東京大学文化資源学公開講座「市民社会再生―文化の有効性を探る―」も回を重ねて8回目。去る16日は、NPO法人芸術資源開発機構(ARDA)の並河恵美子さんが登場。
かつて銀座で「ルナミ画廊」を経営していた並河さんが、その後、どういう経緯でアートNPOを設立して「アートデリバリー」などの活動を手がけるようになったかをわかりやすく説明していただいた。
この回のホスト講師は美術ジャーナリストの村田真(むらたまこと)さん。
村田さんの概説によれば、戦後、団体展が中心だった日本の美術界において、1960~70年代に民間の貸し画廊が果たした役割は非常に大きいという。
それ以前は、「読売アンデパンダン展」(1949~63。当初の名称は「日本アンデパンダン展」。1957年から「読売アンデパンダン」展と改称)が日本の前衛的な美術表現を追及するアーティストにとっての貴重な発表の場を提供していたのだが、表現がどんどん過激になり、コントロールできなくなってきたことから1963年に閉幕してしまう。
その後、自由な芸術表現を追求しようとするアーティストたちにとっては、団体展の場ではそれが不可能だったので、唯一それが可能な場所が貸し画廊だったのだという。
有名無名を問わず、場所代さえ払えば、そこで新しい表現を発表することが可能だったのだから、機会の提供や知られざる才能の発掘の意味でも、貸し画廊の活動自体が公共性を持っていたのだと言ってよい。
言わば、欧米でオルタナティブ・スペースと言われていたような機能を、日本では民間の貸し画廊が一定程度担っていた、という側面がある、ということだ。
それが、後に公立の美術館やギャラリーが増えるにつれて、それらとの区別のために(ということなのだろうか)、民間の貸し画廊の活動について、単なる不動産業だ、というような言われ方をされたこともあったという。
やや余談になるが、当時、そういう趣旨の発言をしたのが村田氏であると巷間間違って伝わったことがあったそうで、そのことで並河さんとの間で論争になったことがあったという。村田氏自身によると、そのような発言を行った事実はなく、その後、自身でそのあたりの事情について書いた文章もあるという。
(注)このくだりは、私がこの日(講義のあとで)初めて聞いた事情を伝聞のかたちで書いているので、正確ではないところもあるかもしれない。ご注意されたい。
並河さんのこれまでの活動をたどってみると、80年代に画廊からスタートし、オーストラリアとの間で民間主導の国際美術展を手がけ、90年代初めにはアーティスト・イン・レジデンスの試みを始め、96年からは、日本初の本格的な「共同メセナ」の試みとして始まった「ドキュメント2000」プロジェクトで「アートデリバリー」をスタートさせている。
私が今回の並河さんの話を聞いていて、直感として思いあたったことがある。
並河さんが、日本にアーツ・マネジメントやメセナ、NPOという概念も実態もなかった時代から、常に先駆的な活動を続けてきた秘訣は、損得を絡ませることなく、自分のやりたいことを実現させるためにそのことをシンプルかつストレートにまわりに訴えかけ、自分で行動して来られたからだろう。言わば、時代の要請する公共性が並河さんたちの活動によって視覚化され現実化されてきた、という側面があるのだろうと思う。
今まで日本の社会になかったもの(こと)を実現させようという行動であり、しかも、それが実現してみれば社会全体にとって意味があることに思えるのだから、それこそが公共性でなくて何だろう。
講義の最後の質問タイムで、そのように常に新しい活動を続けてきた並河さんの行動の原動力となったものは何だったのか、との質問があった。
それに対する並河さんの答えは、「好奇心」というものであった。それ自体に説得力があることはもちろんだが、私には、次の言葉が特に印象深かった。
それはどういう言葉だったかというと、並河さんは、今、ただ作品を見せるだけでは美術館のあり方としてまったく不十分である、そのことには美術館にいる人たちは、みんなもう気づいている、と指摘したのである(注)。
(注)以前、このブログで、ベルリン・フィルの楽団員の言葉としてまったく同じ趣旨の発言を紹介したことがある。
→ ベルリン・フィルと子どもたち (2005/02/05)
現場の空気を感じている人たちはそれに気づいている。では、もっと広く、社会全体がそれに気づくのはいつか。あるいは、文化政策がそれに追いつくのはいつのことになるだろうか。
この分野に直接関わっている身としては、他人事ごとではいられない指摘である。
