ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。

曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

アッシジの聖フランチェスコ

2008-07-04 23:14:13 | アーツマネジメント
アッシジの聖フランチェスコといえば、私にとっては、映画「ブラザーサン・シスタームーン」(フランコ・ゼフィレッリ監督、1972年)であった。

もうすでに細かいことまで正確に覚えていないのだが、たぶん学生時代に(名画座で?)見たのであろうから、もはや数十年前のことである。

今よりももっと無知であった学生時代のことであるから、キリスト教に対する知識もほとんどなく、ああ、こういう偉人もいたんだ、という感想しか持たなかったと記憶している。もっと正確に言うと、偉人という感覚も特になくて、こんな純粋な人がこの世に存在したんだ、という中学校の道徳の教科書的な感想を持っただけだったと思う。

それ以来、特に私の記憶に聖フランチェスコとのことが思い出されることはなかったのだが、つい最近、たて続けに聖フランチェスコという人の文明史的意義を感じさせる出来事があった。

ひとつは、塩野七生著「ルネッサンスとは何であったのか」にキリスト教そのものの性質を変えた人物として聖フランチェスコが紹介されている。

塩野によれば、聖フランチェスコの存在が、後のルネッサンスを準備したと言ってよいくらい、彼の思想は異彩を放っており、現代から見ても決して見逃すことのできないほどの重要性を持っているという。

もうひとつは、私が運営委員としてかかわっている東京大学文化資源学研究室公開講座「市民社会再生―文化の射程―」の中で出てきた。
同講座の第4回の講義(6月27日)の講師として登場された南嶋宏さん(女子美術大学教授、前熊本市現代美術館館長。「しま」の字は山が鳥の上にあるのが正式)が、韓国のハンセン死病療養施設を訪ねたときに出会ったハングル文字の書が、聖フランチェスコの言葉を書いてあったものだったという。

南嶋さんが熊本で開催した「ATTITUDE 2002」「ATTITUDE 2007 人間の家 真に歓喜に値するもの」という展覧会は、ハンセン氏病患者が人間としてのもっとも基本的な権利を剥奪された歴史を背負ってきたことを明るみに出した展覧会であり、現代美術展としても大変異色の、しかし、人間の根源的な存在のあり方を見る人につきつけてくるような、鈍いような痛みを伴って心の奥深くに届くような展覧会であるように感じられた。

私がそのように感じたのは、南嶋さんによるスライドを使ったプレゼンテーションを見てのことであったが、現にその展覧会で展示されている現物を見たら、もっと生々しい感情にとらえられたに違いない。

「愛されるより、愛したい」

これは、映画「ブラザーサン、シスタームーン」の公開時に日本語で歌われた主題歌の一節であるが、その言葉の重みを感じられるために私も30年ほどの歳月を過ごす必要があったということなのかも知れない。



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