ときどき、ドキドキ。ときどき、ふとどき。

曽田修司の備忘録&日々の発見報告集

岡田演劇論による語学学習法

2006-01-06 08:21:19 | その他
以下は、小劇場を中心とする劇評サイト wonderland のインタビュー・コーナーに登場したチェルフィッチュの岡田利規氏の言葉である。

(以下、引用)

岡田 作品の中でノイズを意識的に出したいと僕は考えるんだけど、その場合僕が書いたテキストというものがあったほうがいいんですよね。演劇を作る際には、リハーサルにしろ本番の上演にしろ、繰り返す必要があるわけですけど、即興的だったりその場で観客の参加を組み込んでいない限り、テキストという形で仕込んでおかないと、そのノイズは繰り返しのプロセスの中で消えていくんです。役者に何か即興でしゃべってもらうとしますよね。その話し方にはノイズがあふれています。突っかかったり、うまく言えなかったり、無駄な、頭の悪い話し方をしたりするわけで、そういうのが僕は好きなんです。でもその話を何度も繰り返していくと、その中で当然、話し方に整理が付くし、無駄を端折って上手に、スマートになってくる。で、ぼくにはそれが面白くないわけです。というのがノイジーな脚本を書いている理由の、まあ一つですね。
  あとはまあ、それよりもっと根本的な理由が当然あって、ぼくには書くことへの欲求ってものがそもそもあるわけで、それを満たしたいから書いてるんですけどね、なんか当たり前の話ですけど。

(引用終わり)

ここで言う「ノイズ」とは、意識で統御しきれないもの、意識と身体のずれ、というような意味で使われていると思う。

で、ここからは、演劇論を演劇論として読まないで思い切り実用的なことに応用できるのではないかということで、結構失礼な話かも知れないのだが、たとえば外国語の習得の場合に、同じことが言えそうな気がする。

つまり、普通の外国語習得法というのは、ノイズの部分をナシにしてしまって、最初からきれいに整理された構文を理解し、記憶しようとするのが普通の学習法だと思うのだが、それだと、日常的に言葉をしゃべるときの意識なりカラダの状況なりとは違った状態でしゃべっていることになる。だから、応用が効かないのだ。

これに対して、現地で、ネイティブのしゃべりを直接吸収しているときには、ノイズも含めてその言葉(英語なら英語)を理解しているわけだ。

どちらが応用が効く学習法かは言うまでもない。

さて、これをさらに、おもいっきりつまらない話に展開してしまって恐縮だが、これを大学の講義に置き換えると、教科書に書いてあることをそのまま何の疑問も持たずに理解しようとするのは、前者。
自分でああでもない、こうでもないと苦闘しながら理解しようとするのが後者。これをやってると、なかなかすっきりとした理論にならない。

他の教員の方々はどうなのかわからないが、私の場合は、教える方も苦闘しながら教えようとしているということか。普段はそんなことを考えていたわけではなかったが、そう言えばそういうことになるのかな、と思う。

なお、基礎的な知識を効率よく身につけさせようと思ったら、その場合は前者のやり方の方がいいに違いない。

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