かつて銀座で「ルナミ画廊」を経営していた並河さんが、その後、どういう経緯でアートNPOを設立して「アートデリバリー」などの活動を手がけるようになったかをわかりやすく説明していただいた。
この回のホスト講師は美術ジャーナリストの村田真(むらたまこと)さん。
村田さんの概説によれば、戦後、団体展が中心だった日本の美術界において、1960~70年代に民間の貸し画廊が果たした役割は非常に大きいという。
それ以前は、「読売アンデパンダン展」(1949~63。当初の名称は「日本アンデパンダン展」。1957年から「読売アンデパンダン」展と改称)が日本の前衛的な美術表現を追及するアーティストにとっての貴重な発表の場を提供していたのだが、表現がどんどん過激になり、コントロールできなくなってきたことから1963年に閉幕してしまう。
その後、自由な芸術表現を追求しようとするアーティストたちにとっては、団体展の場ではそれが不可能だったので、唯一それが可能な場所が貸し画廊だったのだという。
有名無名を問わず、場所代さえ払えば、そこで新しい表現を発表することが可能だったのだから、機会の提供や知られざる才能の発掘の意味でも、貸し画廊の活動自体が公共性を持っていたのだと言ってよい。
言わば、欧米でオルタナティブ・スペースと言われていたような機能を、日本では民間の貸し画廊が一定程度担っていた、という側面がある、ということだ。
それが、後に公立の美術館やギャラリーが増えるにつれて、それらとの区別のために(ということなのだろうか)、民間の貸し画廊の活動について、単なる不動産業だ、というような言われ方をされたこともあったという。
やや余談になるが、当時、そういう趣旨の発言をしたのが村田氏であると巷間間違って伝わったことがあったそうで、そのことで並河さんとの間で論争になったことがあったという。村田氏自身によると、そのような発言を行った事実はなく、その後、自身でそのあたりの事情について書いた文章もあるという。
(注)このくだりは、私がこの日(講義のあとで)初めて聞いた事情を伝聞のかたちで書いているので、正確ではないところもあるかもしれない。ご注意されたい。
並河さんのこれまでの活動をたどってみると、80年代に画廊からスタートし、オーストラリアとの間で民間主導の国際美術展を手がけ、90年代初めにはアーティスト・イン・レジデンスの試みを始め、96年からは、日本初の本格的な「共同メセナ」の試みとして始まった「ドキュメント2000」プロジェクトで「アートデリバリー」をスタートさせている。
私が今回の並河さんの話を聞いていて、直感として思いあたったことがある。
並河さんが、日本にアーツ・マネジメントやメセナ、NPOという概念も実態もなかった時代から、常に先駆的な活動を続けてきた秘訣は、損得を絡ませることなく、自分のやりたいことを実現させるためにそのことをシンプルかつストレートにまわりに訴えかけ、自分で行動して来られたからだろう。言わば、時代の要請する公共性が並河さんたちの活動によって視覚化され現実化されてきた、という側面があるのだろうと思う。
今まで日本の社会になかったもの(こと)を実現させようという行動であり、しかも、それが実現してみれば社会全体にとって意味があることに思えるのだから、それこそが公共性でなくて何だろう。
講義の最後の質問タイムで、そのように常に新しい活動を続けてきた並河さんの行動の原動力となったものは何だったのか、との質問があった。
それに対する並河さんの答えは、「好奇心」というものであった。それ自体に説得力があることはもちろんだが、私には、次の言葉が特に印象深かった。
それはどういう言葉だったかというと、並河さんは、今、ただ作品を見せるだけでは美術館のあり方としてまったく不十分である、そのことには美術館にいる人たちは、みんなもう気づいている、と指摘したのである(注)。
(注)以前、このブログで、ベルリン・フィルの楽団員の言葉としてまったく同じ趣旨の発言を紹介したことがある。
→ ベルリン・フィルと子どもたち (2005/02/05)
現場の空気を感じている人たちはそれに気づいている。では、もっと広く、社会全体がそれに気づくのはいつか。あるいは、文化政策がそれに追いつくのはいつのことになるだろうか。
この分野に直接関わっている身としては、他人事ごとではいられない指摘である。
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