ひきつづき、映画「笑いの大学」について。周知のように、この映画は、もともと三谷幸喜が舞台作品として書いて大当たりをとった作品の映画化作品である。少しだけ筋立てを説明すると、時代・場所は昭和15年の東京。普段笑いにはまったく縁がなく、軽演劇という存在を憎んでいる警視庁の鬼検閲官(役所広司)と浅草の軽演劇一座の座付作家椿一(稲垣吾郎)の2人が主人公である。作家は「ロミオとジュリエット」のパロディ版「ジュリオとロミエット」という西洋もののアチャラカ芝居の台本の検閲を受けることになり、検閲官から次々に出される無理難題に閉口しながらも、最後まで音をあげることなく粘り強く台本を改訂を進め、結果、苦闘の末に何とか上演許可を勝ち取る。(その間、芝居の題名も和風に「貫一とお宮」に改められる。)そして、検閲官と作家の間には、友情にも似た信頼関係ができあがったように思える。そこに至って、作家は、「お上の命令に従順に従うように見せながら決してくじけることはしない。これは私なりの権力に対する戦いだ」という意味のセリフ(実際のセリフがどうだったかは覚えていないが)を吐く。だが、それを聞いた途端、よき理解者になってくれていたはずの検閲官は「あなたの口からそれを聞きたくなかった」といって直前に与えた許可を取り消す・・・。ここで面白いのは、この作家のセリフがもしも独白として書かれていたならばそれは何ら緊張関係をはらんだものではなく、観客にとってのリアリティが感じられないものとなってしまったであろうということである。言い換えると、権力批判は権力(の末端にいる一官吏)の存在が同一の時空間のフレームの中に設定されていないとリアリティを失う(有効性がない)ということである。そして、そこからさらに話が展開して芝居の最後には検閲官と作家が和解に至るのだが、そうなるのは、作家の軍隊への応召(赤紙)という事態が起こってからである。すなわち、検閲官と作家という対立を無化するような、より大きな構造が劇中で成立したときである。おそらく権力が直接的に発動される場所とは、構造的な必然として、このような末端、周辺にいる人物たちの間に於いてである、と言ってよいのだろう。そうそう。それで思い出したのだが、昨年の「東京国際芸術祭2004」(TIF2004)で上演されたヤーン・カンパニーというスロバキアのグループによる「ロミオとジュリエット」は、そのような中心-周縁、支配-被支配の権力構造を見事に視覚化した非常に刺激的で見事な作品だった。実は、たまたま同じ(1月)20日には、来月から始まる「東京国際芸術祭2005」の記者発表が行われていて(於:東京都豊島区のにしすがも創造舎)、同芸術祭のディレクターの市村氏が会見の中で昨年の「ロミオとジュリエット」公演の衝撃度と現代性について言及していた。それによって、私も同公演を見たときの興奮を久しぶりに思い出していたところであった。
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