市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

班長さん 骨粗鬆症

2010-05-01 | 宮崎市の文化
 ようやく、おだやかな春の日が来た。明日から4連休、最終日には、2年ぶりにEと再会できる。かっての黒テント劇団宮崎市公演でのプロデュースに際して有能な実行委員長をやってもらえた女性である。これもゴールデンウィークのおかげである。日々は飛ぶごとく経過していく。

 班長さんとして、ようやく先週日曜日に町内会費2400円を集金してまわった。ほとんどの世帯はすでにつり銭のないようにと、準備されていた。ふと、人の暖かさを感じて、班長割り当ての不愉快感が消えていく感じ。今朝は土曜日、穏やかな日差しを浴びて、14世帯の住宅が古くもなく新しくいでもなく、近所の屋並をなしている。そう、ここですでに40年ちかくの月日が流れている。どの家屋も耐火の新建材の壁なので、いつまでも新しく、歳月の経ったのを思わせない。この界隈がわが隣保12班の家々であるのだ。ところが、すでに5世帯が一人住まいとなり、その4人が80歳を越えている。それに来年は80歳になる夫婦だけの2世帯が加わる。高校生のいる家庭は1世帯のみ、他に2世帯が成人したこどもがひとりづつ同居している。14世帯の半数がシングル、子供の姿も消えて、およそ半分が80歳を越える世帯主となってしまう。

 春の日差しを浴びて穏やかに並んでいる住居には、子どももいなく、連れ合いもいない家族、いつのまにかそんな世帯に変わってしまっていたのだ。戦後、職住が分離され、あちこちの村や町からの移住者がここに住居を建てた。その若い夫婦たちの家族が隣近所を形成した。それは核家族と揶揄された小さな家族であったが、子どもたちの活発な声が聞こえ、小学校に通う姿が溢れ、家族連れとなった連休や日曜日の賑わいがあった。今はすべてが去ってしまったのだ。深閑として沈黙しているわが隣保班、ついこの前に建ったような面影を残して立ち並んでいる住宅地をみて、その大半がもはや一人世帯であり、老人ばかりの世帯だとは、想像できないであろう。

 この家屋からは、一つ一つ家族という中身が消えていっている。見た目はかわらないが、中身は変容してしまった、それはまさしく「骨粗鬆症(こつそしょうしょう)」の症状を連想させるものとなった。骨に小さな穴が多発した症状になんと似ていることだろうか。外からは見えない。骨は痛み、変形し、日常性の衝撃一つで骨折、高齢者であるなら、そのまま寝たきりになってしまう。この事実を連想したときに、回覧版で象徴されるご近所コミュニティ幻想の空しさを思い知らされるのである。公園清掃日、班内清掃日、敬老会、夏祭りなどなどの町内企画・主催によるあらゆる行事が、この穴をもとのように充填して、正常な骨、つまり地区コミュニティを形成することは、不可能である。これらの町内行事は、まさに建前にすぎないだろう。モラルだけが選考し、判断を損なう過ちと、なりかねない企画ではないかと思えてならないのだ。

 なぜ、誤るのか。それは適切な治療でなく有効性がないばかりか、破壊を進めるからである。それはまた、外の見かけだけの視覚に投影された光景だけの判断で、コミュニティが続いて、存在しているとして、コミュイニティ税を創設した前津村市長行政とにたような幻想にすぎない。前市長は、いつも視覚だけが判断の基盤となっていたようである。例のシンガポールの都市幻想もそれで、見た目のシンガポールのような美しい都市にすると、宮崎市の都市開発にその幻想を持ち込んできた。そして、街区の多くを均質、のっぺらぼうの街にしてしまった。見かけだけしか見えない、洞察力という判断が加えられない都市計画の結果、発展を期した街の中心市街地は、逆にほぼ崩壊に追い込まれている。もっともそれがわれわれ市民の半数を越えたものたちの常識でもあったので、かれのみを責めるわけにも行かぬわけだが、もうそろそろ、思考の転換を図らねばと思う。

 穴を埋めるには、穴を正しく認識して、必要なエネルギーを外部から導入するしかない。表面の見かけに囚われず、まずは正確な判断が必要だ。80歳を越えだした人々を当番制にして公園清掃などやっている場合ではないだろう。まして旧態以前たる敬老会、夏祭りなどの企画は不要でしかない。班はもちろん、町内全体のエネルギーの快復は、このようなたんなる習慣の継続でなくて、まさに必要なものを生み出す創意工夫が必要である。つい昨日みた中国の上海の孤立老人問題の解決策として、親孝行契約書というのをこどもに書かせ、隣保班が契約を実施させ、監督しているテレビ放映を視聴した。ほんとああいう全体主義国家に生まれてこなくて、助かったと思う。この路線でいけば、隣保班で隣の独居老人の面倒をみる契約をさせられるとなってしまいかねない発想ではないか。つまりそこにあるのはモラル主義である。隣人を労わるというモラルはだれも抵抗できないのだ。だがそれを強制するなら、それはモラルが変じて義務となり枷となって人々の自律を奪ってしまう。自律を促すエネルギーは、強制された関係では発生しない。こんな憐れな活動だけは避けねばならぬ。


 じつはよく観察すると、それぞれの高齢者は、さまざまの仕方で外部からのエネルギーを吸収しているのだ。畑仕事が好きで、借地で畑を作ってしまい、その農地の近くの生産農家と交流が生まれた人。公園で今は一日遊んでいる老人、やがてなにかが生まれるかもしれない。弁当だけもって集まる仲間。スポーツセンターの常連、毎朝の交通整理のボランティア、その他習い事、NPO活動などなど、かれらは、隣近所でなくて、それぞれが外部との交流をもっている。それは多種多様に存在しているのである。この交流は、コミュニティというよりネットワークである。コミュニティ税などで近隣の和を高めるなどという発想ではなくて、それぞれのこうした自発性を如何に援助していくかが必要であろう。その援助とはなにか、それは簡単に言えば、あんたの頭で思いつくような余計なことをまずするな!ということである。80年の人生が生み出した知恵は、そうかんたんにつぶれないということを注意していくことが大事であろう。
 
 「骨は建築物に用いられる鉄骨などとは異なり、正常時は常に骨芽細胞と破骨細胞によって形成・吸収がバランスよく行われ、古い骨を壊し新しい骨を作り一定の量を保っている。」という。そこに、形成・吸収のバランスが崩れたときに、骨粗鬆症状が現れてくる。隣保班には、この回路が断たれているのだ。もはやこの住居地だけでは症状改善には限界がある。個人、個人で回路を外部と結ぶしかないわけだ。これはもっと壮大な夢のような出来事と結びついているのだ。その想像力をまず拡大することから班長さんは始めようかと思う次第である。
コメント
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