を感じさせられるのである。

 クヒオ大佐は、堺雅人によって演じられる。すでにこの起用で、詐欺師をどうリアルに描くは、解決済みとなったようである。かれのキャラクターは、まさに真実と虚偽の混じりじりあった人物像になっているからだ。先年、かれは「新撰組」「篤姫」のNHK大河ドラマで国民的人気をえた。その役柄を思いだしてみよう。どちらの役柄も、権力組織の中枢にありながら、そこから、はみ出している位置にある。新選組みでは、武力集団に属しながら会計、主計役であり、篤姫では、将軍でありながら痴呆者を装いつづけて、将軍職から責任を回避しつつける。強固な制度、組織から、はみ出し、転げ落ちる人生を自ら選んでしまっているのだ。だから制度・組織のがわからすれば、役に立たない虚な存在である。だが、このはみ出た位置からの視線では、つまりかれの意識をとおしては、将軍、新撰組の制度・組織こそが、虚妄でしかないことを納得させられる。この逆転により、視聴者の共感を呼び起こしたのだといえる。堺雅人の頭からスーっと虚空に消えていくような台詞のトーンは、なにを語っても真実を説くように感じられ、同時に語る内容を虚妄にしてしまう。そのことで真実は相対化される。こうして、すでに詐欺師は、完璧に現れてくるのだ。

 そこで、通常の詐欺師物語、スティングやオーシャンズ13などのように、詐欺の行動の徹頭徹尾リアルな手口、マジック的なだましの技の積み上げによるストーリー展開など不要なのだ。クヒオ大佐は、そのようなリアルさは必要としないのだ。それは目的とされてないというのに気づかされる。前の吉田監督の作品「腑抜けども悲しみの愛を見せろ」を見たとき思ったのだが、あの映画とおなじように、このクヒオ大佐にも、漫画の「駒割」のようシーンの連なりという感じがするのだ。そこに吹き出しの台詞があったり書き込みの擬音があったりのシーンをつぎつぎと見ていくようなかんじになってしまうのだ。これら駒割りめいたシーンは、演劇の舞台を思わせる。きっちりとした輪郭、だが日常の写実的な描写ではない。人物がリアルな映像として再現されているのでなく、一片の要素として、いうなれば「記号」として置かれてあると思えるのだ。その記号が問題であろう。つまりクヒオ大佐の詐欺のくどくどした手管の具体的描写はいらない。ここにあるのはクヒオ大佐を通して、詐欺の意味を、ことばで読んでいくような自由さがあり、象徴性を看取できるのであった。それが軽快である。

 もちろんこの記号化は詐欺を受けた女性たちの描写にもいえ、どこか現実の女性像というよりもクヒオ大佐と主語、述語の組み合わせになった様な静止しているような象徴化をなしてる。このあたりの構造的なことは、ややこしいのだが、これがぼくの印象だと言うほかはないのである、できれば最後まで読み続けて欲しい。

 つまり、クヒオ大佐が詐欺師として本物らしいかどうかというのは、この映画ではまったく抹消なことだといいたいわけである。たとえば、今頃、アメリカ軍パイロットであるということだけでふらふらと参ってしまう日本人などいるわけはないのだ。1950年代ごろまではアメリカは憧れの国であり欧米人にいかれるものも当たり前であったろうが、こんなことはありえないだろう。しかし、大佐には惹かれるものがある。それはあの凛々しい軍服である。すぐに思いだせるのは、漫画「沈黙の艦隊」の艦長、アニメ「ジパング」のヒーロー旧海軍の士官服姿である。ここにも記号化がある。その凛々しさという記号で、クヒオ大佐の真実感は、抵抗なく伝わってくる・・。以下次回に

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